血が騒ぐのです・。9月23日は、会津鶴ヶ城を拠点に
歴代の藩主に扮した武将が、町のメイン通りを行列します。
今年は、天地人のヒーロー上杉景勝役の北村一揮さんとその
妻菊姫役の比嘉愛未さんが特別行列に参加するそうですね。
そもそも会津祭りとは、いつから始まったのかということです。
ここにも会津人の、先人に対する畏敬と郷土に対する誇りが
存在しています。
1867年9月22日は、戊辰戦争で敗北し会津鶴ヶ城を引渡しの
日です。
それから、賊軍 朝敵として長く汚名を着せられ屈辱を受け
続けてきた会津人に、希望の光が注がれたのは、昭和3年
それは戊辰戦争後60年目のことでした。
その年に、会津藩最後の藩主松平容保公の四男恒雄氏の長女
勢津子様が秩父宮殿下とご婚約の慶事がありました。
皇室とのご婚約は、会津人にとって朝敵 賊軍という言われ
無き汚名の歴史を終わらせるものでした。
会津人にとっては、この日が特別の日になったわけです。
当時の市長松江豊寿(バルトの楽園の主人公)が、昭和3年
に祝賀の行事を開催しました。9月22日(会津藩降伏の日)
9月23日(鶴ヶ城明け渡しの日)を祭礼の日と定め、大名行
列が始まりました。これが今日の、会津祭りに繋がっているの
です。
歴史 先人の功績を、後世がそれを誇りに思って引きつなげて
いくことの大切さを会津は教えてくれているのではないでしょうか。
http://www.aizukanko.com/modules/festival/
会津生まれの筆者は、生まれたときからこの祭りとともに
育ってきました。
縁があって鳥取に住んでいますが、9月23日は不思議なくらい血
が騒ぐのです。
筆者も、高校時代は白虎隊を剣舞していて、飯盛山の墓前祭に
参加しました。
懐かしさがにじみ出てきます。
会津の歴史 関が原の合戦以前から簡単に・・・・・・
福島県の西半分(岩代国)が会津藩の領地であった。
1589年伊達政宗が蘆名氏(戦国大名)を滅ぼし会津に入る
1590年豊臣秀吉の奥州仕置きで伊達政宗 会津領を没収
実質秀吉の日本統一
蒲生氏郷(7奉行)近江より会津に入る 92万石 産業の基盤を造る
酒 漆器
1598年 氏郷死後 上杉景勝 越後より会津に入る 120万石
1600年 関が原 石田側についた上杉は 米沢に減封 30万石
16001年 蒲生秀行(氏郷の子)再び会津に入る 60万石
1627年 加藤嘉明 伊予松山から会津に入る 40万石
1643年 山形から 保科正之(藩祖 徳川秀忠の子 家光の異母兄弟)入る
23万石といえども 実質内高40万石以上
3代目 正容の時から 松平に改姓
徳川将軍家の名門として 会津松平が会津を治める
1867年 最後の9代藩主松平容保(京都守護職)会津戦争で敗北
家格は親藩 藩の家紋は 会津葵 藩旗は 會 の一字
1928年(昭和3年)松平恒雄氏(松平容保公の四男 駐英大使 参議院議長)の
長女節子(後 勢津子に改名)様 秩父宮殿下とご婚礼
朝敵 賊軍の汚名の歴史の終焉
司馬遼太郎氏の 「王城の護衛者」 は感動するものがありました。
歴代の藩主に扮した武将が、町のメイン通りを行列します。
今年は、天地人のヒーロー上杉景勝役の北村一揮さんとその
妻菊姫役の比嘉愛未さんが特別行列に参加するそうですね。
そもそも会津祭りとは、いつから始まったのかということです。
ここにも会津人の、先人に対する畏敬と郷土に対する誇りが
存在しています。
1867年9月22日は、戊辰戦争で敗北し会津鶴ヶ城を引渡しの
日です。
それから、賊軍 朝敵として長く汚名を着せられ屈辱を受け
続けてきた会津人に、希望の光が注がれたのは、昭和3年
それは戊辰戦争後60年目のことでした。
その年に、会津藩最後の藩主松平容保公の四男恒雄氏の長女
勢津子様が秩父宮殿下とご婚約の慶事がありました。
皇室とのご婚約は、会津人にとって朝敵 賊軍という言われ
無き汚名の歴史を終わらせるものでした。
会津人にとっては、この日が特別の日になったわけです。
当時の市長松江豊寿(バルトの楽園の主人公)が、昭和3年
に祝賀の行事を開催しました。9月22日(会津藩降伏の日)
9月23日(鶴ヶ城明け渡しの日)を祭礼の日と定め、大名行
列が始まりました。これが今日の、会津祭りに繋がっているの
です。
歴史 先人の功績を、後世がそれを誇りに思って引きつなげて
いくことの大切さを会津は教えてくれているのではないでしょうか。
http://www.aizukanko.com/modules/festival/
会津生まれの筆者は、生まれたときからこの祭りとともに
育ってきました。
縁があって鳥取に住んでいますが、9月23日は不思議なくらい血
が騒ぐのです。
筆者も、高校時代は白虎隊を剣舞していて、飯盛山の墓前祭に
参加しました。
懐かしさがにじみ出てきます。
会津の歴史 関が原の合戦以前から簡単に・・・・・・
福島県の西半分(岩代国)が会津藩の領地であった。
1589年伊達政宗が蘆名氏(戦国大名)を滅ぼし会津に入る
1590年豊臣秀吉の奥州仕置きで伊達政宗 会津領を没収
実質秀吉の日本統一
蒲生氏郷(7奉行)近江より会津に入る 92万石 産業の基盤を造る
酒 漆器
1598年 氏郷死後 上杉景勝 越後より会津に入る 120万石
1600年 関が原 石田側についた上杉は 米沢に減封 30万石
16001年 蒲生秀行(氏郷の子)再び会津に入る 60万石
1627年 加藤嘉明 伊予松山から会津に入る 40万石
1643年 山形から 保科正之(藩祖 徳川秀忠の子 家光の異母兄弟)入る
23万石といえども 実質内高40万石以上
3代目 正容の時から 松平に改姓
徳川将軍家の名門として 会津松平が会津を治める
1867年 最後の9代藩主松平容保(京都守護職)会津戦争で敗北
家格は親藩 藩の家紋は 会津葵 藩旗は 會 の一字
1928年(昭和3年)松平恒雄氏(松平容保公の四男 駐英大使 参議院議長)の
長女節子(後 勢津子に改名)様 秩父宮殿下とご婚礼
朝敵 賊軍の汚名の歴史の終焉
司馬遼太郎氏の 「王城の護衛者」 は感動するものがありました。