先日本ブログで無線のことを書いたら、かつての同僚からメールをいただきました。
彼は戦後まもなく無線電信を専門に仕事に従事し、南極越冬隊員でもありました。
この時の故福島隊員の遭難事故に纏わる話は胸が詰まるものがありました。
ここに彼のメールの全文を彼の了解を頂き、アップします。
この度は無線会の会長ご就任おめでとうございます。
ご苦労様です。
マルコ二ーの話から、私のトンツー人生を振り返りました。
①昭和23年、大阪普通逓信講習所京都太秦支所入所。
(満13歳)他は復員兵。いやいや大変な時代。
②全国で不足している電信要員の早期育成。教養科目の
ほかは通信実習。教官が4段抜きの新聞記事を30行ほど
送信し、それを暗記受信、正解しないとトウモロコシのパン
が食べられない。これこそ必死。おかげさまでいつも食事にあ
りつく。 動物の本能かも。
③昭和23年12月から中舞鶴郵便局に配属。
昭和26年~28年まで、東舞鶴電報電話局でナホトカか
らの引き揚げ者の名簿受信(高砂丸から長崎無線へ無
線で乗船者名簿の送信)陸線で長崎無線から東舞鶴電
報局へ転送、それを受信。報道各社へ配信。全国紙に
引揚者の名簿掲載。 ここが「岸壁の母」(故人、端野せい
様)の舞台。
④大阪中央電報局(有線トンツーマン約3千名)で数十万通
の電報を送受信、小生、北浜の証券会社との担当課に配
属され、印刷電信(テレタイプ)で送信側は1日中送信、受
信側も同じ。30分に1度、異常なしとの合図、電鍵でトント
ンと知らすのみ。
トチルと即交替の指示。意地でもそうされないように。
⑤1969年、11次隊として南極へ。トンツーが全ての連絡手段。
担当2名で12時間交替。
一人が調査旅行に出ると、一人が24時間ワッチ。
併せて、2KW~5KWの短波送信機3台(特注で日本に1台し
かない)の整備保守。 28波自動切換え。
これがトラブルの連続、異常発熱で架内配線火災、予備機な
しの日々。胃潰瘍気味の連続。通信運用では、外国基地と
のデータ交換通信、銚子無線を介し文部省へ定期データの送
信、家族への電報送受信など、南極活動の生命線。
⑥現在、第51次隊が南極へ向かっています。インタネットの進展
で越冬生活は激変。トンツーもなく、夕食後の一家団欒の時
間もなく各隊員自室に篭るとの事。隔世の感があります。
一体感の欠如と、ある隊長が一言。
以上
モールス通信は今や商業通信から一線を退きました。
1991年にはFGMDSS(遭難通信、SOS)でモールス信号の受信義務が海上通信からなくなったからです。
今、アマチュア無線でモールス通信を楽しむ人がいる程度になりました。
かつて彼と千葉県銚子無線局周辺を歩いている途中、「美空ひばりさんが亡くなった。」と彼が言いました。
不思議に思った私が聞くと、アンテナ碍子からでる火花が、モールス信号で南極昭和基地向けに新聞伝送している中身が聞こえたから、と言ったのです。
子供の時に鍛錬した「耳」の能力には驚きました。
テレックスの機械音でも字が見えると言うのです。
流石全国モールス通信競技会の上位入賞者はいくつになっても忘れないのだな、と思った。
プロの耳、とつくづく思ったものです。