癌と免疫は医学における二大テーマである。それぞれに固有の歴史的展開があり、独立した体系が築き上げられてきた。個々の患者の病態もその枠組みの中で理解され、完結してしまうことが多いため、普段はこの両者の関係を意識することなどない。けれども、免疫系を含む炎症がその病態に一切関わらないといえるような疾患などむしろ例外的であり、これは腫瘍についても異なるものではないことが近年明らかにされてきた。それぞれ分子病態レベルで解きがたく絡み合っているばかりか、臨床的にも無視することのできない問題を孕んでいるのである。
これに関する研究の歴史は思いのほか古い。Virchowはすでに慢性炎症が発癌に関与していることを述べ、さらにEhrlichは癌も生体にとって異物であるからには、免疫系によって排除されてしかるべきだと考えていた。これがその後ThomasとBurnetによる免疫学的監視(immune surveillance)という概念に発展し、多くの研究者を魅了しつづけることになったのはよく知られているとおりだ(ワインバーグ がんの生物学 南江堂 2008年)。腫瘍抗原が存在するとしても、はたして実際に認識され、意味のある応答を誘発するのか疑問視されたこともあったけれども、現在ではたとえば、腫瘍随伴症候群(“傍腫瘍症候群”と呼ばれることもあるが、こちらの用語は「日本呼吸器学会編 呼吸器学用語集 第4版」には採用されていない)のうち、神経系にみられるものでは、その機序として、抗Hu抗体や抗Yo抗体など腫瘍組織に発現した抗原に対する抗体が、交叉免疫反応により共通抗原をもつ神経組織を傷害することが推測されている。さらに、HER2が過剰に発現した乳癌症例を適応として市販されているTrastuzumabは、抗HER2抗体による受動免疫が抗腫瘍効果をもたらすことを示した画期的なものであった。現在ではさらに一歩進んで能動免疫による治療が試みられ、がんワクチンの開発が精力的に進められているなど、腫瘍免疫の分野はいまや応用に向けて大きく飛躍しつつあるといえるだろう(肺癌 2009; 49: 823-830)。
一方で、現代医学の負の側面も忘れるわけにはいかない。免疫抑制療法の進歩はかつてなかったほどに多くの免疫不全患者を生み出した。このことが新たな問題をもたらしているのは周知のとおりだが、最近とくに注目されているのがTNF拮抗薬と悪性腫瘍との関連である(医薬品・医療機器等安全性情報 No.270:医薬品医療機器総合機構ホームページ)。発生したばかりの腫瘍細胞を免疫系が検出し破壊しているという免疫学的監視の考えからすれば、免疫を抑制することにより悪性腫瘍が多発するのは当然の帰結だろう。実際、AIDSにKaposi肉腫が生じ、移植患者に癌が多く発生するのは疫学的にも確認されている事実だ(Br J Cancer 2003; 89: 1221-1227)。現状では、免疫系を抑制する薬剤は何であれ、発癌との関連を疑われてもやむを得ないかもしれない。抗TNF-α抗体製剤(Am J Respir Crit Care Med 2007; 175: 926-934)以外にも、シクロスポリンなど複数の免疫抑制剤が懸念の対象に挙がっているのだ(日呼吸会誌 2010; 48: 261-266)。ヒトに対する発癌性を確認ないし可能性を示唆されているのは、紫外線や腫瘍ウイルス、さらには約400種類にものぼる発癌物質(IARC: International Agency for Research on Cancerホームページ)など数多く存在している。にもかかわらず、暴露から想定されるほど発癌が多くないのは免疫学的監視がうまく機能している機能しているからに違いないと思い、いかにも免疫抑制療法は危険であるように感じられる。しかしながら、現在得られている発癌過程についての研究成果は、このような理解が素朴にすぎることを明らかにしているのだ。
発癌にはイニシエーション(癌遺伝子の活性化、癌抑制遺伝子の欠失・変異)とプロモーション(増殖の促進)、プログレッション(癌の悪性度の増強、テロメラーゼの活性化)という段階が想定されている。意外なことに、これらの過程すべてが腫瘍細胞の中で自律的に進行するものとは限らない。組織を束ねる調和から逸脱しつつありながらも完全に孤立しているわけではなく、周囲の環境との複雑な相互作用もまたこのプロセスを進行させる機能を果しているのだ。ここにはさまざまな炎症性サイトカインやメディエーター、免疫系細胞がかかわり、たとえばTNF-αやIL-6がある種の腫瘍細胞の生存や増殖を促すことが示されている(Cytokine Growth Factor Rev 2010; 21: 61-65)。しかしながら、これらのサイトカインの作用は多彩であり、人知で測りがたい面があることを謙虚に認めるべきだと思う。IL-6が多くの腫瘍の進展を促進させることが知られている一方で(Clin Cancer Res 2009; 15: 5426-5434)、それとは逆にTNF-αと共同して乳癌細胞株の増殖を抑制したという報告もある(Cancer Letters 1993; 71: 143-149)。また、ここに登場する主要な免疫細胞はmonocyte/macrophageであるけれども、それぞれの段階でその機能を変化させている。M1 (classical) macrophageは腫瘍細胞に対し細胞傷害作用を発揮しうるものだが、慢性炎症の過程では腫瘍のイニシエーションを引き起こす可能性も示唆されている。さらに微小環境の変化や腫瘍の進展に伴ってそれがスイッチしたM2 (alternative) macrophageは、腫瘍に対する免疫反応を抑制し、腫瘍の進展を促進させるという(Immunobiology 2009; 214: 761-777)。
上術の癌と炎症/免疫の関連はいまだその全貌が十分に明らかにされているとはいえないけれども、先手を取ることに余念のない製薬企業は関与が疑われるサイトカインや増殖因子、さらにはそれらの細胞内シグナル伝達系を片っ端からターゲットにしているようだ(National Cancer Instituteホームページ)。しかし理論的にはいかに効果がありそうに思われたとしても、ヒトで実際に薬効が認められ、上市にこぎつけるのはそのごく一部にすぎない(日本製薬工業協会ホームページ)。しかもそれが新規性を持つものであればあるほど、ヒトに初めて投与する際の安全性を確保するのは困難になるはずだ。ヒト化抗CD28モノクローナル抗体であるTGN1412の第1相臨床試験でみられた悲劇はいまなお記憶に新しい(Lancet 2006; 368: 1387-1391)。学問は知識を与えるだけではない、むしろそれ以上に実践に際して不可欠な“明晰”へとわれわれを導いてくれるものだ、といったのはかのヴェーバーだったが、表面的な期待に左右されることのない冷静な判断のむつかしさを思わずにはいられないのである。 (2010.8.9)
これに関する研究の歴史は思いのほか古い。Virchowはすでに慢性炎症が発癌に関与していることを述べ、さらにEhrlichは癌も生体にとって異物であるからには、免疫系によって排除されてしかるべきだと考えていた。これがその後ThomasとBurnetによる免疫学的監視(immune surveillance)という概念に発展し、多くの研究者を魅了しつづけることになったのはよく知られているとおりだ(ワインバーグ がんの生物学 南江堂 2008年)。腫瘍抗原が存在するとしても、はたして実際に認識され、意味のある応答を誘発するのか疑問視されたこともあったけれども、現在ではたとえば、腫瘍随伴症候群(“傍腫瘍症候群”と呼ばれることもあるが、こちらの用語は「日本呼吸器学会編 呼吸器学用語集 第4版」には採用されていない)のうち、神経系にみられるものでは、その機序として、抗Hu抗体や抗Yo抗体など腫瘍組織に発現した抗原に対する抗体が、交叉免疫反応により共通抗原をもつ神経組織を傷害することが推測されている。さらに、HER2が過剰に発現した乳癌症例を適応として市販されているTrastuzumabは、抗HER2抗体による受動免疫が抗腫瘍効果をもたらすことを示した画期的なものであった。現在ではさらに一歩進んで能動免疫による治療が試みられ、がんワクチンの開発が精力的に進められているなど、腫瘍免疫の分野はいまや応用に向けて大きく飛躍しつつあるといえるだろう(肺癌 2009; 49: 823-830)。
一方で、現代医学の負の側面も忘れるわけにはいかない。免疫抑制療法の進歩はかつてなかったほどに多くの免疫不全患者を生み出した。このことが新たな問題をもたらしているのは周知のとおりだが、最近とくに注目されているのがTNF拮抗薬と悪性腫瘍との関連である(医薬品・医療機器等安全性情報 No.270:医薬品医療機器総合機構ホームページ)。発生したばかりの腫瘍細胞を免疫系が検出し破壊しているという免疫学的監視の考えからすれば、免疫を抑制することにより悪性腫瘍が多発するのは当然の帰結だろう。実際、AIDSにKaposi肉腫が生じ、移植患者に癌が多く発生するのは疫学的にも確認されている事実だ(Br J Cancer 2003; 89: 1221-1227)。現状では、免疫系を抑制する薬剤は何であれ、発癌との関連を疑われてもやむを得ないかもしれない。抗TNF-α抗体製剤(Am J Respir Crit Care Med 2007; 175: 926-934)以外にも、シクロスポリンなど複数の免疫抑制剤が懸念の対象に挙がっているのだ(日呼吸会誌 2010; 48: 261-266)。ヒトに対する発癌性を確認ないし可能性を示唆されているのは、紫外線や腫瘍ウイルス、さらには約400種類にものぼる発癌物質(IARC: International Agency for Research on Cancerホームページ)など数多く存在している。にもかかわらず、暴露から想定されるほど発癌が多くないのは免疫学的監視がうまく機能している機能しているからに違いないと思い、いかにも免疫抑制療法は危険であるように感じられる。しかしながら、現在得られている発癌過程についての研究成果は、このような理解が素朴にすぎることを明らかにしているのだ。
発癌にはイニシエーション(癌遺伝子の活性化、癌抑制遺伝子の欠失・変異)とプロモーション(増殖の促進)、プログレッション(癌の悪性度の増強、テロメラーゼの活性化)という段階が想定されている。意外なことに、これらの過程すべてが腫瘍細胞の中で自律的に進行するものとは限らない。組織を束ねる調和から逸脱しつつありながらも完全に孤立しているわけではなく、周囲の環境との複雑な相互作用もまたこのプロセスを進行させる機能を果しているのだ。ここにはさまざまな炎症性サイトカインやメディエーター、免疫系細胞がかかわり、たとえばTNF-αやIL-6がある種の腫瘍細胞の生存や増殖を促すことが示されている(Cytokine Growth Factor Rev 2010; 21: 61-65)。しかしながら、これらのサイトカインの作用は多彩であり、人知で測りがたい面があることを謙虚に認めるべきだと思う。IL-6が多くの腫瘍の進展を促進させることが知られている一方で(Clin Cancer Res 2009; 15: 5426-5434)、それとは逆にTNF-αと共同して乳癌細胞株の増殖を抑制したという報告もある(Cancer Letters 1993; 71: 143-149)。また、ここに登場する主要な免疫細胞はmonocyte/macrophageであるけれども、それぞれの段階でその機能を変化させている。M1 (classical) macrophageは腫瘍細胞に対し細胞傷害作用を発揮しうるものだが、慢性炎症の過程では腫瘍のイニシエーションを引き起こす可能性も示唆されている。さらに微小環境の変化や腫瘍の進展に伴ってそれがスイッチしたM2 (alternative) macrophageは、腫瘍に対する免疫反応を抑制し、腫瘍の進展を促進させるという(Immunobiology 2009; 214: 761-777)。
上術の癌と炎症/免疫の関連はいまだその全貌が十分に明らかにされているとはいえないけれども、先手を取ることに余念のない製薬企業は関与が疑われるサイトカインや増殖因子、さらにはそれらの細胞内シグナル伝達系を片っ端からターゲットにしているようだ(National Cancer Instituteホームページ)。しかし理論的にはいかに効果がありそうに思われたとしても、ヒトで実際に薬効が認められ、上市にこぎつけるのはそのごく一部にすぎない(日本製薬工業協会ホームページ)。しかもそれが新規性を持つものであればあるほど、ヒトに初めて投与する際の安全性を確保するのは困難になるはずだ。ヒト化抗CD28モノクローナル抗体であるTGN1412の第1相臨床試験でみられた悲劇はいまなお記憶に新しい(Lancet 2006; 368: 1387-1391)。学問は知識を与えるだけではない、むしろそれ以上に実践に際して不可欠な“明晰”へとわれわれを導いてくれるものだ、といったのはかのヴェーバーだったが、表面的な期待に左右されることのない冷静な判断のむつかしさを思わずにはいられないのである。 (2010.8.9)