片山修のずだぶくろ Ⅰ

経済ジャーナリスト 片山修のオフィシャルブログ。2009年5月~2014年6月

写真家・瀬戸正人さんと語る⑤

2011-11-07 16:30:12 | 対談

片山 先ほど、仏像を撮るのに、「決定的な瞬間」はないという話でしたが、プロの写真家が切り取る「瞬間」っていうのは、でも、ありますよね。

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瀬戸 それも、じつは僕、すごく否定的なんです。そんなものない。ないんですよ。

片山 シャッターを押す瞬間は、「決定的」じゃないんですか?

瀬戸 「決定的瞬間」って、みんな、そう思いたいだけであって、次の瞬間でもよかった。写真家は、どこかで「決定的瞬間」があると思いたいんですよ。
ただ、物理的な瞬間ではなくて、自分の気持ちのなかに瞬間はあるかもしれない。「あっ」という瞬間。流れのなかで、人がジャンプした瞬間とかじゃなくて、撮る側の精神的な瞬間。


片山 でもさ、スポーツ写真は違うのかな。対象が決まってるじゃん。そう深刻に悩まず、例えばサッカーで香川がシュートを打った瞬間とか。

瀬戸 そうなると、今度はムービーでいいわけです。
いま、写真のカメラと、ムービーのカメラって、どんどん差が無くなってきている。だから、「ビデオで撮ってしまえ」となるわけです。
サッカーであっても、ムービーのなかの、シュートを打った瞬間の1コマを拡大して新聞に載せちゃえばいい。
すると、「決定的瞬間」は、カメラマンが決めるんじゃない。編集者が決める。


片山 そうか……。

瀬戸 だから、某新聞社では、いま悩ましい問題なんですが、「カメラはもうやめて、ムービーにしな」と、上から注文がついている。動画の方が、一瞬のチャンスを捉えられる可能性が高いからです。
例えば、注目されている犯人が捕まって車から降りた、その一瞬をとらえられるか。写真だと、5人くらいカメラマンを派遣して、それでも、その瞬間を写せるかどうかはわからない。
でも、ムービーをもっていけば、あと2、3人連れていって、ストロボだけあっちこっちからピカピカあててもらえば、光があたったところは浮かびあがって使える。


片山 無駄がない。5人もカメラマンを派遣する必要もないと。Katayama5

瀬戸 そうです。ただ、その場合、「決定的瞬間」が好きな写真部としては、「これでいいのか……」となるわけですよ。

片山 報道写真の場合、「決定的瞬間」といわれると、すぐに思い浮かぶ写真がありますよ。まず、浅沼稲次郎が、演説中に刺された瞬間の写真。それから、ロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」。あと、ベトナム戦争の、親子が泥沼を泳いでる写真。
ピュリツァー賞を撮ってるような写真は、「決定的瞬間」ですよね。
ああいう写真は、ムービーで撮って、ある瞬間の一コマを抜き出したらできるかといったら、できないんでしょ?

瀬戸 できると思う。

片山 ヘェー、できるんですか。

瀬戸 はい。だから、「決定的瞬間」はちょっと置いておいて、「ムービーで映して、あとから選べばいいじゃないか」というのは一つの考え方です。
僕はね、それでいいと思うんですよ。これまで、「決定的瞬間」を神格化しちゃってきただけ。結果がよければ、いまのハイテクを駆使して表現できればいいじゃないですか。


片山 瀬戸さんの考え方は、さすが飛んでいますね。本質をついている。報道写真にアートを求めてもダメだし、その時代の人が「決定的瞬間」に何かを感じるかどうか……ですかね。

つづく

瀬戸正人1953年 タイ国ウドーンタニ市生まれ。1961年に父の故郷である福島県に移住。森山大道に師事し1996年、写真展「Living Room, Tokyo 1989-1994」「Silent Mode」で第21回木村伊兵衛写真賞、第8回写真の会賞、2008年日本写真協会年度賞など受賞歴多数。ほかに1999年『トオイと正人』(朝日新聞社刊)で第12回新潮学芸賞受賞など。日本を代表する写真家の一人。最近では、『東日本大震災――写真家17人の視点』(アサヒカメラ特別編集、朝日新聞出版)に、写真を掲載。


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