本の感想

本の感想など

映画 ナポレオン

2023-12-06 13:35:01 | 日記

映画 ナポレオン

 歴史絵巻を期待してその通りであった。もしフランスのこの時代の詳しくエピソードを知っておればもっと楽しめただろうし教訓も得られたかもしれないが遺憾ながら何も知らないで見に行ったので絵巻物を楽しんでどうやって撮影したのかそればっかり考えていた。

 ナポレオンの人気はわが国の太閤秀吉と同じであろう。最下層からなりあっがてきた人だから民衆皆は自分と重ね合わせることができ、秀吉の姿を思い浮かべるだけで今の息苦しさを一瞬でも忘れることができる。大名の息子に生まれて努力して領土を三倍にして大大名にしましたというお話より断然太閤秀吉であろう。ナポレオンはそれと同じであろう。

 しかし、多分史実通りとは思うがナポレオンは弱虫で嫁さんに翻弄されている。不思議なことに翻弄されている間だけ身分がどんどん上がっていく。縁が切れると途端に駄目になって一番肝心の戦争指揮もダメになって、最後は島流しになる。

 我が国では、普通は内助の功とか言って嫁さんと仲睦まじくうまく行っている間だけ身分が上がるという説が流布しているが、西洋では必ずしもそうではないらしい。太閤秀吉も嫁さんとの仲がどうであったか、ついでに淀君との仲が翻弄されていた仲ではなかったか検証してみると面白い話が出るかもである。古くて分からないなら田中角栄は調べられるんじゃないのか。いずれにせよ嫁さんに翻弄されている間だけ出世するというのは、究極の選択であるな。こういうのをファムファタル(運命の女性)というのかもしれない。

 

軍事の天才が人気があるもんだからと言って政治に手を染めると碌なことがないという教訓とも見ることができる。秀吉も軍事政権であったので人気はあっても政治はうまく行かなかった。源頼朝も軍事政権で、うまく行かないで嫁さんの実家に持って行かれた。弟の義経は軍事の天才と言われたが政治には幼児のようであった。家康は賢くて、政権運営は他のヒトの言うことを聞いたしその子孫によって上手に文治政治に転換することができた。こう見てみると、この映画は軍人のトップが政治に乗り出すと碌なことありませんよという教訓を述べているのかもしれない。今なぜそんな教訓を確認する必要があるのか。

 

ベトナム戦争の終わったころ「地獄の黙示録」(フランシスコッポラ)が作られた。戦闘シーンのスペクタクルが見ものであるが、その実主人公をGHQのマッカーサー元帥になぞらえていて、彼はその地(ということは日本ということになるが)の王になろうとしていたとの批判を暗にしたとの説がある。(わたしは何度かこの映画を見てあるいはそうかもしれないと思ったことがある。)同様に、このナポレオンは、なにかになぞらえられているはずである。そして最後はこうなりますよというようなことを暗示しているはずである。それが分かるまで何度か見たい映画である。

そんなまだるっこしいことやらないでコロンビア映画やアップルやソニーの皆さん種明かしをしてほしいものです。観客数が少ないのが気になります。多くのヒトが見て様々な議論が湧き上がればいいのではないかと思う一作である。映画は冷戦のはざまで作られている。何かの武器の代わりではないかと密かに思うのである。

もちろん他にも昔と言っても19世紀初頭の戦争があんなローマ時代の戦争みたいな形をとっていたのかとか、戦場であんなおいしそうなもの食べていたのかとか、当時の士官の人種構成はどうなっていたのかとか知りたいことは一杯ある。


万人の万人に対する闘争

2023-12-05 11:36:36 | 日記

万人の万人に対する闘争

 ホッブスのリバイアサンに載ってる言葉だそうです。二葉亭四迷の訳だそうで名訳と思ったので今でも記憶している。初めてこの言葉を知った時、わたしは不覚にも同じ町内にある八百屋どうしとかトヨタ日産とかアメリカと旧ソ連が闘争するのであって自分には関係ないとずーと信じていたが、間違いであったことがその後すぐにわかった。各個人がその組織内で他の個人なり小集団と闘争状態にあるようである。単なる出世競争ではない、いじめという形である。そのことがやっと今頃報道されてきた。

 今まではこんな事件が起きても報道されないどころかなかったことにされたのである。学校で不幸な事件があったとする。校長は夜半密かにその家に赴き、その事件の前日の日付の退学届けを出してもらいその不幸な事件は学校と関係ないことにしたのである。単に校長の責任逃れだけではない、学校システムが何の反省もなく何の変更も受けないようにするためである。

お話変わってほんとうに昭和三十年台には「どこそこの何々さん兵隊に引っ張られはってどこそこへ送り込まれはった。」という会話が街門でなされていたのである。引っ張られるの代わりに「兵隊に獲られる」というコトバが使われたこともある。兵役に就くという漢語は街門では使われない。昭和四十年台にはそれに代わって「どこそこの○○ちゃん学校に引っ張られはってえらい目にあわされはったらしいで。」とか「学校に獲られる」というコトバが実際に使われていたのである。庶民にとっては学校は軍隊に準じる面倒くさいシステムだったのである。 学校は軍隊と同じ「辛抱するのが当たり前やろ。」という暗黙の暴力に支えられているシステムである。人々を強制して「辛抱するのが当たり前やろ。」というコトバの暴力に耐えるようにしむけようとするのが学校教育の本質である。これを達成するために犠牲者が出てもいいとまで思っている節がある。

今回の事件が明るみに出たことで会社の経営陣を糾弾してそれで一時の快をむさぼるにとどめてはならない。いまでも社会全体に蔓延するこの昔の軍隊と同じ「辛抱するのが当たり前やろ。」という暗黙の暴力を糾弾しないといけない。頑張ること辛抱することが良い結果を生むとは限らないことにもうそろそろ気付くべきである。暗黙の暴力に従うことが幸せでない。学校も会社も役所も変わらねばならぬ時である。

 暗黙の暴力はふるったもん勝ちみたいなところがあって、いまだにこの迷惑な人々が増殖している風に見える。時代は暗黙の暴力を必要としない時代に向かっていると思われるのにである。


子供の人口増加案私案

2023-12-04 13:17:35 | 日記

子供の人口増加案私案

 ヒトが我が子を育てるのは本能であろう、教えられなくともする。ヒトは賢くなるにつれて本能を失っていくが子育ての本能はなかなかなくならない。たいして老親を看るのは本能のうちにない。もし本能に従うなら老親は見捨てられる。そこで孔子は盛んに親に孝養を尽くせと教えた、子が親に孝養を尽くすと世の中が丸く収まると見たのであろう。(わたしは電車の中で旅行中の中国の少年に電車の席を譲られて感激したことが何度もある。孔子の威力は恐るべしである。)

 子を沢山産み育ててその子の本能にはない「孝養を尽くせとの躾」を教え込むことは自分の老後の生活のためである。もし、自分で教えられないなら人に頼んで教えねばならないから儒教圏では教師先生というのは収入は少なくとも尊敬される仕事であった。

 さて最近日本でも中国でも介護保険で老親は施設で預かりますとなった。これでは親は子に孝養を尽くせとの躾を施さなくなるし、子供を持ちたくなくなる。これが人口減の原因である。ヒトはそんな面倒なことより今を楽しむことに血道をあげたくなる。

モトをただすと、厚生労働省がけち臭くも女性を労働力化しようという「一億総労働力化」を推し進めようとしたためである。それまで日本の主婦は気の毒にも介護の仕事まで家庭で無給で引き受けていたのである。それやらなくていいんだぞありがたく思えと言わんばかりの政策である。それで働かなくてもいいなら感謝もしようが実際はブラックなところで低賃金である。これなら介護のほうがましと思っている人もいるかと思われる。

幸いこれからAIやロボットが仕事をするという。再び昔に戻って、自分の老後の幸せは自分の子供の孝養によるようにするがいい。躾はやりにくかろうから外注してよい。外注する先の先生には給料は安くとも社会全体から尊敬をもって遇されなければいけない。それでもうまく行かないなら孔子さんにあの世から戻ってきて新論語を書いてもらう。こうすれば、介護保険も年金も不要になる。不幸にして子育てで躾がうまく行かなかった人だけを救う必要はあるがである。

およそ役所が良かれと始めた事業には副作用がつきもので、その副作用を消すためにまた新規に事業をはじめようとしている。無駄なことである。