やっせんBO医

日本の教科書に記載されていない事項を中心にした個人的見解ですが、環境に恵まれず孤独に研鑽に励んでいる方に。

医療の標準化と相互理解

2009年12月28日 05時27分25秒 | 医学・医療総論
前回、薬剤性肺障害の発現率について、日本と欧米とで差異が見られる現象を考察した。その結論は決して、人種差ないし民族間に生物学的な違いがあることを否定するものではない。実際、そのような例はいくらでも探すことができる。HLAの頻度や代謝酵素の活性、そしてサルコイドーシスなどのように疾患の表現型そのものにも顕著な人種差があることはよく知られた話だろう(日呼吸会誌 2003; 41: 150-159)。医療の次元ではもちろん、医学という普遍的に成立するはずの科学の領域にも文化的な要素が侵食し、単純に比べることなどできないかもしれないと言いたかったのである。

常識的だと感じる向きも多いかもしれないが、もしこれを認めるなら、Evidence-based Medicine (EBM)は多大な影響を被ることになる。なぜなら臨床試験の結果そのものが生物学的な人種差のみならず文化の影響をも免れないとすれば、海外に由来するエビデンスを日本に適用しようとすること自体がナンセンスなものとなりかねないからだ。もっとも、このことを別にしても、EBMという方法論は必ずしもゆるぎない理論的土台の上に築かれたものではなく、実は批判も少なくない(Clin Eval 2001; 29: 185-201、医学哲学・医学倫理 2002; 20: 95-108)。EBMの手法そのものが臨床的転帰を改善させることを示す臨床試験などというものは原理的にあり得ないため、その根拠は専門委員会や専門家の意見を超えるものではなく、エビデンスレベルという表現に従えば最低に位置せざるを得ない、という指摘さえある(J Eval Clin Pract 2008; 14: 650-652)。EBMの考え方に基づいてエビデンスがガイドラインとしてまとめられ、それが多くの臨床医に参照されるのみならず、時には社会的な影響を及ぼすことさえあることを思えば、もっと議論されていいと思う。

それはともかく、実際には日本の臨床試験でも海外の成績を追認することになる例が多い。特に差異が示唆されているのでなければ、ことさらに目くじらをたてる必要はないではないか、というのが現実的判断だろう。それはそれとしても、基本的に医学・医療はいかなる国・地域にも妥当しうる普遍的なものだという見方は根強くあることを確認しておきたい。これはおそらく、医学という科学そのものが個別性を超越したところに成立する普遍性を想定していることに関連している(波平恵美子. 医療人類学入門. 朝日選書 1994年)。そして、日本に米国の優れた医療システムを導入すべきだという主張は、暗黙のうちにそのような考え方を前提としているはずである。もちろん医療の質を担保するための米国の努力には大いに学ぶべきものがあることを否定するつもりはない。確立されている臨床研修制度は、全員が研修を終了できることを当初から想定していないのではないかと思えるほどの厳しさだ(西村知樹. ぼくがアメリカへ医者修行に行った理由. 講談社 2006年)。医師免許や専門医資格も数年ごとに更新することを要求され、しかもこの専門医制度は学会組織とは独立している。公平性を確保するとともに、基準に達しない者は容赦なく排除しようという強い意志があるのだろう。大学病院医師がアルバイトするなどということはあり得ず、たとえ教授であろうとも必要なら夜間にコールされる光景は、どこかの国とは大違いだ。患者のための非常に合理的な、この地上であり得る最良の医療システムが具現化されているようにみえるのである。

翻って、隣の芝生は青いなどというが、日本の医療はいかにも前近代的で遅れているように見える。一般に、分業体制のもとにある社会では、制度化された各専門家集団は期待された役割を果たすことと引き換えに、一定の特権を付与されている。言い換えれば、いかに高度の専門知識・技術を持ち、人々から尊敬されていようとも、その本質は社会に選別されたエリートというものではなく、委任されたその職能により社会に奉仕し・還元する役割を担っている存在だ。ところが、そのような意識が希薄で、医療を独占し情報の非対称性に守られた医師は、生命を預かる神聖にして侵すべからざる職業であると自他共にみなし、緊張感に欠けていた。この点において、本音と建前が異なり他人の目のないところでは律するものがないというベネディクトの指摘は正鵠を射ていたと言わざるを得ない(長谷川松治訳. 菊と刀. 社会思想社 1967年)。高度医療を担っているはずの特定機能病院での医療事故が相次ぎ、いわゆる薬害の防止のために専門家集団たる学会はリーダーシップを発揮することができず、その無能を露呈した。医療費の高騰が問題にされる中で、人々はますます施される医療の質に厳しい目を向けるようになったのも当然である。教授職、学会、医師会等々は既得権益を守ろうとするばかりではないかと勘ぐられ、ややもすれば唾棄すべき存在として指弾される対象ともなった。今や平均寿命や乳児死亡率などに反映されているように日本の医学・医療水準は先進国にふさわしいものと思われてしかるべきであるにも関わらず、多くの人が日本の医療の現状に満足していないというのは不幸な事態であるに違いない。だからといって、無批判に米国のシステムに飛びつくのも賢い方法とは思えないのである。

この点については既に多くの議論があるので、長々と駄文を連ねることはしない。ただ、明治期日本が目標とし、その導入に尽力したのがまさにその欧米の医療システムだったことに注意を促しておきたい。江戸時代までの日本人は客観的世界などという概念を持たず、したがって日本にあったのは“社会”ではなく“世間”であり、そもそも科学とは何かを理解するのさえ多大の努力を必要とした(辻哲夫. 日本の科学思想-その自立への模索. 中公新書 1973年)。そのような困難がありながらも、短期間で望みうる最大の成果を挙げたのは奇跡的だったとさえ言えるだろうが、国を挙げて脱亜入欧を推し進めたその延長上にある現在の日本の医療はやはり欧米とは異質なものだったのである。その背景にある文化的な側面を無視して、今、改めて海外の医療システムをその一部であろうともそのまま日本に移植しようとするのが容易でないことは自明だろうと思う。

欧米には社会奉仕の精神が根付いているからこそ患者中心の医療が行われるのだという者もいるが(久間圭子. 医療の比較文化論. 世界思想社、2003年)、その当否はわからない。しかし、少なくとも米国のすみずみにまで上記のような医療が提供されているわけではなく、何もかも崇め奉る必要のないことも確かである。医療を経済的尺度のみで効率化しようとすれば、ろくなことにならないことを教えてくれたのも米国であった(李啓充. アメリカ医療の光と影-医療過誤防止からマネジドケアまで. 医学書院 2000年)。医療システムを変えようとするなら自らの力で長い時間をかけて、積み上げていくしかないと思う。

すでにWHOで疾患分類が作成され、ICHでは医学用辞書(MedDRA)が作成されているように、国際的標準化を目指す努力は今も営々と続けられている(日本呼吸器学会編;薬剤性肺障害の評価、治療についてのガイドライン、2006年)。そして、たとえば特発性間質性肺炎の国際合同ガイドラインの改訂作業には新たに日本呼吸器学会も参加しているらしい。しかし、それは決して平坦な道のりではなく、医学上の基本的概念を一つ一つ確認しながらの議論になるはずだ。ハーバーマスは合理的理性に基づいたコミュニケーションの可能性を信じたが、同じ日本人であってもその立場の違いでものの見方がまるで異なるのは日常的に経験するところだろう。一つの恣意的な立場でしかない科学的医学を、無理やり至高の価値とみなしたところで、多くの悲劇を生む結果になりかねない(日本嗜好品アカデミー. 煙草おもしろ意外史. 文春新書 2002年)。せめて患者の立場にたって考えようと努力してみても、しばしばすれ違い、時には傷つけあうことにもなる。かつて背伸びして世界を眺めていた魂の中に、今思えば少し気取ってはいるが、“やさしさとは、人と人の間に横たわる越えられない距離に対するアキラメです”という、中森明夫のフレーズが記憶されたことがあった。そしてその後、声には出さないが繰り返し口ずさむ少なくない経験の中で、所詮相互主観性は一方的な思い込みに過ぎないのではないかと疑うに至ったのだ。だがそれでも心のどこかに、同じ人間であるからにはいつかわかり合えることもあるはずだというかすかな期待をふき消すことができずにいるのである。 (2009.12.28)

薬剤性肺障害と文化

2009年12月14日 05時35分10秒 | 医学・医療総論
先日、薬価の引き下げに関する報道があった。国の薬剤費約7兆8000億円のうち5000億円ほどが削減される見込みとのことだ。国民医療費が30兆円を超えている中で意外に少ないと思うか、あるいは製薬企業は儲けすぎだとか感じるか、ひとそれぞれだろう。いずれにしても医療の現場で薬の値段を意識させられることが多くなったのは確かである。特に分子標的薬については今年の癌治療学会でも議論されていたように、たとえばイレッサ(250mg)1錠の薬価は6500円、アバスチン(400mg)1バイアルは19万円もするという。そのためいくら高額療養費制度があるとはいっても、癌の治療方針を決定する際には患者の経済状況を無視するわけにはいかない。治療を受ける者にしてみれば、そのように高価な薬を使うからには当然、それに見合う効果(治癒)を期待するはずだ。ところが実際にはほとんどの例で数か月の延命が得られる程度に過ぎない。一方で無理をして抗癌化学療法を選択したにも関わらず、良くなるどころかかえって薬剤性肺障害で苦しむ結果になったとすれば、患者医師双方とも後々まで悔やむことになり、場合によってはもめ事の種にもなりかねない。しかもこの薬剤性肺障害は日本人に多いと言われ(Oncologist 2003; 8: 303-306、日内会誌2006; 95: 1058-1062)、臨床医にとって頭の痛い話である。

近頃は個別化(オーダーメイド)医療が現実のものとなり、EGFR遺伝子変異やUGT1A1遺伝子多型の確認が日常診療で行われつつあることもあって、人種差や民族差も当然視される傾向にある。けれども、薬剤性肺障害に関して言えば、十分なエビデンスに基づいているわけではないようだ。確かに複数の薬剤において発現率だけを比べれば、日本は欧米に比べて高くみえる。だが、その根拠となっている数字は各種の市販後調査や臨床試験によるものだ。つまり、その質において種々雑多といっていい多様なものに由来し、かつ、それぞれのデザインはともにprospectiveであるにしても、一つの試験の中で直接比較したものではない。しかも日本の成績は往々にして市販直後調査・全例調査などという、欧米にない日本独自のものである。それは専門性や経験の点で大きなばらつきのある医師により様々な背景を持つ患者に使用される実態を反映したものだ。そのため、その解釈には慎重な態度が要求され、時には報告されている有害事象をそのまま信用できないことさえある。たとえばゲフィチニブプロスペクティブ調査(特別調査)結果報告によれば主治医により急性肺障害・間質性肺炎と診断された140例中22例が専門家による判定委員会では否定されているのである(医薬ジャーナル 2005; 41: 140-157)。対照的に、臨床試験の代表として治験を考えてみると、患者のエントリー基準は厳格で合併症を有するものや状態が不良な症例は除外されていることが多く、検査や治療内容もプロトコールで細かく決められている。さらに発現した有害事象はモニターによるカルテなどの直接閲覧で細かくチェックされる(日呼吸会誌 2006; 44: 541-549、2007; 45: 449-454、2007; 45: 829-835)。そもそも治験参加医師は一般に十分な検査や他科へのコンサルトが可能な総合病院の専門医で、それなりに質が確保されているのである。

そればかりではなく、むしろこちらのほうが問題かもしれないが、薬剤性肺障害の診断過程そのものが欧米と異なっているように思う。臨床、画像、病理所見を総合して判断するという基本的考え方の点では彼我に違いはない(日本呼吸器学会編;薬剤性肺障害の評価、治療についてのガイドライン、2006年)。これは裏をかえせば、多かれ少なかれ侵襲的手技を伴う病理所見が診断に重要ではあるものの、一方、それのみで診断が確定できる決定的なものでもないことを示している。しかも薬剤性肺障害の場合、軽症であれば侵襲的検査を行う必要性に乏しく、逆に呼吸不全などを合併した重症例では行い難い。そのため、この間で揺れ動く臨床医の決断の過程には、医学的必要性に加え種々の要素が関与せざるを得ず、ここに差異が生じる可能性がある。日本においては侵襲的検査が避けられる傾向として現れ、しばしば病理検査が欠けている代わりに、KL-6などの血清マーカーや画像が重視される。この点で際立っているのがDLST(薬剤リンパ球刺激試験)だろう。日本では四半世紀以上も前に、ある一人の著者により“参考”として作成された診断基準案の中に記載されて以来(内科MOOK No.22 間質性肺疾患その周辺、金原出版、1983年)、いまだに重要な所見としてしばしば参照されているのだが、海外では臨床的意義が明らかでないとしてほとんど用いられていないのである(Toxicology 2001; 158: 1-10)。さらに、欧米では保険制度上の制約や日本ほどCT装置が普及していないなどのため、画像検査が行われる頻度も少ないと言われている。そもそも胸部異常陰影を指摘されなければ精査されずに済まされる例が多くなるだろう。さらに特に米国ではいったん疑われれば外科的肺生検が行われる傾向にあり、そのうちのかなりの割合で感染症など他の疾患が判明していることから、薬剤性肺障害と診断される割合はますます少なくなることが予想されるのである。

この診断過程への影響は医療を提供する側にのみ見られるわけではない。患者の側についても、たとえば自己責任がしばしば語られる米国とは対照的に日本では医療機関・医師に依存する傾向が強いのはよく知られており、フリーアクセスが保障されていることも相まって、受診回数の多さは際立っている(熊本県保険医協会ホームページ)。しかも薬の副作用を非常にデリケートに捉えるのが近頃の日本の潮流だ。このことも結果として、日本における薬剤性肺障害の報告件数を相対的に押し上げる可能性が十分に考えられるのではないだろうか。ここには広い意味での文化の違いとでも呼ぶしかない問題が影を落としているように思える。そして、そのさらに奥深いところには民族ごとの疾病に対する態度の違いがひそんでいるのではないかと想像を掻き立てられるのだ(波平恵美子;医療人類学入門、朝日選書、1994年)。これが狩猟社会と農耕社会のあり方に由来するのか否かはともかく(久間圭子;医療の比較文化論、世界思想社、2003年)、各国で医療制度が大きく異なる要因ともなっているに違いない。

以上、薬剤性肺障害の発現率の違いを直ちに人種・民族の生物学的な違いに由来すると考えることはできず、少なくとも一部は見かけ上の差であって、外的要因の関与も無視し得ないことを指摘した。考えてみれば当たり前の結論だが、案外忘却されているのではないだろうか。また、生物学的な違いではあっても、遺伝子を持ち出すまでもなく説明できる事象もある。たとえば、同量の薬剤を使用された場合、欧米人に比べ体格の小さい日本人では相対的に過量投与になる可能性や、高度肥満の多い欧米では腹部手術の治療成績が不良となりがちなこともありえる話である。交絡因子に関しては十分に用心してかかる必要があることを改めて銘記したい。 (2009.12.14)