きょうの教会ごはん 

神様との食卓で、一緒にご飯を食べましょう!

癒しの奇跡

2010年01月28日 | 羊の声
1月ももうすぐ終り。聖書ではヨハネ福音書を読み、癒しの奇跡から以前の礼拝レポートを思い出した。


 人間にとって最も辛いことは何だろう?憎まれること?軽蔑されること?いや、何よりも辛いのは、忘れ去られることかもしれない。38年も病に苦しみ続け、人々に忘れ去られた人がいた。どんな病気だったのか、そんな物理的な背景は記されていない。ただきちんと読めば、彼の心の環境を知ることができる。彼は、癒しが起こる池の辺で、何度も何度も自分ではない誰かが癒されていくのを見、その度ごとに孤独と絶望が身を苛み、最早癒しの時など見たくないと思いながらも、苦しみから逃れたい一心で毎日池で待ち続ける人だった。所詮周囲はすべて敵、いざという時に味方はなく、自らは決して癒されることはないと失望し続け、同じような苦しみから癒された元仲間を祝福することすらできない、自分は完全に敗者だ、と失意の底へ底へと落ち続けるような日々を過ごしていた人。そんな彼に近づいてくれたのは、イエス様。

 イエス様は彼を見つめた。彼の苦しみを知った。イエス様が見過ごすもの、知りえないものは何もない。この苦しみ、悲しみ、重荷は私だけのもの、私しか知らない、誰も助けてくれない。。。人間は苦しみのあまり、いつしかそんな自虐と自己憐憫に浸り、苦しむために苦しみ、悲しむために悲しむようになってしまう。病人ばかりではない。私達の日々の生活でも同じようなことがないだろうか。喜びもなく、目的もなく、どこかで人生に失望していないだろうか。だからイエス様は問う。「(あなたはほんとうに)治りたいのか?」

 その昔、牧師先生が最初にこの箇所を読んで、「病と知ってこう言うイエスという人は頭がおかしい」と思ったそうだ。しかし当の病人は期待に溢れて「Yes!」と即答することはなかった。彼の口について出たのは、どうせ治りっこない、自分には何もできない、という呪詛にも似た『あきらめ』の呟きだけだった。否定的な考えに囚われすぎると、人は絶望にすら安住する。エジプトを連れ出されたイスラエルの民は、奴隷に戻りたいと訴えた。自由へと導き出したモーセに「大きなお世話だった」と言ってのけた。癒されたい、解放されたいという願っているようでも、実は自分ではあきらめて、神様の愛と憐れみに目を背けていたのだ。

 そんな風に心を閉ざした彼にイエス様は近づき、「起き上がりなさい。」と仰った。それは、「生まれ変わりなさい、復活しなさい。」とも聞こえる。呪い続ける古い生命から、恵みを受け取る新しい生命に来るように、主は呼び寄せてくださる。今も、私達にも、常しえに。神様からの恵みと祝福は満ち満ちている。最初の人だけが癒される、というような限定的なものではない。ただ目を上げて受け取れば、癒しは与えられる。神様が見過ごす苦しみは何もないのだ。

わたしがあなたを忘れることは決してない。
 見よ、わたしはあなたを わたしの手のひらに刻みつける。(イザヤ49:15-16)

 癒しを拒む理由は、神様側には決してない。問題を手放さないのは私達の方で、真に癒しを願っているのは神様。恵みを迷うことなく、積極的に乞い願おう。ご自身の体をどれだけ傷つけても、ご自身を十字架につけてでも、私達を癒したいと思う神様の恵みを。その真っ直ぐな祈りに、主は応え、語って下さるのだ、「あなたは良くなった。(ヨハネ5:14)」と。