きょうの教会ごはん 

神様との食卓で、一緒にご飯を食べましょう!

Kosher (30分de一巻 Realities 21)

2020年06月08日 | 羊の声

https://www.facebook.com/bfpjapan/posts/1572345202913795

ここ数回の30分de出エジプト/Realitiesシリーズでは、十戒、律法、お祭り規定など、キリスト者にとって真の意味で基本の基本であることを学んでいる。今回の食餌規定についても、「コーシャ」の意味は、「適正」であることに始まり、その目的が何が聖であり、何が聖でないのかを区別することにあると知り、また繋がった感に打たれる。

ちょうど少し前でFacebookの別投稿を見て気になった部分が、クリアに教えてもらえた。ポイントは、「反芻」「蹄」「鱗とひれ」。ただ読んでいるだけでは、確かに訳わからない。しかし、それをわからないままに通読を続けるのではなく、日々の礼拝、学びで求め、受け取り、積み重ねていく。それが大切であり、そうして実践に移してこそ、キリスト者として対応ができる。クリスチャンであることは宗教ではない。「生き方」であり、「神様との関係」だ。ただ聞いているだけなら、教会にいる必要はない、とこの緊迫した時代に主が語られていること、メッセージを通して確認された。

ポイントである「反芻」「蹄」「鱗とひれ」は、御国に向かう生活、聖別された神の民であることが秘められている。これもまらミステリオン!そして律法は愛によって包括される。御言葉を反芻し、聖別された生活によって、御国への歩みを「生きる」。

わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。

ただ守る、従うだけでなく、それらをいただき、気前よく分け合い、如何に生きるかで証人となれる。奥深いポイントの数々があり、何度でも繰り返し聞きたいメッセージでした。感謝。


日日是好日

2020年05月28日 | 羊、朝の一声

武漢ウィルス後の世界【エンジェル田中Ch.】

 

Stay Homeで、休職中であれ失業中であれ、一日一日を自分なりに精一杯生きて行けば、おのずと道は開けて行く。日日是好日なのである。

 


「モーセの十戒」 (30分de一巻 Realities 18)

2020年05月18日 | 羊の声

十戒は、神様と人との関係を土台にして表された人生の基本的ルール。愛の関係を土台とし、人に対する神様の信頼が込められた「約束」だ。ヘブル語では、律法を意味する「トーラー」と「ありがとう」の語は似ていて他国人には区別つかないほど。つまり、十戒は感謝そのものなのだ。「戒め」ではなく、宗教や神学でもない。神様にいただいた人類普遍の原則。


תּוֹרָה= Torah
תודה= thank you


その約束をないがしろにした結果、人類は略奪と虐殺の歴史を辿る羽目となった。神に背を向け、隣人を愛さず、嘘をつき、殺し合いの結果だ。十戒を守ること。あたりまえの約束を守り通すこと。それが、神の民としての証しとなり、その中で聖霊様が働かれる。いただく前に神様がおっしゃったように、宝となり、祭司の王国、聖なる国民となる。

今日の一番の感動ポイント:十戒は、出エジプト後49日目にいただいた。それは、新約での五旬節の聖霊降誕に繋がること。今日の私に適用すること。ヘブル語の否定未完了形なら、「そうしないはずないだろう」だ!


「ヤコブの遺言 I  」 (30分de一巻 Realities 15)  」4/26/2020 礼拝

2020年05月06日 | 羊の声

集まりなさい。わたしは後の日にお前達に起こる事を語っておきたい。(49:1)

 ヤコブは最後の力をふりしぼって、 臨終の床に子供達を呼び、彼らの将来を預言した。
 新共同訳の見出しには「ヤコブの祝福」とあるが、実際に祝福されているのはヨセフだけ。
 後、褒められてるのはユダぐらいで、半分以上は、蛇だの、ロバだの、狼だのとロクでもない。
しかし、ここで息子達を美化したりせず、ありのままの姿が語られ、
それに応じた祝福が与えられている所が、聖書が真実である所以。
ヤコブが12人の息子達に「耳を傾けよ」と語った遺言とは?(メッセージより抜粋)

 

嬉しかったので、ここにもアプリを記載します。MU'Sアプリケーション。

「ヤコブの遺言」パート1。創世記49章には、ヤコブが臨終の際に子供たちを呼び寄せ、それぞれを祝福したことが記されている。しかし、べた褒め、甘々の「祝福」ではなく、父として息子たちのありのままの姿を認め、それに応じて「耳を傾ける」べき遺言が語られている。これこそ「祝祷」だと思った。

聖書は失敗した人の証集だ、と師もしばしば語るが、失敗を含めた生きる姿勢、罪ゆえに弱さを知る人間と創造主神様との関係をこの祝祷とも見える遺言に見た。まさにイスラエルの歴史は、クリスチャンの人生。

更に「失われた10部族」の解説から、想定外の結末を受け取った。神様は真の礼拝者、信仰者を求めておられること。南北分裂、北王国・南王国の滅亡、捕囚と帰還、それらの困難を経て真の信仰者を呼び集め、導き、礼拝する者とされていったこと。そしてそれは、今、終末を見る私たちにも問われていることではないだろうか。

荒野でしか学べないことがある。困難があってこそわかることがある。ヤコブ自身、「苦しみの人生」を歩んだからこそ語れる遺言なのだ。そうして12部族が適材適所に整えられるよう、クリスチャンも錬り聖められていく。新しいエルサレムの門に至るまで。主の大いなる恵みと憐みに感謝しました。


なんと三年ぶり

2020年04月28日 | 羊、朝の一声

久々に記録したいな、と思うことあり、ブログページを開いた。開けてびっくり、最後の投稿から3年以上経っている。月日の経つのは早いもので、、、などは単なる言い訳。反省の意味を込めて背景をナマケモノに変えて、再起動!の予定。ナマケモノが動き続けられるよう、応援ください。

今日の聖書箇所:申命記11章11~12節 (新共同訳)
11:あなたたちが渡って行って得ようとする土地は、山も谷もある土地で、天から降る雨で潤されている。
12:それは、あなたの神、主が御心にかけ、あなたの神、主が年の初めから年の終わりまで、常に目を注いでおられる土地である。

「常に目を注いでおられる土地」があるなら、ハテ?そうでないところがあるのか?と疑問を持ったのが発端。11節では、自らの力ではなく、神様の恵みによって生きることを感じた。その恵みはクリスチャンでなくても与えられていて、神様は全世界全人類に常にご覧になっているはずでは?しかし12節には、「そうでない土地」があるように読め、不思議に思った。その後、思いを巡らせていると分かったことがあった。「そうでない土地」があるのではなく、「そうでない土地」を作り、それを全力で守る人間のテリトリー(分野、域)があること。神様が目を注がれていないのではない。隠れ、塀を作り、囲いを強固にして、目を注ぐことのできない暗い場所を作っているのが人間なのだ。それは私にもある。隠してどうなる?と思いつつ、隠し続けているものがあったりする。しかし、天から降る雨、恵みで潤されている光の部分にこそ、神様の目が注がれる。この恵みなしに命はない。その最大たる恵みがイエス様の十字架だ。

あまり長文にしたくないので、要約だけ。起承転結が甘いのは承知で、個人的メモのつもりです。「朝の一声」、続けていけるといいな。とひっそり誓ってみる。


「主は救い」

2016年10月01日 | 羊の声


モーセ五書を終え、「ヨシュア記」に入りました。この「ヨシュア記」はヘブル語でも同じタイトルが付いています。「イエ・ホシュア」、その意味は「主は救い」。イエス様のお名前と同じ(イエスはギリシャ読み風)です。タイトルは同じものの、私たちは歴史書として分類しますが、ユダヤ人ではこの書を預言書としているという違いがあります。

ヨシュア記は、ヨシュアが指導者となってヨルダン川を渡り、エリコ攻略や先住民と戦いを経て、カナンの地に入り、12部族に相続地分配を完了して、彼が死ぬまでの約30年の出来事が語られています。かつてモーセに率いられてエジプトを脱した第一世代は全て死に絶えました。その後、ヨシュアと次世代の民が約束の地をどうやって自分たちのものにしていったのか、が記されています。旧約では、しばしばその時の長さ故、「第一世代は全員死んだのね」「それで、次は?」と他人事のように安易に読み飛ばしがちです。が、いつでも聖書は「私」に語られている御言葉であることを忘れてはなりません。このヨシュア記で、イエス様が今の私たちに伝えたいメッセージは何でしょうか。いつでもこの思いを抱いて、御言葉を聞きます。

まず、なぜ約束の地に入るリーダーがモーセではなく、ヨシュアだったのでしょうか。モーセと言えば、聖書にも「こんな謙遜な人はいない」と言わしめ、ユダヤ人には第一人者と考えられる人です。しかし、そのモーセは約束の地に入ることはできませんでした。直接的な理由としては、「メリバの岩事件」。モーセは岩に命じる代わりに、岩を杖で2回叩いてしまいました。岩とは「救いの岩」の象徴であり、イエス・キリストの雛形です。つまり、モーセは神の無償の愛を表すことに失敗してしまったということです。

しかし、より深い意味があります。それこそが、モーセが約束の地に入れなかった真の理由です。聖書ではモーセは「律法の代表者」とされています。つまり、律法によっては救いは完成できないことが、この時点ではっきりと告げられているのです。律法=モーセからヨシュア=イエス様に、神の救いは引き継がれました。ヨシュアは、民を約束の地へ導いたイエス様の原型です。

内容的には大きく3つに分けられます。
1-12章: ヨルダン川わたって土地を占領する
13-21章: その土地を12部族に分け与える
22-27章: 約束の地に置ける生活

次に、ヨシュアの人となりを考えてみましょう。モーセと比べて、ヨシュアは専ら若いイメージを持たれますが、実はモーセと同じく80歳代のおじいちゃんです。彼が召命を受けたのもモーセの召命と同じ頃、80歳くらいでした。モーセは王宮生活から羊飼いに落とされ、40年間かけてコツコツと自我を削られ、神様に用いられるようになりましたが、ヨシュアはずっとモーセの下にいて、実地現場でリーダー資質を学びました。一番近くでモーセに従い、40年間見続け、リーダーであったモーセが約束の地に入れない理由も十分にわかっていたのです。ヨシュアは、自分が置かれた立場と自分の持ち場に忠実な人でした。だからこそ、モーセの後継役を任されたのです。

ヨシュアのリーダー性が最も顕著な部分があります。5章、彼が諸刃の剣を持つ天使に出会うシーン。そこでヨシュアは一切質問をすることなく、すぐ素直にひれ伏して履物をぬいで従います。履物を脱ぐということは全面降参の意味です。かつてモーセも同じことを神様から言われました。持っている拙い道具を捨て去り、裸足になって戦うことを止め、忠実に従うこと。これが彼の優れたリーダーとしての資質です。わかっていても言うは易く行うは難しで、なかなかできることではありません。(牧師然り…)

またヨシュアの信仰で着目すべき二点があります。まず最初はヨルダン川。ヨルダン川を渡ることは、神様の約束の地に入る第一関門です。イエス様も洗礼を受けた川だから、とサラサラ流れる小川を想像するのは大きな間違い。この時のこの場所のヨルダン川は、水が溢れるように流れ、渡れるとは思えないような大河でした。モーセもまた、かつて大水を前に奇跡を体験しましたが、モーセの場合は海に手を差し出すと水がさっと分かれ、乾いた地を渡ることができたのです。しかし、ヨシュアの場合はそれとは異なっていました。ヨシュアは、轟々と流れる川に一歩を踏み出すと水が分かれたのです。

この差をきちんとわかっておかなければなりません。これは、救われる時と救われた後の話だからです。救われるのは何の努力も功績も必要ありません。民が偉かったわけでなく、民が祈ることもなく、モーセは海を渡ることができました。これが神様の恵みです。しかしヨシュアの場合は違いました。

聖書は過去の話ではありません。今、私がヨルダン川の前で「渡れ」と言われたらどうするのか?、を考えなければなりません。悲しい哉、多くの普通の教会は、川岸で『リバイバル祈祷会』を始めるでしょう。それでは決して渡れません。何年経っても川岸に居続けるだけです。何の保証もありませんが、ヨシュアは一歩を踏み出して、だからこそ渡ることができたのです。これが信仰の法則です。人は確証を求め、計画を立て、備えを待って進もうとします。しかし、神様の計画はそうではありません。神様の意図を聞き、神様の計画を進んで行くこと。それがヨシュアの信仰から学ぶ第一点です。

第二点はエリコ占領です。有名なエリコの戦いですが、この戦い方は非常に奇妙なものです。毎日町の周りを一周するだけを繰り返し、七日目に七人の祭司が七周して七つの角笛を吹いた時、城壁が崩れました。「おぉ!神の奇跡!」と今でこそメッセージされますが、私がそれを命じられた兵士だったら?と考えてください。聖書は過去の物語譚ではないのです。回っている間に攻撃されるかもしれない、七週回ってどうなるのかわからない、城壁が崩れるなんて考えもできない。そんな状況下であっても、ヨシュアは実行しました。兵士にその理解不能な状態で命じ、為し遂げさせたのです。この二点が、ヨシュアがリーダーでなければならなかった理由です。彼は徹底的に従順だったのです。

さて、もう一人、知っておくと楽しい重要人物がいます。新約聖書にも3回登場する特筆すべき人物、それはラハブ。ある意味ヨシュアよりも語られる彼女は、イエス様の系図に記されている五人の女性の一人です。映像作家でもあるえんぢぇる師は、いつか彼女を主役とした映画ができてほしいと昔から言い続けており、今回も熱く彼女と二人の斥候の話で盛り上がってくれました。

信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。(ヘブル11:31)

同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。(ヤコブ2:25)

ラハブの話は2章に綿密に記され、そこからは彼女の素晴らしい器量が読み取れます。正確な情報収集力、的確な判断力、迅速な行動力と力強い交渉力。いずれも第一線のリーダー顔負けの優れた器です。二人のスパイは、超重要任務を任された一流の軍人だったはずです。その彼らに「あなた方のために命をかける」と言わせるほどの才腕は、現代であればまさしく大成功した女性起業家に違いありません。

しばしば私たちは「娼婦ラハブ」と、どこか彼女を憐れむような蔑むようなイメージを抱くことがあります。確かに彼女は娼婦でした。しかし問題は彼女ではないのです。これほどの才を持ちながらも、家族の生活を守るために身を売らなければならなかったカナンの地にこそ、問題があったのです。神なき地で、歪みに歪んだ当時の社会事情。それをイエス様がプラスに転じて用いられた!そのことがイエス様の系図の「ラハブ」の一語から感動をもたらしてくれます。更に更に、えんぢぇる師は今後のラハブ主役映画の構想をとくとくと繰り広げてくれました。

ラハブもヨシュアも御声を忠実に受け取り、困難な状況にあったにも関わらず実行しました。神様に語られたことを実現する事実として受けとめて、具体的な行動によって自分のものとしたのです。これがヘブライ人への手紙11:1でも語られている、ヘブル的な「信仰」という意味です。神様の御言葉は実現したと信じ、自らの行動をそこに従って具体化していくこと。「信仰」というと時に形のない曖昧なイメージで捉えられることがあり、間違いとは言えませんが、真の意味では体現が伴うことなのです。信じているけど行動は別、ではありません。聖書の世界はいつでも、信じるか信じないか。従うか従わないか、祝福か呪いか、光か闇か、生か死か、の選びにかかっているのです。

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

最後に聖絶について確認しておきましょう。信仰によって城壁が崩れた後「ことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした」皆殺しが神様の御心なの?愛である神様のなさることなの?と、しばしば理解に苦しむ箇所です。世のメディアでは、イスラム原理主義のジハード(聖戦)などと同意に扱い、宗教の独自性として同一視して、混乱させています。「自分を愛するように隣人を愛しなさい」という律法の黄金律と、「滅ぼし尽くせ」はなぜ一緒に存在するのか、という問いに私はどう答えることができるでしょう。非常に深い内容なので、今回はその際に考慮すべき点のみ、教えていただきました。(私たちはそれぞれここから考えて答えを出していきましょう。)

最初に、「聖絶」で使われている言葉は、ヘブル語で「ハーラム」と言い、「分ける」という意味です。何から分けるかといえば、神様の価値観と異質なものから聖別するのです。例えば、あのユダヤ人の信仰の父、アブラハムがいただいた祝福の基となる約束には一つだけ条件がありました。「あなたの国を出て、わたしが示す地に行きなさい。」です。神様が条件を付けたその理由は、「ハーラム」故です。彼を偶像礼拝が蔓延る環境から守るためでした。人間の弱さをご存知の神様は、悪環境から離れることを求められたのです。

また聖絶については、聖書の一部、申命記とヨシュア記だけを持ちだすのはまちがっていることに気付かなければなりません。聖書を読めば、
 ノアの時代に洪水によって人類を滅ぼされた、
 ソドムとゴモラの町を火と硫黄によって滅ぼされた、
 エリコの町をユダヤの民によって滅ぼされた、
 そして来る終末にはこの世の地上悪をキリストの天の軍勢によって滅ぼされる(将来形)、
これらはすべて同じことなのです。エリコの人々が滅ぼされたことが受け入れられないとしたら、終末にイエス様が地上悪を滅ぼされることも理解できないと言っているのも同じです。

クリスチャンとは、聖霊の内在があり、十字架の救いと復活、そして裁きと再臨を信じている人のことです。終末の裁きを信じられないのであれば、その人はまだクリスチャンではないのです。だから、クリスチャンはエリコのメッセージを真摯に受け止めなければなりません。エリコは過去のことではなく、これからすぐにでも起こることなのです。私の親しい友、愛する家族も同じことになるという神様のメッセージなのですから。「信仰」をもって対応しなければなりません。

そして最後のポイント。神様は裁きの前に必ず機会を与えてくださいます。決して突然のことではないのです。神様が人類に語られた最初の言葉は、「あなたはどこにいるのか?」です。罪を犯したアダムに、また弟を殺してしまったカインに、そして私たちにも語られています。全能の神様が御存知ないはずはありません。これは悔い改めの機会をくださっているのです。しかし、人はごまかしてその機会を逸してしまうのです。

天国から閉め出される人は誰もいません。「天国の門は狭い」と勘違いしている人がいますが、狭くて入れないのではなく、いろいろあるので見出すのが難しい、というのが正しい意味です。人は生きている間に「選び」を与えられます。神様は自分と関係ないことを選ぶのであれば、死後その希望通りになるだけです。神様との関係が途絶えている場所、地獄へは選んだ人が行くのです。神様は決して入国拒否をされません。

人は誰であろうが、どんな罪を犯そうが、イエス様の十字架によって免れることができるようになりました。最低最悪の聖絶が十字架です。私(あなた)が聖絶される代わりに、イエス様が代わってくださったのです。それを選ばないのであれば、自ら聖絶されて滅ぶ選択をしていることになるのです。そしてヨシュアもモーセも最後に万感の思いを込めて伝えました。「あなた方は神を選べ。」「みんな好きにしなさい、私は主に仕える。」と。これは人間が主に仕えることができないことの預言です。その通り、「アーメン、主に仕えます」と宣言した民は、この後反逆の歴史を延々と34巻繰り返してしまいます。10日余で約束の地に入れるはずが、40年間を彷徨った荒野の生活のように。

カナンの地はクリスチャンにとって天国の雛形です。同時に救われた後のこの世に置ける祝福されたクリスチャン生活の雛形でもあります。その地は与えられる神様との約束が最初にありました。祝福の所有権は恵みによって与えられるのですが、地上での生活の祝福は、個人の信仰的選択が問われます。所有している祝福の使用権は、日々の戦いによって得続ける必要があるということです。誰でも仕えたいものに仕えることができます。その選択が、いつでもイエス様に従って行くことであるよう、祈り続けましょう。

この後、反逆の歴史の始まりです。そして士師記へ。。。期待も続きます


「これらが言葉である・・」 申命記FBコメント

2016年09月26日 | 羊、朝の一声


モーゼ五書の締めくくり総決算第五巻、最後の律法書である申命記。これはモーゼの決別説教。80歳のモーセが、神様の命令でイスラエルの民を罪の場所から引き連れ出し、40年もの間、荒野で「神様に従う」ことを教え続け、しかし自分は約束の地へ入れないと知った彼が最後に、新世代に対して神の民として知っておくこととして繰り返し語った渾身のメッセージ。あなたが知らなければならない、守らなければならない神の言葉はこれだ!申命記のテーマは「これらが言葉である」。

イエス様が荒野の誘惑でサタンに立ち向かった言葉はすべて申命記からあり、新約にも引用が多く、厳かで立派な書というイメージはあったものの、内容として私の中に落ちていませんでした。それが「これが神様の言葉だ!」と語られました。イエス様は御言葉の権威をもって語ってくださいます。それは過去に書かれたことが今でも生きていることを教え、神様は今も生きて働いておられていることを繰り返し知らせてくださるため。モーセが血を吐く思いで語った申命記のように、聖書は神様が強く大きな愛を持って、私たちに神様を選ぶこと、共に生きることを語り続けてくださいます。あらためて神様の言葉、聖書をより深く学ぶ意欲を与えられました。


またまた、追い付いていないブログレポートですが、まずはコメントでお茶を濁しておきましょう、と。。。

「荒野にて」(「べ・ミドゥバル」בְּמִדְבַּר) 荒野の唐揚げ編

2016年09月24日 | 羊の声
聖書中、最も有名な聖句と言えば、ヨハネ3章16節。「John 3:16」はアメリカではしばしば看板やポスターでも街中で見かけます。あの美味しいハンバーガーショップのIN-N-OUTの飲み物カップの底内側や、アパレルのFOREVER 21の袋にも印刷されています。(両方とも、クリスチャンカンパニー)救われた時にいただいた御言葉であったり、最初の暗唱聖句である人も多いことでしょう。しかし、この超有名聖句の前に、民数記の一事件について書かれていることを、クリスチャン10年以上している私は分かっていませんでした。

 


天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:13-16)

モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。(民数記21:09)

民数記21章は、神様が攻めて来るカナン人にイスラエルを勝利させるところから始まります。しかし勝利したイスラエルの民は、なんと「食べ物が粗末だから、もうエジプトに帰って奴隷していた方がマシだ!」とつぶやくのです。客観的に読めば、なんておバカでわがままな、と思いますが、ここでかの有名な唐揚げ好きMさんが登場し、実にリアリティに溢れる例で教えてもらいました。神様に救われたものの、40年間唐揚げなしの生活にあなたは耐えられますか?と訊かれると、はっきり言って自信がありません。要はそう言うことです。私はわがまま放題のおバカな民と同じなのです。

そんな民に、神様は炎の蛇を送られ、その蛇にかまれた者がバタバタと倒れて行くのです。その時、民は再び泣きつき、悔い改め、モーセの祈りによって青銅の蛇を掲げ、それを見上げた人はいのちを回復したのです!青銅の蛇はイエス様の十字架を予表したもの。「信じる者が皆、永遠の命を得」て、救われます。

これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(Ⅰコリント10:11-13)

また上記第一コリント10章13節の有名聖句。これも暗唱している人は多いはずですが、その前、1節から12節には、民数記の出来事が記されています。13節は、そのことを踏まえての適応として、本来は語られている御言葉なのです。

更に、メリバの水事件もありました。この失敗によって、モーゼはカナンに入れなかったのですが、この理由もわかりづらいかもしれません。これは、神の権威の乱用を諫めています。モーゼはこの時、岩を二度叩いてしまいました。自我にとらわれ、感情的になったのでしょう。しかしこれは、神様の絶対的聖を汚したことになるのです。このため、モーゼはカナンの地に入ることができませんでした。

まだまだあります。あのバラムという人はなんと民数記だけでも22章から24章の3章と、プラスアルファで登場し、その後、申命記、ヨシュア記にも名前を出します。しかも、新約にも3回(第二ペテロ2:15、ユダ11節、黙示録2:14)その名前が出て来るのです。調べてみたら、旧約にも更に二回、ネヘミヤ、ミカにも名前がありました。が、いずれも避けるべき注意の対象として書かれているのです。

バラムはもともとは預言者でした。しかし、不義のもうけを好み、二心を持ったために、道から外れ、悲惨な終わり方をしました。正しい道から出発することだけでなく、その道を最後まで歩き通すことがとても重要なのです。彼はメシア預言までしているにも関わらず、死んだときの記録では、「預言者」ではなく「占い師」と呼ばれました。神の代弁者である預言者として出発しましたが、最後には神の敵である「占い師」と成り果ててしまったのです。

私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。(民数記24:17)

不幸な者たちです。彼らは「カインの道」をたどり、金もうけのために「バラムの迷い」に陥り、「コラの反逆」によって滅んでしまうのです。(ユダの手紙11節)

黙示録の直前にあるユダ書は、信仰の霊的闘いがテーマです。ここで、真の礼拝を怠ったカイン、貪欲と二心のバラム、そしして高慢と反逆のコラが不幸な者と呼ばれています。バラムもコラも、民数記中の事件です。

同時に、ユダヤ人が安息日の最後に祈る言葉もこの民数記にあります。彼らは未だメシア到来を待ち望み、流浪の二千年間、欠かすことなくこの祈りを献げ続けています。ユダヤ人が最後に救われる根拠となっている神様の約束です。

主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
主が御顔を向けてあなたを照らし あなたに恵みを与えられるように。
主が御顔をあなたに向けて あなたに平安を賜るように。
彼らがわたしの名をイスラエルの人々の上に置くとき、わたしは彼らを祝福するであろう。
(民数記6:24-27)


信仰を持った者は荒野の道を歩くことになります。行けども行けども、荒野に続く荒野。周囲の敵はたくさん、問題は山積み。現実生活の中で、あたふたしているクリスチャンの姿があります。神様は、今の霊的戦いを戦い抜く戦士としてクリスチャンを考えておられ、約束の地へ「わたしが共に行く」と導いてくださっています。その神様への信頼=信仰を強く持ち続けること。それが「荒野にて」語られた神様の約束、言葉なのです。

「荒野にて」(「べ・ミドゥバル」בְּמִדְבַּר) その壱

2016年09月18日 | 羊の声


「はじめに」「これらが名である」「神は呼ばれた」、そして民数記。大胆なご意見のえんぢぇる師は「出エジプトから民数記に話は続いている、とおっしゃったけど、私は二巻(出エジプト記)、三巻(レビ記)、そしてこの四巻(民数記)への流れに感動したのでした。

二巻最終章40章 のほぼ最後では、「雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。」(34&35節)と、神様の栄光が幕屋に満ちている様子がありました。第一巻の創世記は、光で始まったものの闇で終わっていますが、二巻は光、それも主の栄光で終わるのです。そして第三巻、その光の中から「神は(私たちを)呼ばれた」のです。圧倒的な真実の光の中から、そこに近づきたくても近づけない私たちに「声」をかけてくださり、神様に近づくための「礼拝規定」を教えてくださいました。さぁ、だから礼拝するぞ!と思うものの、続く四巻の始まりは「荒野にて」?え?と思いますか。でも思い出してください。イエス様が公生涯に入られて最初にいらっしゃったのは荒野でした。サタンの誘惑に遭い、退けられたところです。そして第四巻民数記では、救いに与った民がシナイ山からモアブへの旅する経緯と様々な事件が書かれています。これは、クリスチャンの信仰の歩み、イエス様が荒野でサタンを退けられたように、勝利すべきクリスチャンの歩みに必要なこと。二巻から既に「新生聖化栄化」に絡めて語られていますが、この民数記の数々の事件は新約でも引用されているものも多く、それだけ私たち、霊の戦士が心得るべきことなのです。聖書は全体で読まばければならない、そのための30分de一巻、この目的を再びかみしめられ、感動しました。(そしてこの後は神様の言葉、申命記に続くのだ、と思うとひとしお。)

しかし民数記と言われて思い出すのは人口調査くらい。これではイカン、とがんばって予習すると、出て来る出て来る、たくさんの事件の数々。あ、これってここにあったのね、あれこれも?という感じでした。ところがメッセージを聴いてビックリ。そんな単純なことではありませんでした。民数記の記事の重要性をどれだけ見逃していたことか。民数記がわからずして、黙示録がわかるはずがない、とすら思い、深く反省。

まず人口調査。なぜ、ここで二度に亘る人口調査が行われたのでしょうか?膨大なムツカシイ名前に圧倒されて、肝心の理由を見逃します。しかし、いつでも大切なのは動機であり、理由です。エジプトでの400年、神様を忘れて礼拝をせずに、心身ともに奴隷と化した民衆を約束のカナンの地に率いれ、先住民との戦いに戦いに備えるために群れを組織化し、この荒野で戦士としての意識を持たせる必要があったのです。

長年の奴隷生活は、彼らの本来のアイデンティティを失わせてしまっていました。それはまるで、救われる前の私たちのようです。その私たちに神様は語られます。「あなた方はわたしが選んだ契約の民だ。途中で何があっても、どんな誘惑に落とされようとも、あなた方は確かにわたしの手の保証の内にいるのだ」、と。つまりこれは、天国に入るためのいのちの書に、救いを受けた私たちクリスチャンの名が記されているそのことに繋がっているのです。これこそが、私たちに伝えられているこの書の主題テーマです

しかし事実として、ほとんどの民が、実にヨシュアとカレブの二人以外の601728人はカナンの地に入ることができませんでした。不信仰ゆえです。ヘブル書にはっきりと書かれています。神に従う者は祝福を受けますが、従わないものは受けられません。尚、ヨシュアはエフライム族で、カレブはユダ族です。この二人によって南ユダと北イスラエルが継承されるのです。これは今、終末時代に直面する私たち、霊の戦士に語らていることではないでしょうか?信仰を持った後は荒野の道を歩くことになります。行けども行けども、荒野に続く荒野。周囲の敵はたくさん、問題は山積み。現実生活の中で、あたふたしているクリスチャンの姿があります。これは続く申命記でより一層深く語られるのですが、神様は、この霊的戦いを戦い抜く戦士としてクリスチャンを考えておられ、約束の地へ「わたしが共に行く」と導いてくださっています。その神様への信頼=信仰を強く持ち続けること。それが「荒野にて」語られた神様の約束、言葉なのです。


いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。いったいだれに対して、神は四十年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。いったいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。(へブル3:16-19)

だから、聖霊がこう言われるとおりです。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、荒れ野で試練を受けたころ、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。」



更に他の数々の事件も「要注目」なのですが、これらは次回までお待ちください。これらも見逃せないですよ。乞うご期待。

「荒野にて」 (べ・ミドゥバル בְּמִדְבַּר) FBコメント

2016年09月17日 | 羊の声


何とかFBコメントは続行していますが、ブログはまたヤバい雰囲気なので、先ずはコメントを転記するという姑息な手で補足しておくことに。。。以下、FBに載せたコメント、第一次アプリケーションでした。


GNSの師の教え:救いのない学びや集会はあり得ない。どんな聖書勉強会であっても、そこに救いがなければならない、どんな学びやメッセージもイエス様に結び付けなければならない!。。。しかし、もし私が「民数記」の学びを任されたとして、どうだろう?「民数記」って人口調査の話で、ただただ部族と氏族と人数が書かれているだけ、だよねぇ、と思った私は浅はかの極致でした。如何に聖書を読んでいないことか!民数記には、非常に深い意味を持つ事件がたくさん記されていました。特に、ヨハネ3:16が、民数記の青銅のヘビから繋がっていること、これは覚えておかなければなるまい!と大発見気分の他、多々「ハッ」と気付かされることを与えられたメッセージでした。ありがとうございます。さぁ、行くぞ申命記!

エジプトから救い出され、約束の地カナンへ出発する前に、「戦士」として備えられなければならなかった民。これは、今、終末時代を目の前にする私たちへの「霊の戦士」としてのメッセージです。絶えず祈り、いのちの書に記された神様の恵みの約束に感謝し、荒野の歩みを続けて行きます。霊の家族と共に。


荒野で死んでしまう前に、きちんとしたものを書かねば。応援よろしく、と誰にともなくつぶやいてみます。MR. ITOUのしっかりした教会レポートはこちらから。 http://blog.goo.ne.jp/jesus101/e/c28c7cd5440bb42e0e26671c255cb525