特殊相対論、ホーキング放射、ダークマター、ブラックホールなど

・時間について特殊相対論からの考察
・プランクスケールの原始ブラックホールがダークマターの正体であるという主張
 

その2・ 参考文献と参考資料

2023-03-13 04:00:20 | 日記

時間まわりの考察、ということでfnorio氏の

ローレンツ変換とは何か
[Einsteinのローレンツ変換導出法(1905年)への補足]: https://archive.ph/lkTnx :
を取り上げたいと思います。

『運動系の時計がゆっくり進むように見えるというのは、静止系から見て運動系の物理現象(上記の原子核の固有振動)などがゆっくり進む様に見えるのです。そのために運動系とともに動いている時計は静止系から見てゆっくりと時を刻む様に見えます。

実際あらゆる観測結果がそのことを示しています。

高速で動いているπ中間子やμ粒子が崩壊するまでの寿命が延びるのもこの一例です。また1936年にIves達が観測した横ドップラー効果もその現れです。

また1971年に飛行機に積んだ原子時計の時の刻みの速度が遅れることが実際に確かめられています。』

さて日本語は難しいのですがここで「ゆっくり進む様に見える」と言っているのは「現実に物理現象・自然現象の進む速さが遅くなる」と著者は述べています。

このあたりの記述は前ページの菅野さんの以下の主張とは対照的であります。

『蛇足ながら付言すると,運動系での時計の遅れ,距離の短縮の原囚は慣性系ごとに同時性や時間・空間尺度が異なるところにある.運動系の現象を静止系から見るとそのように観測されるのであり,実際に連動系で時計が遅れたり長さが短縮しているのではないということである.』

そうしてもちろん当方はfnorio氏持ちであります。



さて、それに続いて詳細な氏の時間についての検討が展開されます。

そうしてこの辺りの熱量というものはすごいものがあります。

それで「3.ミンコフスキー時空図での確認」: https://archive.ph/lkTnx#3 :の[補足説明2]にでてくる時計が並んだイラスト、これは当方にとってはとても分かりやすいものでした。

しかしながら残念なことにそれに続く「補足説明3」で氏は「時間の遅れはお互い様」という教義を支持しておられます。

そうしてこう言われるのです。

『このように互いに加速度運動していない時計の進みは本来まったく同じです。

しかし元々時計の時刻の計測開始点が自分の系の時計とはずれている相手側の時計を次々と取り換えながら比較するから、自分の時計が遅れて見えるのです。

 相手の系からみて遅れている様に見えるのですが、これは見かけのものではなく実際に実験観測すれば動いている時計の刻み(自然現象の推移といってもよい)はゆっくりになっています。』

さて上記の主張、最初の文では「2つの相対速度を持つ慣性系での時間の進み方は同じだ」と言っています。

しかし2番目の文では「2つの慣性系は同じ速度で時間は進んでいるが、時計の時刻の計測開始点が自分の系の時計とはずれている相手側の時計を次々と取り換えながら比較する為に、自分の時計が遅れて見える」と主張されます。

これは「同じ速度で2つの慣性系にあるそれぞれの時計は進んでいるのだが、比較の仕方に問題があり(というよりもその様に比較せざるを得ない為に)時間の遅れが観測されるのだ」という主張になっています。

そうして最後の文章では「そのように時間の遅れが観測される、と言うのは錯覚ではなく、実際に時間が遅れているのだ。なぜならば、実験結果がそう言っている。」とまとめています。



さて皆さんは納得されましたでしょうか?

残念ですが、当方は上記の説明では納得ができないのです。

最後にたどり着いた結論が『相手の系からみて遅れている様に見えるのですが、これは見かけのものではなく実際に実験観測すれば動いている時計の刻み(自然現象の推移といってもよい)はゆっくりになっています。』と言われるのであれば最初の宣言文『このように互いに加速度運動していない時計の進みは本来まったく同じです。』は間違いである、と言う事になります。

そこには矛盾があります。

「二つの慣性系にある時計の進み方が本来まったく同じ」であるならば、「何故、実際に実験観測すれば動いている時計の刻み(自然現象の推移といってもよい)はゆっくりになっています。」と主張されるのでしょうか?

もしそのように主張されるならば「時間の遅れは見かけのものである」と言わなくてはなりません。

しかしfnorio氏は「時間の遅れは見かけのものではなく、実際に遅れている」と主張します。

そうなりますと氏の言う所の「二つの慣性系にある時計の進み方が本来まったく同じである」という主張は一体何を言っているのだ?と言う事になります。

そうして、「時間のおくれはお互い様」という主張を続ける限りはこの矛盾は解消される事は無いように見えます。



しかしながら実はこのfnorio氏が主張している、矛盾した宣言の中にこそ、このパラドックスを解く鍵が潜んでいました。

そういうわけで、ここまで詳細に検討されたfnorio氏の資料には感謝する次第であります。



追伸:固有時を扱った資料「双子のパラドックスと一般相対性理論(リンドラー座標)」: https://archive.ph/ZTCWc :について

「2.固有時」の「(1)固有時とは」に「ランダウ、ジューコフ著(鳥居一雄、広重徹訳)「相対性理論入門」東京図書(1963年刊)」からの引用で固有時の説明が書かれてあります。

そうして当方もこの固有時についての認識には同意できるのであります。

ちなみにここの「補足説明1」にて上記で行った「時間の遅れはお互い様」の認識について、以下の様な説明がなされています。

『動いている物体(K’系)の時計が遅れて見えるのは、それを観測している座標系(K系)の時計を次々と取り替えながらそのK’系の時計の歩みを比較しているからでした。観測する座標系(K系)に並べてある時計の計時の開始時間は動いている物体(K’系)の時計の開始時間とは少しずつずれているのでした。だから遅れて見えるのです。
 そのために、逆に動いている時計(K’系)とともに動く座標系から(もとの静止系である)K系の時計を見るとK系の時計はK’系の時計よりもゆっくり進むように見えます。これは結局互いに相手の過去を見ているからその様になるのです。

 特殊相対性理論の範囲では、互いの原点がすれ違うときに、互いの原点にある時計の計時を開始してK系の時計とK’系の時計を合わせても、それ以後の時間で、その二つの時計の時刻を比較することは出来ませんので、以上のようなことが起こっても全く矛盾はありません。

実際のところK系の時計もK’系の時計もそれぞれの系で見たときの時の流れは同じはずです。』

この最後の文章「実際のところK系の時計もK’系の時計もそれぞれの系で見たときの時の流れは同じはずです。」の意味はよくわかりません。(注1

一つの慣性系には一つの時計しかなく、したがって比較するもう一つの時計がそこにはないのですから「時の流れは同じはずです。」などという主張はできない事になります。

この辺りの事は前ページの菅野さんの主張『高速で飛行しているロケットの中ではすべての現象は正常に進行する.事実,地球は遠い銀河系に対して,ほぼ光速度で運動しているが,地上では物体の短縮も時間の遅れもなく物事は正常に経過している.』とオーバーラップしている様にみえます。(注1

しかしながらこの主張に対しては「時計が一つしかない地球上ではDIOのスタンド「ザ・ワールド」によって時間を止められても我々にはそれを認識する事が出来ないのです。: https://archive.ph/z1HS4 :」という反論が成立するのでした。


ちなみに上記で指摘した「このパラドックスを解く鍵」というのは『動いている物体(K’系)の時計が遅れて見えるのは、それを観測している座標系(K系)の時計を次々と取り替えながらそのK’系の時計の歩みを比較しているからでした。・・・これは結局互いに相手の過去を見ているからその様になるのです。』という文章の中に現れています。


注1:このあたり、fnorio氏の主張と菅野さんの主張は同じように見えます。

つまり「お二人ともに2つの慣性系を比較した場合、本質的には時間の進み方は同じだ」と言っている事になります。

そうして観測で時間の遅れが測定できるのは、見かけの問題である=測定の問題である、と言っています。

それで、何故「2つの慣性系を比較した場合、本質的には時間の進み方は同じだ」と言わざるを得なくなるのか、と言えば「慣性系Aの時間が慣性系Bの時間の進みかたより実際に遅れている」と言う事を認めると、「そこには基準慣性系が存在する、と言う事を認める」と言う事になるからです。

しかしながら皆さん「基準慣性系を認める」と言う事は「アインシュタインにそむく」と言う事ですから、なかなか覚悟がいるのです。


まあそう訳で、このあたりの議論詳細につきましては: https://archive.md/W1JGB :を参照していただきます様に、お願い致します。

追記の2:2024/6:「時間が遅れて観測されるのは見かけの問題であり、実は2つの慣性系に於いては時間の進み方、時間の進行速度に違いはない」という主張について。

端的に言えばこれは「相手の慣性系の時間の遅れを測定している観測者は錯覚に陥っている」という主張です。

さてそうなりますと「世の中には錯覚を実験で観測する場合」と「真実の姿を実験で観測する場合」と「2つの種類の実験が存在する事」になります。

そうして「光速不変を実験で観測する場合」は「それは錯覚ではない」といい、「時間の遅れを実験で観測する場合」は「それは錯覚である」というのであれば「何をもってそのように主張するのか?」と問われる事になります。

「その二つの実験での相違点は何であるのか」を説明する事が必要になるのです。

 

PS:相対論・ダークマターの事など 記事一覧

https://archive.ph/GG7rQ

 


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。