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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

イデオロギーが古代史を歪曲する?

2021-10-26 00:01:00 | 古代史
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この動画では「大化の改新」が史実だとしていますが、現代の学会では否定するのが主流です。それはサヨクとかイデオロギーなどとはまったく関係のない、真実を探求する学問の世界なのです。

646年の「改新の詔」に現れる地方行政組織の「郡(こおり)」は、当時は「評(こおり)」が使われており、701年大宝律令以後に「郡」と改められたことが、藤原宮の木簡の発掘から明らかになっています。つまり、大化改新の詔は偽物だということです。また詔にある中央集権化は、すでに聖徳太子が制定したと言われる冠位十二階によって、氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用するという流れがあり、蘇我氏もそれに協力して天皇を中心とする政治を行っていたことが「日本書紀」にあります。したがって「大化の改新」は虚構だと考えられます。

そうなると皇極天皇四年(645年)、三韓(新羅、百済、高句麗)の調の儀式が行われている最中に「乙巳の変(いっしのへん)」で蘇我氏を滅ぼす事件は、三国の使者が目撃することになりますから、それは日本の威信を損なうものでしかなく、ストーリーそのものもデタラメの可能性が高いのです。

中大兄と藤原鎌足がクーデターを行って政治の実権を握ったことは事実でしょうが、そうなると二人はむしろ大和朝廷が行っていた外交政策に反対する立場だった可能性が高いのです。クーデターを成功させた中大兄は中々即位できませんでした。多くの人々が中大兄らのやり方に抵抗したからだと考えられます。

中大兄は、すでに660年に唐・新羅の連合軍によって滅ぼされた百済を再興する為に、兵5,000と軍船170艘を百済王子豊璋(ほうしょう)に与え、白村江の戦いで敗北する失策をやっています。敗北後に、大宰府防衛のために水城と大野城を築くほか、対馬、長門、讃岐、大和にも急きょ山城を築き、都を近江に遷して即位したとあります。関裕二氏は鎌足が豊璋だという説を出していますが、かなり説得力があります。

そういう目で見れば、動画にある聖徳太子の子の上宮王家山背大兄王一族が皇位争いで蘇我入鹿に追い詰められて自害する話なども、あり得ない作り話だと直ぐに分かります。入鹿の従弟にあたるとされる山背大兄王ではなく、蘇我氏一族ではない舒明天皇の皇子の古人大兄皇子を蘇我氏が皇位につけるなどは考えられない話です。(2021.11.6 赤字訂正)

聖徳太子の存在も、中大兄と藤原鎌足が行った悪行の事実を隠すために作られた架空の人物像なのです。太子が偉大な聖人であればあるほど上宮王家を滅ぼした蘇我氏は、亡ぼされても当然の悪人になる構図だと、関裕二氏が指摘しています。蘇我入鹿は架空の人物で、馬子と蝦夷は天皇だったことも渡辺康則氏の万葉集の研究から分かって来ています。中大兄も皇子とは「日本書紀」にありませんから、天智天皇として即位していなかったかもしれません。橿原市小綱町(しょうこちょう)の入鹿神社が存在しても朝廷によって破壊されていないのですから面白いですね。

万葉集研究から中大兄の両親である舒明天皇も皇極・斉明天皇も架空の人物と分かって来ています。最初の女帝の推古天皇も「隋書 倭伝」の記述から男の天皇だったことがわかりますから、天武天皇の崩御後に皇位を奪った皇后鵜野讃良(うののさらら、持統天皇)の前の二人の女帝は前例を創作するための藤原不比等のフェイクだったのです。持統天皇から後のすべての女性天皇も、女性特有の事情から天皇の宮中祭祀を完全に行えないので、本当の天皇ではなく称制と見るのが正しいようです。江戸時代のご皇室の菩提寺に掲げられた肖像画に二人の女性天皇のものがないとのことです(注1)。女性差別ではなく役割の違いなのです。

「日本書紀」の神話は、出雲の国譲りなどで藤原氏の遠祖タケミカズチ(春日大社・鹿島神宮の祭神)に活躍させる内容になっていますから不比等によって創作されたものだと分かります。正史は権力者が権力を維持する正当性を主張するために作られるものですので、権力者にとって不都合な真実は隠蔽され、歴史が改ざんされます。「日本書紀」は天皇家の祖先の日向三代の神話や雄略・武烈天皇の悪行も伝える、天皇家すら貶める記事も見られますから、天皇家の歴史書であるはずありません。日本の建国で活躍した先祖を持つ古代豪族を抑えて、鎌足らの朝廷に歯向かったトンデモない悪行を隠してそれを正当化し、藤原氏のみが繁栄するように創作された勝者の歴史書なのです。

江戸時代の文化人らは天照大御神が男神で、その正体はヘビだと知っていました。しかし、明治時代に西洋列強に対抗するために国民を「記紀神話」に基づく復古神道でまとめる必要があり、国家神道を創設し、学校教育で「記紀」の内容を国史として国民全員に教育しました。それが戦後も生き続けているのです。

ヤマト王権は三世紀初頭に突然登場した纏向遺跡で始まっていることは、その象徴である前方後円墳の発祥地であることからも明らかになっています。九州の勢力が武力で成立させたという神武東征神話は、纏向遺跡の外来土器の発掘から虚構だと分かっています。三世紀の奈良盆地で九州の土器はほとんどありませんし、大規模な戦争があった証拠も発見されていません。逆に近畿の庄内式土器や東海のS字甕が北部九州で数多く発見されています。当時の鉄鏃・銅鏃の出土状況からも畿内の勢力が北部九州を拠点とする倭国を滅ぼして、奈良盆地で王権が成立したことが考古学的に分かっているのです。

ですから保守に人気のある神武天皇東征説は現在では学説とは呼べないものなので、学問的に全く相手にされないのですが、専門家がほとんど構ってくれないのでイデオロギー問題にしているようです。

 この動画を作成した方は戦後の歴史教育を批判し、日本国民統合のための国史教育の復活を目指しているようです。しかし、歴史学の進展に目を向けず、「日本書紀」が正しい歴史であるという前提で、つじつま合わせの荒唐無稽な1年2倍年暦説を主張するのはいただけません。「倭人が正歳四節を知らず、春耕・秋収で年紀となす」という「魏志倭人伝」の注に引用された「魏略」逸文を、当時の倭人が1年を春と秋で2年と勘定していると解釈して、初期の天皇の異常な寿命の長さを説明しています。しかし魏略逸文は正しくは、倭人が中国宮廷の季節ごとに行われる儀式を行わず、ただ春と秋の祭祀を行っていると言っているだけなのです。「日本書紀」に春と秋の記事が1年おきに出てきているのであればいいのですが、実際はそうはなっていませんから、この説が誤りだと直ぐに分かります。

「記紀」はほとんど虚構だといっても、古代史研究で全く無視するのも間違いです。当時の人々の考え方を伝える第一級の文学作品と捉えるのが正しいと思います。そこには古代史の謎解明のヒントが満載されていますので、不比等らの意図を推理することにより古代史の真相が解明できるからです。

「歴史学(れきしがく)とは、過去の史料を評価・検証する過程を通して歴史の事実、及びそれらの関連を追究する学問である。」wiki「歴史学」にあります。文献・史料を歴史学に用いる際には、様々な面からその正当性、妥当性を検討する「史料批判」が行われます。最終的には史料に書かれたことが事実かどうかは、すでに信ぴょう性があると認められた史料や考古学の成果などによって検証する必要があります。

歴史学に政治的なイデオロギーを持ち込むと真実から離れてしまい、最早、万人が理解できる科学・学問ではなくなります。歴史は権力者のための政治文書と考える全体主義者(ファシスト)に利用されますから注意が必要です。権力維持のために都合の悪い事実を無視し、事実を主張する人々などの罪のない人々への迫害はやりたい放題です。世界はそういう独裁国のひどい人権弾圧をやめさせようと圧力をかけています。それにもかかわらず、世界と一緒に人権弾圧を非難しない日本は、世界から人類の敵の仲間と見なされています!今度の選挙で非難決議に反対する勢力を一掃したいものです。

【参考記事】
刮目天の古代史】古代史を推理する
【刮目天の古代史】仮説を検証する!
【刮目天の古代史】謎を解明する(^_-)-☆

(注1)2021.6.11の記事「能「弓八幡」は何を伝えたかったのか?」wiki「女性天皇」から引用した以下の内容が現在消えていました。
江戸時代の女帝、明正天皇と後桜町天皇。明治維新後に想像で描かれたもの。皇室の菩提寺・泉涌寺は、江戸期の天皇14人のうち12人の肖像を所蔵しており、仏事の際に掲げていたが、女帝の肖像だけが存在しない[8]。


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