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ニガコヤジ(赤子谷地)考

2016年08月07日 | 村の歴史

当地方では生まれたばかりの子供を「ニガコ(赤子)」と云った。ニガコヤジ(赤子谷地)は(子棄て沼)の事である。かつて、飢饉、疫病等で子供を遺棄しなければならない事情が各地にあったと云われている。例えば寛永の大飢饉(1642~50)で、会津藩(福島県)の被害は甚大で、餓死寸前に追い込まれた百姓は、田畑や家を捨て妻子を連れて隣国に逃散したと記録されている。その逃げ散りの様は大水の流れにも等しいものであった。その際、7才以下の幼児は、足手まといになるので、川沼に投げ込まれて溺死させられたという。

宮城県白石市内を流れる「児捨川」(こすてがわ)がある。その川にかかる国道4号線の橋「児捨川橋」(全長71m)があった。この名前の橋が「昨今の児童虐待などを連想させイメージが悪い」との市民の声が寄せられるようになったため、市長が橋を管理する国土交通省と協議し「白鳥橋」に名称変更されている。蔵王山麓を水源とする川の名「児捨川」は現在もある。「児捨川橋」の名称について、いくつかの伝説の中から以下のような記述があった。

「児捨川橋」から「白鳥橋」へ -国土交通省へ提言しました-,,,,,,。その伝説の一つは「蝦夷(えみし)征伐でこの地を訪れた日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の子を産んだ長者の娘が、夫から迎えがないのを嘆いて、『白鳥と化して大和の空に飛んでいく』ために、子を抱いて川に身を投じた」というものです。名称変更について、白石市文化財保護委員会へ諮問したところ、「説話に関する地名は保存すべきだが、伝説を補強する意味でも白鳥橋への改称が望ましい」との答申を受けました。市では、伝説は重んじつつも負のイメージにならないよう、白鳥になって飛んでいった伝承を生かし、「白鳥橋」という名称にしてはと11月6日、管理者の国土交通省に提言しました。現在、同省で名称変更の検討がされています。

※昭和57年に改良された国道の新しい橋の案内板の名称について提言したものであり、旧国道(現在市道)の児捨川橋の名称や、児捨川そのものの名称を変えようとするものではありません。なお、旧国道に架かる橋には伝説などを記した案内板の設置も併せて検討しています。「http://www.city.shiroishi.miyagi.jp/uploaded/attachment/514.pdf」白石市の広報(平成13年12)引用


当地方で「ヤジ」とは湿地の事を云っている。川連地区は数千年の経過で生まれた内沢の流れの扇状地上に形成されてきた。人々は1000年以上前から住み、扇状地特有の瓦礫の地を開拓してきた。扇状地の山際に住居を構え、すそ地は田んぼに変えてきたと思える。

2014.6.30のブログ『二つの古絵図「川連村、大館村」』に享保16年(1731)の文章に古絵図は慶安元年(1648)と変わりがないと書かれている。この古絵図に現在集落の下の方、通称「宿」と呼ばれている付近に湿地が記されている。下記の地図で屋敷廻、天王の場所、この湿地は幕末から明治の古地図には見られない。この湿地通称「ヤジ」は、その後の内沢の土砂の押し流されと人々が手を加え湿地を乾地に変えてきたものと思われる。

古絵図 享保16年(1731)(地名編入筆者)

近年この場所に住宅が建てられた。スウェーデン式サウンディング試験結果の報告書があり地質を知ることができた。スウェーデン式サウンディング試験とは「先端がキリ状になっているスクリューポイントを取り付けたロットに荷重をかけて、地面にねじ込み、 25センチねじ込むのに何回転させたかを測定」する。結果、N値が12.6.この場所が推定水位。その後はロッドが自沈、音は無音が続き深さ6.16mで音がジャリジャリ、ロッドが強反発し換算N値が20.0となって調査が終わっている。湿地(ヤチ)の深さは約6mと記録されている。表土は乾地化されてはいるが地下数メートルには湿地の兆候が見られる。

黒森の「ニガコヤジ」はこの場所から直線距離で約600m離れ、標高155m程でこの地から約10mも高い位置にある。この通称「ニガコヤジ」を享保16年(1731)、明治初期の古絵図にも示されていない。古絵図では妙音寺、黒森山の麓の場所。

昭和になって麓集落に残った湿地(ヤジ)は、黒森にある「ニガコヤジ」だけだった。この「ヤジ」も住宅建設で残土等の埋め立てや、昭和52年の圃場整備事業で下方に排水路が出来その面影を無くなってしまった。現在「ニガコヤジ」を知っている人は団塊の世代以上で若い世代は名も場所も知らない。

ニガコヤチ跡 2015.12.3

私の記憶にある「ニガコヤジ」の大きさは約500平方ほどでヨシが茂っていた。ドジョウなどの棲みかだった。先達の話だと昭和30年代には鯉や鮒がいたといわれている、養蚕が盛んだった川連地区では養蚕の道具洗浄や未熟な「蚕」のさなぎや、食べ残しをこの「ヤジ」に運んだと云われている。そのたびに大きな鯉や鮒が寄ってきたそうだ。誰も魚を捕ることはなかった。ニガコ(赤子)の霊を守り供養を鯉や鮒に託していたのかもしれない。

長い戦国から争いが少なくなり、新田開発等で人口の増加した江戸時代、頻繁に起こる飢饉等自然災害、冒頭の会津藩同様、各地に飢饉や疫病から生き延びるために似たような事例があったといわれている。

江戸時代には頻繁に飢饉が起こった。東北地方は、天明・天保の飢饉に宝暦の飢饉を加えて三大飢饉と呼ぶ。宝暦の飢饉( 1753年~1757年)、天明の大飢饉」(1781~1789)、「天保の大飢饉」(1832~1839)。その他、元禄の飢饉(元禄年間 1691年~1695年)、延宝の飢饉(1674年~1675年)等東北地方の被害が大きかった。

秋田藩(出羽藩)で被害の大きかったのは「天保の大飢饉」(1832~1839)、数年に渡る冷害飢饉で人口の1/4の10万人が犠牲になったといわれている。江戸時代は全期を通じて寒冷な時代で凶作や飢饉が絶えなかった。食糧事情が悪く栄養不足で基礎体力がない子供の生存率は極めて低かった。飢饉や疫病等で乳幼児の死亡率は50%前後。異常な低さは当時の乳児(ゼロ歳児)と幼児(1~5歳)の死亡率が全死亡率の70%を占めていたことが全体の平均寿命を下げていた。江戸時代の子供は7歳(満6歳)までは神の子と云い、この世に定着していないと考え人別帳(戸籍)に載せていない。7歳にして「一人前」と考えられた。平均8~10人兄弟姉妹で子供が成人(当時は15歳)までに半数は亡くなった記録もある。

集落に30数年前まで存在した「ニガコヤジ」もそのような歴史があったと云われているが詳しいことはわからない。この場所はかつての妙音寺の引導場、歴代住職の墓地も近くにある。江戸時代当地の肝煎を務めた末裔高橋氏は、忘れ去られようとしている「ニガコヤジ」を後世に伝えようとして次のように書きとめた。

「慶長19年、対馬(㐂右衛門)の分家、川連山妙音寺というお寺があった。山伏修験寺で川連には神応寺と竜泉寺があって、新しくお寺では生活できないので切支丹を広めていった。遠く杉の宮(現羽後町)まで広めた。地元の川連には毎日のように大館、久保方面から続々と信者が集まり、今でもこの通り道を切支丹通りという名が残っている。承応年間((1652~1654)の切支丹弾圧に、川連では犠牲者を一人も出さなかった。肝煎の㐂右衛門は信者一人一人を説得してまわって(踏絵等)弾圧から逃れたことによる。

それでも妙音寺は信仰を続け信者を広めていった。仕事を休んでまで信仰していったので日増しに貧困の差を増していった。その結果、破産と口べらし(子棄て)が大いに出た。ニガコヤジ(赤子谷地)に朝な朝なに赤子の泣き声とお供えが上がっていたと伝えられている。現在ニガコヤチ(口ベラシ沼)はニザエモンの所有地になっていて沼の形はない。年代とともに消えゆくので書き留めておく」。 平成25年11月

神応寺、竜泉寺は「回向寺」。江戸時代の檀家制度でお寺の経済は保たれていたが、妙音寺は「祈祷寺」で檀家を持たなかった。そのためには信者を増やすことが寺自立の唯一の勤めだった。人々の現世のしあわせを求めて「妙音寺」に多くの人が出入りした。その中には切支丹信者も多くいたとされ、住職も信者説は高橋氏の覚書に詳しい。

各地には貧しさや飢饉から、「姥捨て山」等の記録は散見されるが「子棄て」の記録はあまり多くはない。有名は遠野物語には「昔は六十を超えたる老人はすべて此連台野へ追ひ遣るの習ありき。老人は徒に死んで了ふ」。デンデラ野「遠野物語」(111)、「遠野物語拾遺」(268)等に詳しい。比較して「子捨て」については「間引き」「遠野物語拾遺」(247)等がある。本当に捨てるのではないと記録されている。

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