「違和感」の日本史 (本郷和人著 産経セレクト)
どうも産経の本は、編集者の意志は本の中に反映させない方針のようで著者が自由に書いたものがそのまま本になった風情である。ちょうど新聞の夕刊に載った随筆がそのまま本になっているようなもんである。自由にお書きになっただけあって著者の蘊蓄を発揮するのにちょうどいい具合になっている。他の本郷さんの本だと何某と何某の権力闘争はどんな風であったかを著述し、読者は書いてあることから自分が今身を置いている社会の闘争の帰趨を予測するときの参考にすることができる。(自分のことに引き付けて読むことができる。これはなかなか役に立つことがある。)しかしこの本はギネスブックを読むようなものである。なぜある時代の天皇の名前には「光」の字が多用されるのかといった面白いけどその場限りの話題が陸続と出てくる。これはこれで面白いが頭に残らない。
さて自由にお書きになると、日本史に関係ないけどアレっと思うような記述に出会う。そんなこと書かなくていいように思うけどどうも学者は収入が少ないそうである。なるのが難しくてなったところで収入が少ないとなるとだれもなり手がいなくなる。そうなると日本の文化の質が低下する。文化も大事な国力であることをもっと知ってもらわねばならないだろう。国を守るのは何も目に見えるものだけではない。
そこで思い出した。わたしの小さいころの友人の父君に高名な(今でもその著作が売られている)日本史の学者がいる。その友人宅へ遊びによく行ったが、大きな家の一番奥の広い庭の端に小さなトタン葺きの納屋があってその納屋が書斎であった。あれでは夏の暑さ冬の寒さは耐えられないであろう。ある日、夫人が昼ご飯をお盆に載せて運んでいくのを見かけたことがある。麦飯の丼に卵が一個かけられている、それだけで他何もない。学者は暇そうでいいなと思っていたが、そんなことはない。学者は昔から(小泉改革の前から)かなり過酷な仕事であった。と断言してはいけない。かなり過酷な環境の中で大変な成果をあげた方もおられるようだと言わねばいけない。
もう少し学者を大事にしたらどうか。が読後の感想である。