もう東大話法にはだまされない(安富歩著 講談社+α新書2012年)を読む
この本は東大話法とそれをさらに深く掘り下げた「立場主義」について痛快な考察をしている。普段は中身カスカスの講談社+α新書にしては中身が詰まっている。
東大話法とはこの本の中で細かな定義があるが、2011年に盛んにテレビに出ていた原子力問題の専門家のしゃべり方のことである。その専門家は大抵東大卒だから東大話法というのである。しゃべり方は専門用語を用いて視聴者にマウントをとるまたは煙に巻く、さらに慎重に事前に検討を行ったと見えて責任を追及されないように発言に工夫がある、ぬらりくらりしているように見えて結論はあるがそれはどうやら政府の意向に従っている、などの特色がある。一言で言うと賢そうに見えるけど実は中身がないのである。ちょうどうまそうに見える豚まんだけど、皮がまずくて厚くて食べても食べてもアンの部分になかなか到達しないようなもんである。
私は当時だんだん見るのがあほらしくなって、出演している専門家の人々は出演料どんだけ貰うんやろとか、この場合青色申告できるのかとか着ているスーツは必要経費にできるのかとかの他人の心配をしていた記憶がある。見ていると10年に一度くらいこういった専門家が登場するような時代になったようである。ただし分野は全く異なるので、一人のヒトは出るとしても生涯一回限りであろう。
さて、こういう喋り方は東大卒だけではない。最近私はある人々と話していてそのうちの一人(東大卒ではない)が「ご不審の思いを抱かせたとすれば謝りたい。」と言い出したには驚きあきれた。責任の所在は自分にはないということを大声で宣言してもうこれで終わりにしたいということを言ってるようなもんである。私はあきれてもうそれ以上何も言わなかったがこの人はこの組織の中で出世を果たすだろうということと、この組織はまもなく終焉を迎えるだろうということを予想した。果たしてこの人は出世したが、この組織は私の予想に反してまだしぶとく命脈を保っているのは残念である。
著者の安富さんは、東大話法が流行っているような国の命運が危ないとおっしゃっている。同感である。語りてが、言葉と実態とを一対一に対応させる努力を払わないようならそれを聞いて方針を立てることは危ういことだからである。
さらに著者は議論を進めて、このような話法を編み出した裏側には仕事をするについて個々のヒトが居るのではなく「立場」があると分析する。ヒトが言うのではない、立場が言うのである。なるほど感情をもった人としてはこういう時にこういいたいけど、言えないときにその人は「それは立場上口が曲がっても言えませんな。」という発言をするのを聞いたことがある。この場合、この人は事実上は言っているのであるが公式には言ったことにならないという微妙な立ち位置にあるがそれで許してくれと言う意味である。
この立場主義は、江戸城で老中が議論するときまたは朝廷でなんとかの朝臣が討議するときに磨かれた手法ではないかと思う。平和なときにはそれでもいいけれど火急の時に立場によって考察するととんでもないことになる。すでに火急の時になっている。
立場としてサービス残業をする。(個人としてはしたくない)立場として過労死するまで働く。(個人としてはしたくない)などなどであると著者は説く。
海外旅行をして帰ってくると日本人の顔が思いつめたような異様な真剣さであることに驚くことがある。立場に乗っかって立場を主張するとこういう顔になるのではないか。個人というものがまだこの国にはないのではと思うこともある。