鏡海亭 Kagami-Tei  ウェブ小説黎明期から続く、生きた化石?

孤独と絆、感傷と熱き血の幻想小説 A L P H E L I O N(アルフェリオン)

生成AIのHolara、ChatGPTと画像を合作しています。

第59話「北方の王者」(その1)更新! 2024/08/29

 

拓きたい未来を夢見ているのなら、ここで想いの力を見せてみよ、

ルキアン、いまだ咲かぬ銀のいばら!

小説目次 最新(第59)話 あらすじ 登場人物 15分で分かるアルフェリオン

カイス・ブリッツ 第1話「異界の果て」(1)


第1話 異界の果て(1)


 
 
 夏の終わり、驟雨のあと。
 瀝青に揺れる水鏡。
 
 
 晴天を震わせ、通り過ぎた激しい雨は、蒼弓の片隅におぼろげな虹を描き残し、地を這うアスファルトの路面のあちこちに、揺らぐ歪な水面(みなも)を産み落としていった。皮肉なほどに高く突き抜けた空から投射される青の色が、水溜りに映り込み、さざ波にかき乱されながら、次々と飛び込んでは滲む緊急車両の赤色灯の光と重なり合い、通りがかる人々の目線を呼び込んでいる。パトカーや救急車のサイレンの音にかき消されつつ、集まった野次馬たちのざわめきが、雑踏に低く沈殿する。
 
 血だらけの遺体が、道路に溜まった水にまみれて生々しく仰向けに横たわっていた。見た目には30代くらいの男性だ。彼が掛けていたのであろう金縁の丸い眼鏡が、フレームが大きく歪んだ状態で道端に投げ出されている。哀れな犠牲者は全体としてふくよかな体形であり、裾が所々擦り切れた、皺の目立つダークグレーのスーツを着ている。何となく学校か塾の教師を思わせる風体、容貌だった。
 彼の近く、道路脇に中型のトラックが停車しており、その運転手らしき男と警察官が話をしている。トラックと遺体の間に、使い古された黒いビジネスリュックが転がっていた。リュックの隣に落ちている免許証には、《水川哲慈(みずかわ ・てつじ)》という名前が記載されていた。
 彼の手には、銀色のスマートフォンが死後もなお握られている。その画面が、突然、眩い白の背景に置き換わったかと思うと、フラッシュバックするような演出と共に、何かが描画されていく。威圧するように翼を広げ、鋭い爪のある両手をかざして立ち上がったドラゴンと、これに長剣を構えて対峙する人間の騎士の姿だった。不運にも事故に遭った犠牲者が、その直前までプレイしていたであろうゲーム、さらにいえば典型的な「剣と魔法のファンタジー」のRPGの冒頭の画面に相違ない。そこにゲームのタイトルと思われるロゴが浮かび上がった。
 
 《夢幻皇子(むげんおうじ)》
 
 画面が暗転し、シンプルそのものの真っ黒な背景に、白いフォントで物語の導入部が綴られてゆく。
 
《誰の名も、愛する者の名前すらも、己の最期の時に口にすることなく、ただ無念と憎しみの思いに取りつかれ、神を、この世界を呪った。身の程を知らぬ愚かしい者よ。汝には天国はおろか、ここではない異世界(どこか)への転生など認められるはずもない。いや、地獄にすらも値しない。汝が落ちる先は、神の祝福の届かぬ、魂の輪廻からも切り離された異界の果て、時の凍った世界、それは……》
 
 ◆ ◇
 
「転生(おち)るがよい、神を呪いし愚か者よ」
 神父を連想させる長衣を身に着けた男が、いわくありげな分厚い書物を両手で抱え、教会の内陣のようなホールの向こうから歩いてくる。薄明りのもと黄金色に鈍く光る文字・図像を、黒塗りの表紙や背にちりばめた書物は、さながら、おとぎ話に出てくる魔法書のようだ。
 その隣で、白の無地に花柄のワンピースを着た若い女性が、彼を見上げながらつぶやいた。
「また、《扉》が開いたのね」
 首筋にかかる程度の長さの髪、段のある両サイドを外側に軽くハネるようにカールさせている。無邪気な子供のような濁りの無い目を細め、彼女は小さく微笑むのだった。
「転生者……」
 
 ◇
 
「さえない男がトラックに轢かれ、異世界で勇者に転生するなんて物語は、お腹がいっぱいになるほど聞き飽きたけど。まさか、本当に……」
 明らかに身体感覚が、特に指先の動く感じが、この身に生々しく宿っている。先ほど遺体となって路面に横たわっていたはずの男性、水川哲慈は、震える手指を動かし、人差し指と親指で形の崩れた丸をつくってみた。これを数回繰り返した後、彼は無言で仰向けに横たわった姿勢のまま、深く息を吸い、すっかり力尽きたような表情で息を吐いた。背中に当たる大地の感覚には変に現実味があり、しかし心地よく思えた。それは舗装された路面のもたらす触感ではない。
「何で? どうして生きているんだ」
 たとえこれが夢であったとしても、夢を見ているということは、基本的には生きているということ。内心、水川の胸を安堵の思いが徐々に満たしていく。今しがた味わったばかりの、自身の生に対して死が一方的に幕を下ろす際の露骨なまでの感覚が、まだ鈍痛のように彼の身に刻み込まれているにせよ、根拠なき安心感がそれを都合良く塗りつぶしてゆく。
「いや。もしかしたらここが、死後の、世界、なんだろうか。それとも、そうか……ひょっとして、これが異世界転生というやつか?」
 同様の場面を、小説やコミック、あるいはアニメやゲームの中で一体何度見たことだろうか。だが、作り話の中だけのことだと思っていたような、そんな出来事が、本当に自分自身にも回ってくることになろうとは。水川は、相も変わらず地面に寝転がったまま、無自覚にも表情を緩めてさえいる。彼は深呼吸をした後、一気に上体を起こした。引き続いて歓喜の叫び、ではなく――不自然な沈黙、そして、驚きのあまり頭頂から息の抜けるような、上擦った疑問の声。
「これは……」
 彼の瞳に映ったのは、たとえば見渡す限りの大草原でもなければ、妖精たちの息遣いが聞こえてきそうな深き森でも、竜の舞う灼熱の火山帯でもなければ、天空に浮かぶ不思議な島々でもなかった。いくつもの尖塔で飾られた白い城館でも、茶色い煉瓦造りの家々が立ち並ぶ中近世ヨーロッパ風の都市の光景でも、そのいずれでもなかった。
 
「まるで《昭和》だな」
 
 文字通り、開いた口が塞がらない彼は、その唖然とした表情を維持したまま、ぼんやりと周囲を見回している。目の前にあるのは、スクラップ工場か何かだろうか。波打ったスレートやら錆の出たトタンやらの材料の目立つ、若干みすぼらしくもみえる壁や屋根が殺風景に視界を塞いでいる中、全体的に丸みを帯びた明らかに古めかしいデザインの自動車たちが、いや、その残骸が、無造作に積み上げられて時を待っている。
「何の冗談だ。こんな異世界って、ありなのか?」
 《異世界転生》と同様、よくみられる舞台設定として、彼はもうひとつの可能性を思い浮かべた。
「それとも、俺は死んだのではなくて、《タイムスリップ》……昭和の時代まで流されたのか? 」
 以前に田舎の祖父の家を訪ねた際、祖父の青年時代のモノクロ写真を見せてもらったときの記憶が、蘇ってくる。白黒の写真によって時を超えて定着されていた風景は、水川がいま眺めている世界と同質の雰囲気をもっていた。それは確かに《戦後》という言葉からは一見解放されつつも、まだ現在には程遠かった時代。水川は、写真の一枚を思い起こす。初々しく、はかなげな花のような当時の若い祖母の姿と、その背景として、現代からみればレトロで愛らしい感さえ漂わせる、白と青の車体に丸い鼻先が特徴的な、ゼロの名を持つ《夢の超特急》が、駅のホームに誇らしげに停まっている。
 目の前にした皆が途方に暮れた廃墟や焼け野原、底無しの欠乏や空虚感から再び立ち上がったこの国が、新たな生を歩み始めた後――かつての敗戦の慟哭すら、もはや近くて遠い夢のようになりつつあった中、その先にまばゆく思い浮かぶ、今日よりも良い明日、さらにその先にある豊かな未来に夢を抱いて――その夢に手が届くと信じていた気持ちに、あるいはそれを取り巻く社会に、失望や閉塞の影が次第に漂い始めた頃。
 漠然とした様々な印象が一度に脳裏をかすめ、彼は意味もよく分からず暗い気持ちになった。
 
 すると突然、空き地に積み上げられた車のスクラップの物陰から、元気な男の子の声が響いた。
「ケンジ、やっと見つけたで! ここに隠れとったんか。こんなん、なかなか分からへんわ」
 小学校の中学年くらいの子供が二人、笑いながらこちらの方に歩いてくる。
 五分刈りで眼鏡をかけた小柄な子、ケンジと呼ばれていた少年が得意そうにしている。
「そうやろ。ここでかくれんぼしたらおもろいかなって、前から考えとったんや」
 もう一人の少年の方が、いつの間にか日暮れも近づいた辺りの様子を見ながら、遠慮気味に言った。
「今日はもう、そろそろ帰らへん? テレビの『機動戦記ギャンダー』、もうすぐ始まるやんか」
「ギャンダーって、あれか? 再放送になってからめっちゃ人気出たって、兄ちゃんが言うてた」
「そうそう。あんなすごい話が、何で最初はあんまり売れへんかったんやろ? だってな、《ええもん》(※良い者、正義のヒーロー側)と《わるもん》(※悪者、悪役側)の戦いと違うんやで。もっと、ややこしいんや。宇宙の帝王ワルダロッサとかが侵略してくるんじゃなくて、敵も普通の人間。スペース・コロニー……って、言うたかな、そういう宇宙の街に住んどる人間と、地球の人間が戦争するんや。敵のロボットも、いかにもワルそうな怪獣みたいな格好なんか、してへんからな」
 まるで自分事のように――自慢するかのように、少年は一気に捲し立てた。
 負けじとケンジも、兄から仕入れたのであろう聞きかじりの知識を披露する。
「ちゃうで。ギャンダーに出てくるロボットは、《ロボット》なんて言わへんよ。モビ……。いや、何やったかな。忘れたけど、なんか新しいって感じやん? 必殺技の名前とかも、いちいち叫ばへんらしいで。もし本当の闘いやったら、そりゃ、そやろな。それでな、普段は目立たへん地味な仲間の人でもな、時々、活躍する話があったりするとか、《わるもん》みたいな方にもちゃんと戦う理由(わけ)とか、あるしな……それって深い感じちゃうか?」
「分かる分かる。本物って雰囲気なんやろ。今までテレビでやってた漫画が、なんか、ほんまに子供っぽく思えてきたわ。ギャンダーのプラモデルもすごいで。お店に届いたらほとんど同時に売り切れて、次、いつ入ってくるか分からんくらいの人気なんやで。ギャンダーとか、肩に大砲ついてるギャンダーの味方のロボットとかのプラモは、それでもたまにお店に売れ残ってることあるけど、敵の方のは一瞬で売り切れや。特に、あの赤いやつとかな」
 背伸び感いっぱいの話しぶりで、少年たちは目を輝かせながら語り合っている。小学生たちのやり取りが微笑ましく思えたそのとき、本能的にぞっとするような、妙に神経にさわるサイレンの音が鳴り響いた。
 その途端、少年たちは青ざめた表情になって、示し合わせていたかのように早足で立ち去り始めた。
「あ、あかんわ。ギャンダーとか言うとる場合やない。はよ帰らな」
「そやな。5時のサイレン鳴ってる」
 いくら昭和に似ている様相だといっても、まさか空襲警報が出るほど古い時代でもないだろうし、かといって、《夕焼け小焼け》やら似たような音楽とともに、夕刻を知らせる自治会の有線放送でもなさそうである。だが、そんな呑気な疑問などたちまち崩れ落ちるだけの緊迫感が、異様なまでの鬼気迫る空気の歪みが、そこには厳然として在った。
「早く帰らな。あいつらが来る」
「やばいで、そろそろ《カイ》出てくるわ」
 
 《カイ》が来る。
 
 不可解ながらも不気味な響きを帯びた《カイ》という言葉が、水川の中で像を結び始めていた《昭和》風の異世界のイメージを、一気に崩壊させた。ここは、自身の知っている《昭和》とは違う。二つの世界の、二つの時代が、いかに双子のように似ていようとも、両者には明らかに異質な部分がある。少年たちは、いつの間にか姿を消していた。水川は、それに気が付く一方、夕闇もすでに手元や足元まで迫っていたことを、今更のように認識した。
 付近の状況から推測した限りでは、このスクラップ工場のような建物は、比較的小さい都市の外れにあると考えられる。山林や原野ではない、中途半端に人の手の入った空き地が、思ったより広大に、そこら中に連なっている。完全に放置されているわけではないにせよ、忘れた頃に草刈りが行われる程度の手入れ状況なのであろう。それゆえか、これまた半端に草の茂った更地に、あの少年たちのような年頃の子が《秘密基地ごっこ》をして遊びそうな、積み上げられた大きな土管の山や、誰が廃棄したのか分からない壊れたタンスやソファーをはじめ、もはや修理しても治りそうにない自転車の残骸など、廃品が点々と転がっている。
 だだっ広い、そんな夕暮れの空き地の中をわずかに蛇行しながら、未舗装の土色の道が向こうまで伸びている。その先には、例の小さな街の場末が見て取れる。それは、ほんの少し前まで、どこにでも普通にあった類の景色であるような気もするが、思い起こしてみると、ずっと遠い遠い記憶の中の風景のようにも感じられてくる。
 気が付けば誰もいない。広い視界の中に人影ひとつなかった。いや、その視界さえも、刻々と濃さを増す夕闇に包まれ、次第に狭くなっていく。
 ――夜になったら、鬼でも、魔物でも出るのだろうか。何しろここは異世界だろうし、不思議じゃないな。
 さすがに地平線までは見えないにせよ、高い建物のほとんど無いこの場所で、夕日が地面に近づいてなだらかな山影の向こうに沈みゆくところまで、水川は目にすることができた。日暮れの大きな太陽は、無性に懐かしさを感じさせる反面、妙に赤々と、溶けていくようで、何故か不気味な印象をも与えているかと思われた。
 
 不意に背筋が冷たくなった。水川は急いで街の方に駆けていこうとする。しかし、最初の一歩が思うように出ていかない。逢魔が時。すでに何かが、そこに立っている。背後から押しつぶされそうな、総毛立つような気配に対し、彼は恐る恐る振り向いた。恐怖そのものが人の形をとったそれは、意外にも見た目においては普通の女性と同様だった。彼女は問いかけてくる。あまりにも唐突に。
 
「私は……。美しいですか?」
 
 黒いロングコートに身を包み、同じく黒の大きな縁付きの帽子に、腰まである黒髪。大きな白い医療用マスクで目以外の表情をほとんど隠した女。彼女は再び尋ねた。
 
「私、きれい?」
 
 ――知っている。ネットで読んだことがある。昭和の、1970年代の終わり頃から日本中を騒がせた、あの……。
 いかに有名ではあれ、単なる都市伝説に過ぎないと思っていた存在が、こうして現実に目の前にいる。スライムだとか、ゴブリンだとか、要するにファンタジー世界のモンスターのような魔物の出現を勝手に想像していた水川は、思いもよらぬ相手を前に、すっかり動揺している。
「と、とても、きれいです」
 正しい対処の仕方など知らない。そんなものは、最初から無いのかもしれない。それでも水川は、精一杯のつくり笑顔で女を褒めた。だが笑おうとしても、目尻が引きつって、口元もぎこちなく震えている。
 女の手がマスクにかかった。彼女はそれを外しながら言った。今までとは違い、聞く者を腹の底から震撼させる、魂まで凍てついた声で。
 
「本当に?」
 
 ほんの一呼吸置いて、返答をそれ以上待たずに闇が舞い降りた。今度こそ逃れられない闇が。そこには絶叫だけが、空しい残響が漂うばかりだった。水川は、最期のときにいったい何を見たのだろうか。
 
 ◇
 
 もうひとつの絶叫が聞こえた。
 いくつもの関節がつながった深緑色の胴体が蛇のようにうねり、その左右に生えた黄色い脚が、寒気を催すような動きで蠢動している。見上げるほどの大きさのそれらが、端的に表現すれば身の丈10メートルほどの大ムカデが数体、地面を貫いて伸び上がり、一人の男に向かって殺到する。小砂利が敷かれ周囲を白壁に囲まれた、どこかの中庭と思しきところで、怪物と呼んでも差し支えないサイズの節足動物に対し、男は木刀一本を手に分が悪い戦いを挑んでいるようだ。
 慣れない手つき、要領を得ない身のこなしで木刀を振り下ろすも、彼の一撃は、ムカデたちにはまったく効いていない。堅固な外骨格に阻まれているためではなく、それ以前の問題だ。よく見ると、木刀がムカデの体に当たったーーと思われた瞬間、木刀と体表との間に、まるで目に見えない空気の壁が挟まっているように感じられる。無闇に木刀を打ち付けるたびに攻撃は弾かれ、男はムカデの反撃をぎりぎりで避けながら、キャメルのトレンチコートの裾をなびかせて右往左往する。
 だが、ムカデはたちまち彼を捕らえ、二重三重に絡み付き、人間には抗い難い力で締め上げた。そして赤茶色の頭部のひとつが、猛毒を宿した牙で、否、そのように見える顎肢を狂暴に開いて、男の首筋を噛もうと構える。
「苦しい! 殺す気か!?」
 彼は、無駄な足掻きと承知しつつも、身体を締め付ける強大な毒虫の外殻を、手に持った木刀の柄で何度も殴りつける。だがやはり、効果は無いようだ。短刀のような大きさの、恐るべき棘が彼に迫る。そして……。
 
 溜息が聞こえた。まさに止めを刺そうとしていた大ムカデの群れは、それを合図に、瞬時に凍結したかのように動かなくなった。若干の沈黙の後、魔物との格闘には場違いな、おっとりした若い男の声が聞こえた。
「クナン君。武器への《満魂(みだま)》の込め方、感覚がまだ分かっていないようだね。今のままだと、低級のカイにさえ通用しないよ」
 平安貴族の幼い若君のような、歳不相応に上品なたたずまいながらも、異様な落ち着きと威圧感とを体にまとった少年が、いや、少年のような姿をした得体の知れない《何か》が、お手上げだといわんばかりに両手を挙げ、ゆっくりと歩み去ろうとする。
「今日の修行は、このへんで終わろうか。コトネが夕食を用意して待っているよ。また明日ね、クナン君」
 次第に離れてゆく声に耳を向けながらも、クナンと呼ばれた男は、大蛇同様のムカデたちに幾重にも巻き付かれ、固く抱擁されたままだった。
「おいおい、《アシヤミ》。いや……そりゃないだろ、ちょっと、あの、《神様》、アシヤミ様? 待って、待ってください、なんだが。このまま置いていかないでほしいんだが」
「ああ、忘れてた」
 アシヤミと呼ばれた少年が苦笑いすると、クナンに絡み付いていたムカデたちの姿は煙のように消え去った。
「《禍刻久南(まがとき・くなん)》。君も一応は《転生者》なのだから、もう少し頑張ってもらわないと」
 そんな声が風に乗って聞こえてくる。地面にしゃがみこんでいたクナンは、気の抜けた調子で立ち上がると、コートに着いた砂埃を叩いて払った。
「そうか。まぁ、そうだな。でも俺は勇者でもなければ、チートな特技あたりも何ひとつ持っていない」
 
 ◇
 
「今度こそ終わっ……て、ない? まだ、生きている」
 逃れられない死の気配に呑まれた水川は、その命がいわば薄皮一枚でつながったことを知って、今更ながらに驚いている。
 黒いコートの女が、目深に被った帽子の下で微かに表情を変えた。いつの間にか、刃渡りが優に1メートルを超える巨大な金属製のハサミを、彼女は右肩に担いでいる。本来なら、この無慈悲な両の刃の間で、水川は意識する暇もないまま斬首されていたであろう。だが実際には、彼の身代わりのように切り刻まれた糸状の何かの断片が、マスクの女の足元に何本も落ちている。
 楽器の弦を弾くような、低く心地よい音が鳴った。
 ――動きまでは奪えなかったですか。満魂の込められた《鋼斬弦(いと)》を一瞬で断ち切るとは。《口裂け女(マスクド・レディ)》が撒き散らす妖気から勝手に湧いて出た、残り滓のような《仮分体》ひとつでも、これほどの力があるのですね。貴重な参考になりました。
 背後の高い木の上に、黒い着物を着た人物が立っている。その気配に水川は今の今まで気付かなかった。身に着けた狐の仮面が印象的で、そのために顔は分からないにせよ、頭の後ろで一本に結んだ豊かな黒髪と、着物に沿って伸びる優美で研ぎ澄まされた身体の線から、この謎の人物が女性であることを彼は理解した。
 彼女は懐から独鈷のような祭具を取り出すと、素早い動きで空中に円陣のようなものを描いた。
 
「ぬばたまの闇の糸、冥府に誘う惑いの調べ、かき鳴らせ……《音切(おとぎり)》」
 
 青白く光る円陣を構成する、大きさの異なる数個のサークルが、それぞれ軋むような動きをして、ひとつひとつ別々の速さで、時計回り、反時計回りに回転し始めた。撥で強めに糸を弾くような荒々しい音がして、魔法陣の中心から無数の弦が花開くように飛び出した。そして高慢で邪悪そうな笑い声が辺りに響いた。
「オトギリ、《幻想弦奏(げんそう・げんそう)》!!」
 その名を狐面の女が呼ぶが早いか、今度は、張り詰めた高い音で弦が鳴り響いた。マスクの女が音のした方を見上げると、さらに多くの弦が乱れ泣き、あたかも蝉時雨のごとき音の結界を作り出す。その中でマスクの女は、無言で棒立ちしたまま動きを止めている。水川は、頭を振り回されるような、立ちくらみのような感覚を覚えつつ、事の推移を呆然と眺めているしかなかった。
 なおも樹上から様子をうかがう狐仮面の女。その肩に被さるようにして、ぼろぼろの白い衣をまとった不気味な存在が言葉を発した。背丈は2メートル近い反面、枯れ枝を思わせる手足は折れそうなほど細く長い。のっぺりした顔、丸く巨大な目には瞳がなく、黒い闇に落ち込む二つの穴となっている。切り分けたスイカのような形で開いた口からは、狂気じみた笑みが漏れ出ている。
「ケケケ。アレが《マスクド・レディ》。《ミトス》の中デモ特別ダというわりニハ、大したことネェナ……」
 異形の何かが甲高い声でそうつぶやいたのに対し、狐面の女は呆れたように首を振った。
「あなたも分かっているでしょう、オトギリ。あれは、単に黙ってこちらの様子を見ているだけ。実質、《幻想弦奏》はあまり効いていません。成り行き上、無視して通り過ぎるのも後で寝覚めが悪いかと思ったのですが、あそこの彼はどうしましょうか。このままでは命を奪われるのは必然。かといって、街まで連れて行ってあげるほど、私は暇ではありません」
 《音切》の名を持つ異形の存在は、意地悪そうに口をさらに歪めた。
「《響(ひびき)》、ココは、何とかシテヤレヨ。ソノ後は……あいツがヒトリで助カルカ死ヌカ、ドチラニ賭けル?」
「いつも言っているのを忘れたのですか。私は賭け事をしない主義なのです。常に嫌というほど命を懸けていますから、今更、遊びで賭けをするなどと……」
 少し不機嫌そうにそう答えると、彼女とオトギリの姿は風の中にかき消えていく。その際、狐面の女・ヒビキは、水川に向かって叫んだ。
「逃げてください! 早く、今のうちに走って!!」
「あ、はい? は、はい、はい!」
 目の前の怪異も恐ろしかったが、彼女の勢いにも思わず気圧されて水川は必死で走り出した。彼をマスクの女が追おうとする素振りを見せたとき、その足が何かに引っ掛かって、つんのめった。マスクの女は化け物じみた大きさのハサミを一振りし、足元に絡み付く弦を断ち切る。だが、それらの弦を切ったのが引き金となって、今度は周囲から無数の弦が、針のように鋭く硬く変化し、矢の雨さながらにマスクの女に襲い掛かる。狐面の糸使い、ヒビキの置き土産だ。
 その間に水川は、とにかく、この場から離れることだけを、少しでも遠くに離れることだけを考えて走った。
 
 ◇
 
「苦しい、もう走れない……」
 なりふり構わず、全力で駆けてきた水川は、もはや動くこともできなくなって、荒い息のもと、倒れるように足を止めた。
 どの方角に走ってきたのか、まったく分からない。だが、街から遠ざかってしまったことは確からしい。どのくらい時間が経ったのだろうか。視界はすべて夜の闇に覆われている。虫の声が微かに聞こえる。途中で何度か転んだせいか、体のあちこちに痛みを感じながらも、彼は立ち上がって辺りの様子を警戒した。例の狐仮面の女も、近くにもういないようだ。
「助かった、ようだな。あの口裂け……マスクの化け物は居ない?」
 まだぼんやりとした意識の中で、彼は先ほど起こったことを思い出そうとする。
「狐の仮面を被った女の人が……」
 その凛々しい姿を想い返しながら、彼は、ため息交じりに言った。
「異世界に転生して、謎の美女に助けられ、それから、次々にまた美女や美少女が仲間になって、ハーレム状態って……そういうよくある転生物の話みたいになったりするのかな。いや、いくら異世界でも、そんなに調子のよいことはあり得ないか」
 直ちに妄想を否定し、肩を落とす水川。ススキに似た植物が密生する草原の中に、彼は取り残されていた。彼をあざ笑うかのように、夜空には三日月がぽつんと浮かんでいる。
 そのとき、起伏のある野原の向こうに青白い炎がひとつ浮かび上がった。それが火の玉のように丸くなり、ふわふわと円を描いて動き出すと、続いてもうひとつ、ふたつ、と同様の青い炎の玉が宙に現れた。
「こ、今度は何だ?」
 
「アソボ、アソボ」
 火の玉がこちらに向かって飛んでくる。闇の中で小さな女の子の声が、無感情に、不気味に響いた。
「ホラ。アタシタチト、イッショニ行コ」
 真っ暗な荒野を抜けて、声は次第に水川に迫ってくる。気味悪い子供の声の主は次々と増え、幾重にも重なり、けたたましい笑い声も混じるようになった。寒気が止まらない。何かが、すぐそこの草むらの奥でこちらを見ている。
「ア・ソ・ボ・ウ・ヨ」
 
 やがて水川の今日何度目かの絶叫が、いや、今度こその絶命の叫びが荒れ野に空しく吸い込まれていった。仄明るい月光のもと、黒い影となって地面に横たわる彼の遺体に、何かが――禿(かむろ)頭の黒髪に可愛らしい着物をまとった、ただし、恐ろしい白目を見開き、牙の生えた口を血に染めて、日本人形のような姿をした虚ろな輪郭の何かが、もはや動かなくなった水川の体に殺到し、我先に喰らいついている。血しぶきが上がる中、生者への怨念に満ちた悪霊たちが散らばった肉片をむさぼり食う容赦のない惨状が、月明かりの下で影絵のごとく浮かび上がるのだった。
 
 これが、夜。すなわち、かの地における《カイ(怪異)》の時間というものだ。
 それは人の支配する時間ではない。
 
 そのとき、繰り広げられる惨劇を前にして、不意に付近一帯の空気が揺らいだような感覚があり、目映く白熱化した扉のような何かが、野原の真ん中に忽然と現れた。光でできた扉が開くと、水川の躯を食い散らかしていた悪霊たちが――生きている人と同様の感情の動きなど無いはずの霊たちが――急にあたふたした動きを見せ、困惑しているように動き回り、あるいは逆に立ち止まって体を震わせている。これは、恐怖だ。霊ですら恐怖を感じている。
 
「コワイコワイ」
 
 人形の一体が、か細い声で言った。それに続いて、あちこちで黒髪の和装の人形たちが口にし始める。
 
「コワイコワイ。コワイコワイ」
「コワイ、コワイ、《乗り手(ライダー)》、コワイ」
「《乗り手》ガ来タ。コワイ、ニゲヨ、ニゲヨ……」
 
 輝く扉の中から、一気に吐き出すように煙が噴き出した。そして爆音、大排気量のバイクのエンジン音が、闇夜を震わせ、轟き渡った。悪霊たちはたちまち霧散し、水川の遺体を置いてどこかに消えていった。今度は低く断続的な、地鳴りのようなエンジン音に続いて、黒と銀の大型のバイクが扉の中から悠然と進み出てきた。月光に浮かび上がる乗り手は、黒のライダースーツと同じく漆黒のマントをまとい、全身黒づくめだ。同様にヘルメットも黒だが、乗り手がこちらを向いたとき、髑髏のような仮面が見えた。
 裾がボロボロになったマントを翻し、乗り手は右手を高々と掲げる。その姿は、直ちに死神を想起させる。夜空を脅かし、突き上げられた手の先に、大きな角ばった何かが――唐突に、まるで巨人を収めるために作られたような、異様に大きい真っ黒な棺桶が宙に現れた。
 それに呼応するかの如く、水川の遺体がぼんやりと輝き始め、やがて光の粒子のように散らばって、三日月をバックに浮かぶ棺桶の方に吸い込まれてゆく。しばらくして彼の体は完全に地面から消失した。静寂を切り裂いて再び爆音が轟き、地獄の乗り手はバイクと共に扉の向こうに消えた。何もなかったかのように、輝く扉も瞬時に姿を消す。
 
【続く】
 
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