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興味ある記事だったのでコメントをしようとしましたが、長くなってしまいましたので記事にしました。最後までお付き合いください。
それは奈良盆地でヤマト王権が成立したからですが、なぜ奈良県桜井市の纏向遺跡なのかが分かりました。
ヤマト王権は奴国の宮廷楽師だった師升らのクーデターで倭国を奪われた奴国大王スサノヲとニギハヤヒ兄弟の末裔だったのです。旧奴国がヤマトの狗奴国です。師升王は107年に後漢に朝貢し、奴国王にかわって倭国王として認められました。
クーデターを逃れて出雲に逃亡したスサノヲの弟ニギハヤヒが、吉備を平定して奴国を再興しヤマト王権の基礎を築いた人物です(「宋史 王年代紀」第十九代王天照大神尊、スサノヲの姉アマテラスは藤原不比等の創作です)。ニギハヤヒ大王の墓が楯築王墓です。楯築神社の御神体「亀石」の文様は、纏向遺跡の古墳に副葬された弧文円板や弧文石のデザインと同様にヘビを象った模様です。「亀石」にニギハヤヒ大王の顔が彫られており、体はヘビですから、奴(ナーガ、龍蛇神)国の王を示すもので、中国神話の天皇伏羲(ふくぎ)と同じ人面蛇体です。ヤマトの大王を天皇と呼ぶ理由も分かります。ニギハヤヒ大王の末裔が河内や尾張・伊勢方面に展開しました。
スサノヲ大王の子イタケルもクーデターから脱出し、米子の祖母イザナミの実家の縄文海人ムナカタ族に育てられました。その子孫は丹波(タニワ)に拠点を持ち日本海側を支配したムナカタ海人族の王となります。「魏志倭人伝」に登場する狗奴国の官の狗古智卑狗(豊岡市久々比神社の祭神で棟上式の祭神久々遅命)は代々襲名した王名です。六代目辺りが大国主命と呼ばれる列島の大部分を支配した人物で、後に狗奴国ヤマトに滅ぼされます。その史実を基にして出雲の国譲りの神話が作られています。
その大国主命の先代の王が、スサノヲ大王(新羅第四代王脱解のモデル)のコネによって、半島南部の鉄素材を沖ノ島経由でニギハヤヒ大王の子孫の旧奴国(狗奴国)王族に供給して、狗奴国側は勢力を蓄えていました。後漢末期の朝廷の混乱の影響で半島でも韓・濊が暴れて楽浪郡が統制できなくなってしまいます。倭国は楽浪郡を通じて後漢との交易が出来なくなって徐々に衰退していました。
狗奴国の狗古智卑狗は大分県大野川流域から熊本県の阿蘇山麓にかけて半島の鉄素材を持ち込み、鉄製武器を作る鍛冶工房の集落を多数作りました。さらに、熊本県菊池川沿いに最前線の軍事拠点となる集落(方東保田東原遺跡、うてな遺跡)を作って、倭国の佐賀平野・筑紫平野から福岡平野・糸島平野(伊都国の王都三雲遺跡)まで侵攻しました。当時の鉄鏃の出土状況から狗奴国側がかなり優勢で、倭国側を苦しめていたことがわかります。これが二世紀末の倭国大乱です。
(左クリックで拡大)
ところが204年、遼東太守の公孫氏が半島の混乱を収めて、楽浪郡を分割し、南に帯方郡を設置しました。早速、倭国は公孫氏の救援を得て勢力を盛り返し、狗奴国の最前線基地を攻略しました。そこで狗奴国の官狗古智卑狗(大国主の先代)が戦死しました。王子(大国主命)はまだ幼く、王を失って途方に暮れていた、玄界灘を支配していたムナカタ海人の族長赤坂比古(アタカタスミ)を倭国王難升米(魏から詔勅と軍旗が直接授けられているので卑弥呼の男弟で、師升王の子孫の伊都国男王と推理)が懐柔に成功しました。
ムナカタの姫巫女「卑弥呼(宗像女神イチキシマヒメ)」が太陽神のお告げを難升米王に伝えて政治を行うことで両者が合意しました。卑弥呼は海に面した不弥国(ウミコク、宗像市付近)で生まれたようですが、戦乱で物騒になったので、野麻国(ヤマコク、宇佐市安心院町三柱山)に疎開していました。後に、難升米王が魏に朝貢した時に政治的な理由から卑弥呼を倭国女王ということにしたので、野麻国の女王(台)が支配する国という意味で邪馬台国と言う名前として魏に届けました。
これによって、北部九州の倭国は、東部から中・南部九州、中国西部、四国西部、後に四国東部、紀伊半島沿岸部まで加わり、劣勢を逆転して狗奴国を圧倒しました。
そこで、ニギハヤヒ大王直系の子孫の狗奴国王卑弥弓呼(「ひこみこ」の誤写か)は、吉備は危険ですので奈良盆地纏向遺跡に政治都市を作り、各地に散っていた王族らを集めて倭国攻略の作戦を練りました。纏向遺跡の建物建設や大溝や古墳などは唐古・鍵遺跡や河内などの集落の人々(主としてムナカタ海人族と同じ縄文系)が携わって、纏向遺跡に結集した王族たちの食料も彼らが供給したと考えられます。
三輪山麓の纏向遺跡が王都に選ばれた理由ですが、関裕二氏も指摘していましたが、倭国に対面する西側が生駒山地・金剛山地で護られており、もしも倭国に侵攻されても、奈良盆地東側の笠置山地を抜けて東海地方に容易に逃げることが出来る安全な場所だったからだと考えられます。
【参考記事】
【刮目天の古代史】古代史を推理する
【刮目天の古代史】仮説を検証する!
【刮目天の古代史】謎を解明する(^_-)-☆
最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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クーデターを逃れて出雲に逃亡したスサノヲの弟ニギハヤヒが、吉備を平定して奴国を再興しヤマト王権の基礎を築いた人物です(「宋史 王年代紀」第十九代王天照大神尊、スサノヲの姉アマテラスは藤原不比等の創作です)。ニギハヤヒ大王の墓が楯築王墓です。楯築神社の御神体「亀石」の文様は、纏向遺跡の古墳に副葬された弧文円板や弧文石のデザインと同様にヘビを象った模様です。「亀石」にニギハヤヒ大王の顔が彫られており、体はヘビですから、奴(ナーガ、龍蛇神)国の王を示すもので、中国神話の天皇伏羲(ふくぎ)と同じ人面蛇体です。ヤマトの大王を天皇と呼ぶ理由も分かります。ニギハヤヒ大王の末裔が河内や尾張・伊勢方面に展開しました。
スサノヲ大王の子イタケルもクーデターから脱出し、米子の祖母イザナミの実家の縄文海人ムナカタ族に育てられました。その子孫は丹波(タニワ)に拠点を持ち日本海側を支配したムナカタ海人族の王となります。「魏志倭人伝」に登場する狗奴国の官の狗古智卑狗(豊岡市久々比神社の祭神で棟上式の祭神久々遅命)は代々襲名した王名です。六代目辺りが大国主命と呼ばれる列島の大部分を支配した人物で、後に狗奴国ヤマトに滅ぼされます。その史実を基にして出雲の国譲りの神話が作られています。
その大国主命の先代の王が、スサノヲ大王(新羅第四代王脱解のモデル)のコネによって、半島南部の鉄素材を沖ノ島経由でニギハヤヒ大王の子孫の旧奴国(狗奴国)王族に供給して、狗奴国側は勢力を蓄えていました。後漢末期の朝廷の混乱の影響で半島でも韓・濊が暴れて楽浪郡が統制できなくなってしまいます。倭国は楽浪郡を通じて後漢との交易が出来なくなって徐々に衰退していました。
狗奴国の狗古智卑狗は大分県大野川流域から熊本県の阿蘇山麓にかけて半島の鉄素材を持ち込み、鉄製武器を作る鍛冶工房の集落を多数作りました。さらに、熊本県菊池川沿いに最前線の軍事拠点となる集落(方東保田東原遺跡、うてな遺跡)を作って、倭国の佐賀平野・筑紫平野から福岡平野・糸島平野(伊都国の王都三雲遺跡)まで侵攻しました。当時の鉄鏃の出土状況から狗奴国側がかなり優勢で、倭国側を苦しめていたことがわかります。これが二世紀末の倭国大乱です。
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ムナカタの姫巫女「卑弥呼(宗像女神イチキシマヒメ)」が太陽神のお告げを難升米王に伝えて政治を行うことで両者が合意しました。卑弥呼は海に面した不弥国(ウミコク、宗像市付近)で生まれたようですが、戦乱で物騒になったので、野麻国(ヤマコク、宇佐市安心院町三柱山)に疎開していました。後に、難升米王が魏に朝貢した時に政治的な理由から卑弥呼を倭国女王ということにしたので、野麻国の女王(台)が支配する国という意味で邪馬台国と言う名前として魏に届けました。
これによって、北部九州の倭国は、東部から中・南部九州、中国西部、四国西部、後に四国東部、紀伊半島沿岸部まで加わり、劣勢を逆転して狗奴国を圧倒しました。
そこで、ニギハヤヒ大王直系の子孫の狗奴国王卑弥弓呼(「ひこみこ」の誤写か)は、吉備は危険ですので奈良盆地纏向遺跡に政治都市を作り、各地に散っていた王族らを集めて倭国攻略の作戦を練りました。纏向遺跡の建物建設や大溝や古墳などは唐古・鍵遺跡や河内などの集落の人々(主としてムナカタ海人族と同じ縄文系)が携わって、纏向遺跡に結集した王族たちの食料も彼らが供給したと考えられます。
三輪山麓の纏向遺跡が王都に選ばれた理由ですが、関裕二氏も指摘していましたが、倭国に対面する西側が生駒山地・金剛山地で護られており、もしも倭国に侵攻されても、奈良盆地東側の笠置山地を抜けて東海地方に容易に逃げることが出来る安全な場所だったからだと考えられます。
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