やっせんBO医

日本の教科書に記載されていない事項を中心にした個人的見解ですが、環境に恵まれず孤独に研鑽に励んでいる方に。

喘鳴を呈する救急疾患

2011年02月14日 04時55分49秒 | 気道病変
修羅場を潜り抜けるたびに心の奥深く幾ばくかの自信が蓄積される。けれども、それと同時に現実を前にした医学が思いのほか非力であることをも感じずにはいられない。教科書では仄めかされてさえいないような非典型例などいくらでもあることが骨の髄にまでしみている。だから順調な経過に安堵しつつもどこかに陥穽がありはせぬかと疑い、些細な徴候にも心穏やかでないのだ。だが、おそらくは、そのように臆病であることを学んだ者だけが臨床の世界で生きていくことができる。医学理論が十全でないからといって研鑽を怠るわけにもいかないのだ。

喘鳴をきたす呼吸困難症例すなわち喘息発作と短絡的に思考する臨床医などいないはずだが、そこには多彩な疾患が含まれるだけにしっかり鑑別しようとすると意外に大変だ。呼吸器系ないし循環器系の疾患を中心に検索を進めていくにしても一度は鑑別診断集などで網羅的に確認し、自分なりに救急時のチェック項目を検討しておいたほうがいいと思う。ここでそのすべてを述べるつもりはないけれども、たとえば超緊急の対応を迫られる上気道閉塞については常に意識しておかなければならない。一度でも眼前で呼吸停止した症例に遭遇したことがあれば理屈はいらないはずだ。一方で、Vocal cord dysfunctionもWheezeないしStridorが頚部でもっとも強く聴取されるという、上気道閉塞に共通の特徴を示す。けれども、しばしば精神疾患を合併していることに加え、呼吸困難を強く訴えるわりには一文を最後まで途切れることなく話し、また息止めも可能なことが多い(Fraser and Pare’s Diagnosis of Diseases of the Chest 4th ed. Saunders 1999年)。吸気時に間欠的に声帯が閉鎖することを直接証明できれば診断は確定する。もっとも同時に喘息を合併する例もまれではなく、決めつけることは厳に慎むべきだろう。また、気胸症例で時に喘鳴を伴うことは案外知られていないのではないだろうか(呼吸 2007; 26: 469-473)。緊張性気胸が致命的になりうることは誰しも知るところだが、自然血気胸にも警戒を怠るわけにはいかず、発症初期の単純X線写真では指摘することが困難であるばかりか、しばしば出血性ショックに至ることが指摘されている(気管支学 2008; 30: 278-281)。また、念頭になければ見逃してしまいやすいものの代表として肺塞栓症もここに記しておきたい(Respiration 2009; 78: 36-41)。腫瘍性疾患や気道異物症例が喘息と誤診されがちなことも、折に触れて注意喚起されていることだ。脳血管障害などの基礎疾患をもつ高齢者ならとくに誤嚥の可能性を充分に検討する必要があるだろう。

そして油断できないのが心不全である。ありふれているだけに、ともすれば軽視されがちであるものの、意外に診断に難渋することがあるのだ。とりわけ胸部X線が典型的な所見を示さない場合には細心の注意が求められる(Chest 2004; 125: 669-682)。画像が症状に遅れて変化することはよく経験されるところで、水腫の程度とも相関しない(Fishman’s Pulmonary Diseases and Disorders 3rd ed. McGraw-Hill 1998年)。しかも、容易に想像されるように、既存肺に病変があれば読影はきわめて困難だ。心臓喘息をきたす群ではCOPDの合併頻度が高く、心拡大を呈しにくいことが知られている(BMC Cardiovasc Disord 2007; 7: 16)。肺水腫をきたすという点では病態を共にするARDS症例にしても、そのおよそ1/3が心不全を合併しているという。胸部単純写真で診断に至らない場合、あるいはその情報を補うものとして心エコーがおこなわれる。基礎にある心疾患の有無を検索するのに威力を発揮するのみならず、非侵襲的にPCWPを推定することも可能だという(吉川純一編 臨床心エコー図学 第3版 文光堂 2008年)。けれども、PCWP値そのものが様々な要因に左右され、必ずしも肺水腫と相関しないことをわきまえておかねばならない(Chest 2004; 125: 669-682、Fishman’s Pulmonary Diseases and Disorders 3rd ed. McGraw-Hill 1998年)。また、血清BNPは客観性に優れ、低値であれば心不全を否定する有力な根拠になるけれども(JAMA 2005; 294: 1944-1956)、残念ながら速報性に欠け、救急の場では参照できないのが欠点である。

結局のところ、治療反応性がもっとも信頼される証拠とみなされることも多い。しかしながら、心臓喘息症例でもβ刺激薬や抗コリン薬などの気管支拡張剤に反応するものがある(Am J Cardiol 1994; 73: 258-262)。心不全における気道閉塞の機序として、一般には肺容積の縮小に伴う変形や管腔内浮腫液、気管支壁浮腫によるとされているけれども、血管内圧上昇に対する反射性の気管支攣縮や副交感神経を介したトーヌスの亢進が関与しているとする研究もあり、メサコリンに対する気道反応性も亢進しているという(Jpn Circ J 1996; 60: 933-939)。ただし、気管支拡張作用があるにしても顕著なものではなく、また研究者によって見解が一致しているわけでもない。また、テオフィリンは気管支拡張作用のみならず、ホスホジエステラーゼ阻害による心筋陽性変力作用や血管拡張作用など、心不全に対しても望ましい効果をもつ。いずれにせよ、これらは催不整脈作用などの有害作用も懸念されることから、診断的治療をおこなうとすれば利尿剤を用いるのが一般的である。

典型的な症例なら一瞥のもとに診断を下すことも不可能ではないとはいえ、決してそのようなものばかりではなく、とくに救急・時間外診療の場では鑑別に苦慮する例も少なくない。だからといって、いたずらに逡巡し時間を浪費するわけにもいかず、ごく限られた情報のみをもとに、その場で何らかの決断を迫られることになる。得意分野のなかにこもり、アームチェアに深々と腰かけ、あらゆる検査のレポートとともに経過を振り返りつつ診療するのとはわけが違うのだ。その場で全知全能を尽くしたとしても、それが最善の結果をもたらすとは限らない、不条理に満ちた世界である。そして、その結果に満足しなければ自在に時間を遡って、ありえたはずの選択肢をいくらでも創造することができる。感情のうねりの前には沈黙するしかないけれども、漱石がかつて看破したように、そもそも状況を冷静に判断しようとする批評家と現場に投げ込まれている実行家の間には越えがたい深淵が横たわっている(夏目漱石 私の個人主義 講談社学術文庫 1978年)。理解してもらうどころか、よりよい結果を願い、心からの善意をもって事にあたったことさえ否定される。悪条件のなかで地域に貢献すべく這いずり回る者ほど非難の対象とされ、むしろあえてリスクをとろうとしない病院・医師のほうが世間的には評価される。そんな状況を“太陽のせい”だとつぶやいてはいけないだろうか。 (2011.2.14)