やっせんBO医

日本の教科書に記載されていない事項を中心にした個人的見解ですが、環境に恵まれず孤独に研鑽に励んでいる方に。

Trapped lung

2012年11月26日 04時55分25秒 | 胸膜疾患
日常臨床で稀ならず遭遇しうる病態でありながらも、第一線の現場に周知されているとは言えないものが少なくない。これまで取り上げてきたテーマの多くはそのような存在であった。そして、Trapped lungもここに加えるべき十分な資格を持っていると思うのである。

その概念そのものは決して難しいものではない。胸膜に何らかの形で炎症が起こると、それに対する反応としてfibrous peelが臓側胸膜の表面を覆うように形成され、肺が胸郭内で十分に拡がることができなくなる。すなわち肺が“trap”された結果、胸腔内はより陰圧になり胸水の生成が増える一方で、吸収は減るために慢性的に胸水が貯留する状態をもたらす。この引き金となる最初の炎症は肺炎や血胸によるものが多いが、自然気胸、CABGなどの胸部手術、尿毒症、膠原病、などさまざまである。意外なことに漏出性胸水でも数か月以上存在すれば、Trapped lungをきたしうるという(R W Light. Pleural Diseases 3rd ed. Williams & Wilkins 1995年)。

当然のことながら、胸腔穿刺を行っても十分にドレナージできないか、あるいはある程度排液したとしても胸水は元のレベルにまで速やかに再貯留する。すなわち、胸腔ドレナージはその治療になりえない。Trapped lungはしばしば自覚症状に乏しく、そのような場合には経過観察のみでよいとされている。一方で、もし息切れなどのため生活の質に支障があるようなら外科的なdecorticationの適応になるかもしれない。

いずれにせよ治療方針決定の前には診断というプロセスを慎重に進めることが不可欠である。ただし、ここでは通常のアプローチが通用しないことに注意を促しておきたい。多くの場合、胸水の性状を明らかにすることが鑑別の第一歩であるとされるけれども、Trapped lungについては特異的な所見はなく、漏出液ないしやや滲出液に傾く付近で胸水中グルコースは正常、白血球数も著増するわけではなく単核球優位、という何とも掴みどころのない所見だ。むしろ疾患概念に従って、胸腔穿刺時に胸腔内圧を測定することが有用で、初圧が-10cmH2Oより低いか、あるいは1000mL排液あたり20cmH2O以上の圧低下がみられれば、その可能性が示唆される(Chest 2007; 131: 206-213)。もっとも、胸腔内圧測定はごく普通に行われる検査というわけではない。上記疾患の既往がある場合、また胸部X線にて縦隔が胸水貯留側に偏移し、小房形成(loculation)がみられる、あるいは長期にわたり一定の胸水レベルが維持されている、ことなどが手がかりになるだろう。臓側胸膜の肥厚を証明することも傍証となり、とくに胸腔穿刺時に200mL~400mLの空気を注入して得られるair contrast CTが有用であるという。ただし、Trapped lungが胸水の唯一の原因であるとは限らず、心不全の合併例が稀ではないことも指摘されている(Chest 2007; 131: 206-213)。

最近ではこのTrapped lungを、胸腔の炎症が起こってから一定の時間が経過し、成熟した線維性の膜が形成されたもの、に限定して用いる研究者も多いようだ。一般に、肺が胸壁まで膨張することができなくなるような機械的障害をUnexpandable lungと総称し、臨床的には胸膜疾患の存在以外にも肺葉の虚脱をきたすような気管支閉塞機転、慢性無気肺あるいは肺実質の線維化によるものが含まれる。それらのうち、腫瘍や感染症などによる活動性の胸膜病変によるものをLung entrapmentと称し、Trapped lungとは区別すべきであるというのだ(F1000 Med Rep 2010; 2: 77)。胸水の性状や胸腔内圧のパターンが両者で異なるうえに、前者では疾患個々に対する治療が必要になりうること、さらにTrapped lungに対する不必要な介入を避ける、というのがその理由である。癌性胸膜炎症例に合併したLung entrapmentであっても、胸腔カテーテルの長期留置により自覚症状の改善ばかりでなく胸膜癒着も起こりうることが報告されている(Asian Cardiovasc Thorac Ann 2008; 16: 120-123)。言葉の使い分けはともかく、病態を十分に評価することの重要性は繰り返し強調しておきたい。

何でも独りでこなさなければならず、やみくもに書物を繰り、付け焼刃の知識でその場を凌がざるを得ない時代があった。普段はそんな昔のことなどすっかり忘れてしまっているけれども、心の奥底のどこかに滓のように溜まっているようだ。たまたま手にした文献が記憶の片隅から過去の症例を引っ張り出し、かつてばらばらだった所見や事象を次々につなげてくれることがある。そして、患者に無用の苦痛を与えていたのではないかと古傷のように疼きだすのだ。だからここに書き記されているものは、功成り名を遂げた者が若い者を導くための垂訓などではない。罪を償い、赦しを乞うためのいわば懺悔録である。

あちらこちらの窓から明かりが漏れ出ている中を、東の空に明けの明星を望みながら歩いていると、そんな考えが浮かんでくる。聞こえてくるのは自分の足音と衣服のすれ合う音のみ、束の間ではあるが一人になれる時間である。向かう先は、理想とは裏腹の、矛盾に満ちているとしか感じられない職場だ。かといって、智に働けば角が立ち、情に掉させば流されるのは今も昔も変わるところはない。意地を通すなど至難である。だが実は、組織のあるべき姿を見いだせず惑いあぐね、結局、周りに流されてばかりいるのではないか。まず正すべきは、この何ともふがいない根性であるに違いない。 (2012.11.26)