やっせんBO医

日本の教科書に記載されていない事項を中心にした個人的見解ですが、環境に恵まれず孤独に研鑽に励んでいる方に。

Trousseauから劇症型抗リン脂質抗体症候群まで

2010年03月23日 05時38分13秒 | 腫瘍
Trousseauが癌と血栓症との関連を記載して以来、それは臨床医学における重要なテーマの一つとなり、数多くの研究が積み重ねられることになった(N Engl J Med 2003; 349: 109-111)。そして現在では、進行癌に多く、患者の予後を左右することはもちろん(N Engl J Med 2000; 343: 1846-1850)、癌の発現に先行することさえあるため、とくに危険因子を有していない症例や、下肢以外の部位に静脈血栓がみられるなど非典型的なものでは慎重な評価を必要とすることなどは広く認識されているところだろう。さらに血栓形成傾向をもたらす機序についても、癌細胞に反応して単球やマクロファージ系の細胞から放出されたTNFやIL-1、IL-6などのサイトカインが血管内皮を障害することに加え、血小板、凝固因子を直接・間接に活性化することが明らかにされている。しかも、血栓形成を誘発するのは癌そのものばかりでなく、抗癌剤やG-CSF・エリスロポエチン製剤などもリスクになりうることに注意が喚起されているのは案外知られていないことかもしれない。とりわけ懸念されているのは最近肺癌に対して適用が認められたbevacizumabで、出血とともに血栓性の副作用が無視できず、血栓性微小血管症(thrombotic microangiopathy; TMA)をも誘発しうると報告されているのである(N Engl J Med 2008; 358: 1129-1136)。言うまでもないことだが、このTMAは血栓性血小板減少性紫斑病(TTP)や溶血性尿毒症症候群(HUS)などを包括するカテゴリーで、警戒を怠るわけにはいかない重大な病態だ。これら以外にも、中心静脈カテーテルの留置もそれ自身、あるいは感染症を介して血栓を形成しやすくすることはここで改めて確認するまでもないだろう。

さらに、近年明らかにされてきたのが、抗リン脂質抗体(biological false positive for syphilis、lupus anticoagulant、anticardiolipin antibody、anti-beta 2-glycoproteinⅠ antibody (β2-GPⅠ)など)の関与である。脳血管障害や深部静脈血栓症など全身の動静脈に病変がみられ、とりわけ肺梗塞、腎障害、副腎障害、腸管血栓症、脾血栓症は予後を悪化させるという。もちろん、抗リン脂質抗体を有する症例がすべて血栓症をきたすわけではなく、抗リン脂質抗体症候群(APS)の診断基準を満たすのはそのうち一部に過ぎない。もともとAPSはSLEに合併するものとして記載され、一般にもそのように認識されていると思うが、実は頻度は少ないものの、その他の自己免疫疾患や原発性のもの、さらには感染症例にも見られることが知られている。そして癌に合併したものも少なからず報告されているのだ(Semin Arthritis Rheum 2006; 35: 322-332)。それだけなら、癌患者での血栓形成傾向に寄与する一つの因子と考えておけば済む話だけれども、時に劇症化するもの(catastrophic antiphospholipid syndrome; CAPS、南アフリカの医師の名前にちなみAsherson’s syndromeとも呼ばれる)があることに注意を促しておきたい。

このCAPSはAPSの1%未満を占めるに過ぎないが、極めて短期間の間に多臓器不全を呈し、高率に死に至ることから多くの研究者の興味を惹いているものだ。国際的な登録事業も行われ、そこで検討された250例のうち70%は女性で、平均37歳(7~76歳)、基礎疾患を有していないprimary APSが約46%を占め、SLEに合併したものは40%であった(Ann N Y Acad Sci 2007; 1108: 448-456)。驚くべきことに約半数は血栓症の既往がないde novo CAPSとして発症している。また、約60%の症例に先行因子(主に感染症)があるというが、肺生検や歯科処置など侵襲の度が軽い手技でも誘発したと報告されており、注意が必要だろう。臨床所見は主に、血栓の生じた臓器やその程度、そして侵され壊死した組織から過剰に放出されたサイトカインに依存する。血栓の影響は腎障害として現れるものが70.6%と最も多く、ARDS(Ann Rheum Dis 2006; 65: 81-86)や肺塞栓などの肺病変(63.9%)や、脳梗塞、脳症、痙攣、脳静脈閉塞などの脳症状(62%)がこれに続く。心合併症も51.4%にみられ、僧帽弁や大動脈弁などの病変が多く、心筋梗塞で発症するものも25%と決して少なくない。Livedo reticularisや紫斑、皮膚壊死などの皮膚合併症も50.2%でみられ、しばしば腹痛で発症しているように腹部臓器も高頻度で侵される。卵巣や子宮、精巣の梗塞などsimple/classic APSではみられず(Rheum Dis Clin N Am 2006; 32: 575-590)、副腎不全についてもCAPSに特徴的な所見であると記載する教科書もある(Kelly’s Textbook of Rheumatology 8th ed. Saunders 2009年)。一方、ARDSは血栓によらずに発現しうるとされTNF-αやIL-1、IL-6、macrophage-migration inhibitory factorなどのサイトカインは脳浮腫による意識障害や心筋障害にも関与しているという。

CAPSの診断については、複数の臓器障害が1週間以内に発現し、抗リン脂質抗体の存在と病理組織学的に血栓を証明することを基本とする基準が提案されている。感度90.3%、特異度99.4%、陽性適中率99.4%、陰性適中率91.1%と極めて優れていることから、診断のプロセスの中でもっとも重要なのは本疾患の可能性を念頭に置くことだと思われる(Rheum Dis Clin N Am 2006; 32: 575-590)。鑑別すべき疾患としてTTP、HUS、malignant hypertension、heparin-induced thrombocytopenia(HIT)、HEELP症候群、marantic endocarditisが挙げられているが、TTPとは対照的にSchistocyteの出現は少ない。また、検査所見として血小板減少が60%以上の症例にみられ、しばしばDICの診断基準も満たすという。TTPやHITの診断法としてADAMTS-13活性、抗platelet factor 4-heparin複合体抗体(抗PF4-heparin抗体)の測定が可能となっており、日本の臨床でより使用しやすい診断基準案を示している研究者もあり参考になる(日臨免会誌 2005; 28: 357-364)。

癌患者に血栓症を合併した場合、APTTを指標にしつつヘパリンを使用するのが一般的だろう。しかし、APSに関してはそれ自体でAPTTが延長するという問題があり、さらに、悪性腫瘍そのものがヘパリン治療による出血の高リスク群であることが知られている(肺血栓塞栓症および深部静脈血栓症の診断、治療、予防に関するガイドライン、2009年改訂版、日本循環器学会ホームページ)。それ以外にも未分画ヘパリンにはいくつかの欠点があるため、今後は低分子ヘパリンを選択する機会が増えるものと予想される(N Engl J Med 2003; 349: 146-153)。CAPSではさらにステロイドを含む免疫抑制療法や血漿交換などが併用されているものの半数以上の患者は死の転帰をとっているのが現状で、満足すべきものではない。一方、癌に対する治療により抗リン脂質抗体が消失した例もあり、原疾患をコントロールすることの重要性が示唆される。

今回に限らず、学生時代に教えられた知識とその後のつたない経験だけではすでに時代に落伍していることを思い知らされるテーマには事欠かない。“行く川の流れは絶えずしてしかももとの水にはあらず”、この言葉は今も厳然として真理である。臨床上の疑問に直結した論文が世界中から毎日のように報告されていることを思えば、10年もすればもはや以前の常識が通用せず、20年でむしろ誤謬と化していたとしても不思議はない。とすれば、医学知識の更新を自らに課すことのない臨床医は危険でさえある。そう思えばこそ、大陸の東の沖にある小さな島国のさらに片隅にあっても、最先端は無理かもしれないが、せめて昨日のことくらいは知っておきたいと望まずにはいられないのだ。けれども、情報の絶対的な量に圧倒され、自分の能力のなさに打ちのめされているというのが実情であり、あとで過ちに気づき、冷や汗をかいたことも一度や二度ではない。現実の世界では、うわべを取り繕うことに汲々とし、見苦しい姿をさらしながらもがいているのである。(2010.3.23)

医学における物語

2010年03月01日 05時02分40秒 | 医学・医療総論
映画に色も音もなかった頃、すでにクレショフは同じシーンであるにも関わらず、そこにつながれた映像によって観客の解釈が大きく左右されることを示した(内田樹. 映画の構造分析. 晶文社 2003年)。俳優の無表情な顔を「玩具で遊ぶ少女」のカットにつなげると「微笑」を、「死んだ女」のカットをつないだところ「深い悲しみ」が浮かんだと答えたのである。このよく知られた実験は、人間が事実をそのまま受け入れるのではなく、そこに何らかの意味を加えずにいられないことを示している。いくつかの事象が時間的に近接してみられたり、類似した様相を呈していたりすれば、それらを独立して起こった偶然のものとは考えずに、背後に何らかの関連性や、時には共通する原因を想定し、一連のものとして了解しようとするのである。このようないわば物語化への衝動を、ヒュームなら我々の習慣にすぎないと言うだろうが、歴史を振り返ってみればそれ以上のやむにやまれぬものもあるような気がしてならない。病気の症状にしても、科学的医学がその由来を解き明かすはるか以前から、その原因を超自然的な存在に求めるという形ではあったものの、説明することを要求されていたのだ。それは日本も例外ではなく、しかもそれほど昔の話でもない(波平恵美子 編. 人類学と医療. 弘文堂 1992年)。

現代医学は科学に基づいた病態生理的な観点から事象を系統立てて理解することを基本に据えており、今や患者もそのように説明されなければ納得しなくなった。ある症状なり徴候なりを、広く認められている病態生理的な知見にあてはめ、因果関係を説明し、その医学的なストーリーを踏まえて治療方針を決めるのである。そのため、臨床医は日々それぞれの患者の病態の解釈にあれこれと思い悩むのだが、かつては単一の病因を見出せば事足りたのが、慢性疾患が主体となった今では検討すべき要因が多く(砂原茂一. 医者と患者と病院と. 岩波新書 1983年)、しかも現実には得られる情報に限りがあり、既知の理論を適用できないものについては論理の拡張や推測で補わざるを得ない。

そして、その臨床医が頼みとする病態生理の体系にしても、未だ十全といえるものではない。それでも、さまざまな方面からアプローチした研究成果が蓄積されれば、自ずと真理の結晶が抽出されてくるはずだというのが常識的な理解だろう。だが、必ずしも着実な進歩がみられるものばかりでなく、方法論そのものに限界があることはいまさら言うまでもない。ハンソンの言う理論負荷性やクワインらによる決定不全性などという根源的な問いに正面から答えるのは容易ではなく、医科学の範囲内に限って考えてみても、たとえば分子病態の記述にはin vitroないし動物実験での成績に負う部分が大きいけれども、それらの結果をもって背景や条件の大きく異なるヒトの病態を説明しようとする場合、論理的な飛躍を伴うはずだ。つまりそこには、細胞の培養条件や種差など一定の環境下での観察であるという事実を無視する、あるいはヒトと同等であるとみなしてよい、という仮定がなければならない。もし、無条件にマウスのデータを持ってきてヒトでのデータの欠損を埋め、形式論理でつぎはぎできたとしても、それは表面的に体裁を整えたにすぎず、科学的な妥当性を犠牲にしたものになりかねない。臨床試験の成績ならば、その試験の対象者のプロフィールが眼前の患者に一致ないし大きな差がないことを確認するのがEvidence-based Medicine(EBM)でもっとも重視されている基本の一つであることを思えば、この意味は容易に理解されるはずである。このことが決定的に顕在化するのが薬の開発で、動物レベルで認められた有効性と安全性がヒトでも確認され、実際に製品化に至るのはそのごく一部に過ぎない。

さらに、結論を導く過程にも少なからぬ問題があると思う。たとえば、科学論文においては先行研究を踏まえた考察が求められ、その制約の下に主張を展開しなければならない。相反する内容をもつ複数の報告があれば、そのなかで論拠となりうるものを選択することになるのは当然だ。それどころか、引用した文献をそのまま援用するのではなく、その著者と異なる解釈を施すことにより、論旨を自在に操ることさえ可能である。一見、否定的な論文があったとしても、うまく料理すれば著者の論を補強する材料にすらなるのだ。抗IL-5抗体の臨床試験の結果により、喘息における好酸球の役割に疑義が生じたことがあったが、結局多くの研究者はあらゆる手を用いることで従来の理論への信頼を維持することに成功した、などという例もある(日内会誌 2006; 95: 1564-1571)。

形式的にはいくらでも文献を探し出し、いかようにも主張できてしまう危うさを孕んでいるのは否定できない。そしていったん矛盾なく説明されると、それがあたかも真理であるかのように錯覚してしまいがちである。いつの間にかその確からしさがあいまいなまま世間に流布し、信じられるに至っているものもないとは言えないだろう。そこで、その推論の妥当性を担保するため査読(ピアレビュー)という手続きがとられるわけだが、その判断基準はつまるところ明文化されているわけではない、“専門家集団の常識”とでもいうほかないものだ。科学的な装いをまとっているように見えても、その実、科学的な厳密性に欠け、恣意的とさえ見えるのも無理はない。「そもそも、研究者がみな学問していると思ったら大間違いである。研究者と称される人が、学んで問うことにはまるで縁がない、という場合はいくらでもある。特に、あちこちから知識や情報を仕入れてきて、いい加減な予測で議論することに余念のない人は、学問しているとは言い難い」(前田英樹. 独学の精神. ちくま新書 2009年)。これは根拠に乏しい過剰な物語を展開している専門家や、学会の中での権威者の発言のみを指しているのではない。このわたし自身に深刻な反省を促しているものなのだ。

けれども、それを満たせば科学的真実である、と誰もが納得するようなものはあるのだろうか。そもそも科学的真理さえ存在するものかどうかわからない(伊勢田哲治. 疑似科学と科学の哲学. 名古屋大学出版会. 2002年)。科学の特権性を否定するニーチェはその偏狭と退屈さをことのほか嫌い、「科学的」世界解釈といったものはありとあらゆる世界解釈のうちで最も愚劣なものの一つである、と言ったけれども、だからといってここで一切が虚妄だと言うつもりはない。科学的に求められた公理・法則・構造がひとつの仮説にすぎず、しかも、けっして客観的、“超越”的真理へ近づくわけではないとしても、それが世界像を刷新し続けることで人間の生の欲望に応えていく、その限りにおいて意味があるのだ、というのは説得力のある論だと思う(竹田青嗣. 現象学入門. NHKブックス 1989年)。そして、ヴィーコは細分化した知識を積み上げること以上に、対象を操作できることを重視し、それこそが究極の学問の目的だと考えた(学問の方法. 岩波文庫 1987年)。ならば、臨床的に観察される範囲内で事実をうまく説明し、明らかな誤りでもないのであれば、真理などは必要がなく、その病態もブラックボックスのままで構わないのではないかとさえ思える。もし、エビデンス(臨床試験の結果)と想定される分子病態(あるいは実験結果など)に齟齬があれば、臨床医が重きを置くべきは前者である。また、東洋医学は通常科学の範疇におさまるものではないが、臨床の現場ではすでに重要な役割を果たしている。一方で、科学に囚われた科学者・役人たちは、水俣において迅速に結論を下すことができず、被害の拡大を招いてしまったのだ(津田敏秀. 市民のための疫学入門. 緑風出版. 2003年)。患者にとっての有用性を至高の価値とみなせば、科学的厳密性に盲従する必要はなく、むしろそこからこぼれ落ちるものこそ気を留めなければならないと思う。 (2010.3.1)