はやしんばんぱくの、めげてめけめけ、言論の不自由ブログ

全国各地へ飛び回り、めげてめけめけめげまくり、色々書いていましたが、ブログ終わりました。過去を読めばいい!サラバじゃ~!

五臓六腑に染み渡る。

2012年08月27日 20時34分30秒 | 風呂・サウナ劇場
以前、あんなに行っていた銭湯。
今じゃそんなに行けなくなった。
寂しい限りだが仕方ない。
1日の優先順位をつけたら、パツンパツンで
仕事帰りに銭湯へ寄るなんて隙間が無いのである。
だからたまに「お、今日は寄れる」て日があると興奮する。
すごくうれしい。
銭湯に寄れる、だたそれだけでドキドキするってのは
今まで大好きな銭湯に行き過ぎて、銭湯に慣れてしまっていた逆の現れかもしれない。
だからこうして「おあずけ」を食らいっぱなしでの、たまの湯は
ものすごく貴重に思えてくるのだ。

先日も久々に銭湯へ寄った。
毎日のように通った銭湯、特になんとも思わず普通の日常になっていたが
こうしてしばらく振りに見ると
佇まいからしてもう味わい深い。
のれんなんて、ゾクゾクするし、下駄箱ですでにイッちゃいそうである。
なんて思っていたら、番台で思いっきりイッてしまう自分がおり
お恥ずかしいながら、パンツを汚してしまう…
なんてそんなことあるかーっ!
お下品にて失礼…。

しかし、今まで何気に過ごしてきた当たり前の銭湯の風景は
こうしてあらためて見てみれば、とっても味わい深く
なんとも言いようのないノスタルジックさが感じられてくるってのが正直なところである。
その感覚はとても心地いいのだ。

特にこれは三丁目の夕日症候群的な昭和病みたいな
昔を懐かしみ、浸り、依存するみたいなものともちょっと違う。
自分が当たり前のように置かれていた環境を
特別なものとして見て
その当たり前さがどれだけ自分にとって有意義で贅沢なものだったのだろうかと
再確認し、有難味を感じているようなものである。

当たり前を当たり前の様に見てみる。
そうしたら、そこんところの価値がグーンと上がったりもする。
僕にとっての銭湯はそんな感じである。

だから、今までは銭湯に来ても
サウナに5回入ってジュース飲んで涼んで帰る
同じ事の繰り返しで、淡々と過ごしていたが
こうして来ると、今度次はまたいつ来られるのか分からないから
あえてこの空間にどっぷり浸かろうという発想が出来る。
ただただアルコール混じりの毒汗を流すだけのサウナが
ものすごく贅沢な癒しの空間となる。
汗の出が最優先のサウナも、くつろぎ優先となり
無理して思い切り汗をかかんでも、5回必ず入らんでも良い!
全然良い!て気持ちになる。
要するに、楽しめているのである。

自宅に風呂があるにも関わらずこうして銭湯へ来ているのだ
目線をかえれば、これは贅沢なアトラクションである。
もう今や銭湯はテーマパークみたいなもので
ただただ懐かしいだけの建物になってしまったような気がする。
お風呂の無い物件なんて今やほんとに微々たるものである。
スーパー銭湯なんてものがあるが、あちらは湯メインである。
しかし銭湯は、風呂が優先的な目的じゃなくなりつつある。
それの証拠に、常連以外は大概脱衣所で銭湯ってものに対して大盛り上がりしている。
懐かしいねーやら、すげーレトロ!やら、牛乳飲む?みたいな
そんなイベントと化しているのだ。

銭湯の価値は、今や別にそれでもいい気もする。
僕にとっては、たまにしか行けなくなった大好きな銭湯は
今では心と身体のヒーリングサロンみたいな存在となっているのかもしれない。

よくある日常をこういった目線で見ると
銭湯の見え方同様
例えば街がいとおしく見えてくるものである。
いつも生活している部屋を、とても温かく思えたり
ともすれば自分自身の顔面すらどことなく懐かしい思いをもたらす。
新鮮な目線てものが、暮らしを変える
ひとつの方法かもしれない。
慣れを打破する方法は
まるで環境を変えたり物を捨てたりするだけではない。
そんなことをせずとも
自分の見方を変えることで
また新たな感覚が生まれたりもするのである。
それに気づくのも自分。
全ては自分しだいというトコロだろうか。

銭湯は
一粒で二度おいしい!

めけめけ~。

写真。銭湯。


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