やっせんBO医

日本の教科書に記載されていない事項を中心にした個人的見解ですが、環境に恵まれず孤独に研鑽に励んでいる方に。

結核に合併した血管炎

2009年05月25日 05時21分38秒 | アレルギー・膠原病関連疾患
「稀な疾患でしばしば見られる所見である可能性よりも、ありふれた疾患に見られるまれな所見であると考えよ」と言うよく知られた箴言がある(日内会誌 2008; 97: 466-470)。このような先人の知恵は全能ならぬ臨床医にとっては闇夜にともされた灯火のようにも感じられるものだ。感染症と血管炎との関連づけに多くの研究者が惹かれているのもこの教えに無関係ではなかろうとさえ思われる。

感染症により血管炎を発現する機序として血管への微生物の直接的な浸潤と免疫学的な機序を介した間接的なものが想定されているが、因果性が確認されているものは実は少ない(Curr Opin Rheumatol 2006; 18: 39-47)。それでもβ溶連菌や緑膿菌などの細菌、ヘルペス属などのウイルス、マイコプラズマ、リケッチア、真菌、寄生虫など想像以上に多くの微生物の関与が疑われていることに驚嘆する(N Engl J Med 1999; 340: 1099-1106、Clin Exp Rheumatol 2006; 24: S71-S81、Int J Dermatol 2006; 45: 996-998)。血管炎への感染症の関与の程度は対象とする血管炎の種類により異なるだろうが、たとえばLeukocytoclastic vasculitis82例のうち、原因を推定し得たのは38例で、このうち膠原病が17例で最も多く、次に多かったのが薬剤と感染症でともに8例であったとの報告があり(Arch Dermatol 1984; 120: 484-489)、欧米ではB型肝炎ウイルス感染の減少に伴い結節性多発動脈炎(PAN)の頻度も減少しつつあると言われている。

それらすべてを網羅するわけにはいかないので、ここでは結核についてまとめてみることにしよう。Oxford Textbook of Rheumatology(第3版)には血管ないし血管周囲に結核菌が証明されるタイプのものが記載されている。大小血管を侵し、panarteritisやthrombotic phlebitisを発現するが、動脈より静脈に病変を認める傾向があるとする。臨床的には結節性紅斑として認識されることが多いという。

一方、免疫的機序が想定される症例も集積されつつある。免疫機能に障害のない若年者に多く、性差はないとされ(Infection 2000; 28: 55-57)、その主な様式は①皮膚Leukocytoclastic vasculitis、②Henoch-Schönlein purpura、③リファンピシンに続発した血管炎、の3つである。

皮膚Leukocytoclastic vasculitisはChapel Hill Consensus Conference systemによればsmall-vessel vasculitisに分類され、血管炎の中では最も遭遇されるものの一つだ(N Engl J Med 1997; 337: 1512-1523)。病理学的にはleukocytoclasia(好中球断片)とfibrinoid壊死を伴うangiocentric inflammationを特徴とする。血管壁に結核菌は証明されない。結核菌に対する感染防御にはなり得ないが、液性免疫反応により血中に免疫複合体が存在することが以前から知られている(Thorax 1981; 36: 610-617)。この免疫複合体の沈着(通常IgM、IgG)により補体経路を活性化し、走化因子の産生と接着因子の発現を誘導するのが機序と考えられており、病変は皮膚に限られる(J Bras Pneumol 2008; 34: 745-748)。

Henoch-Schönlein purpuraは紫斑、関節痛、消化器症状と腎障害を合併するもので、腎病理組織はIgA腎症に類似しており腎糸球体への免疫複合体・IgA沈着を特徴とするのだが、皮膚ではLeukocytoclastic vasculitisの所見を示すのは興味深い。一般に、薬剤が関与するものの他、30~80%の症例において溶血性連鎖球菌やアデノウイルスなどのウイルス、マイコプラズマ等の呼吸器感染症が先行するといわれている。好発年齢は5歳前後とされているのに比べ、肺結核症に合併したHenoch-Schönlein purpuraはより高年齢の患者が多いのが注目される(Am J Med Sci 2007; 333: 117-121、Chest 1991; 100: 293-294、日呼吸会誌 2008; 46: 645-649)。

上述のように血管炎の発現部位のほとんどは皮膚であるが、眼、腸管(Histopathology 1992; 21: 477-479)、神経などに生じたものも報告されており、見逃されている例もありそうだ。抗結核療法が治療の基本とされているが、ステロイドを追加している症例もある。

冒頭に述べた箴言は人口に膾炙したものではあるが、このような原則の常として例外が多いものである(N Engl J Med 2007; 356: 504-509)。認知心理学的な診断過程においてはヒューリスティクスを用いた問題空間の探索など、その者に備わった知識や経験がものをいうのだが、それだけでは正解にたどりつかないことも多い。ある種の“創発的な問題解決”も必要とされ認知科学の進展に期待したい。いずれにせよ、医学は怠惰な者に対しては堅く門を閉ざし、その高みを望み、またその果てを測ることができるのはごく限られた幸運な人々である。透明な世界に憧れを抱きつつ何とかして潜り込もうとしてもかなわない。かといって下界にも安住の地はなく彷徨する。そのような医師の一人が、かのセリーヌであった。 (2009.5.25)

医療の質と専門分化

2009年05月16日 06時00分22秒 | 医学・医療総論
世紀の変わり目など便宜的に決められた区切りにすぎない。とはいうものの、今から振り返れば、それは日本の医療が大きく変わる節目でもあったように思われる。それまで無頓着ともいえる状況にあった医療の安全に、厳しい目が注がれるきっかけとなった患者取り違え事件が起こったのも1999年だった。そしてこれと表裏の関係にある医療の質に関する議論も、今にいたるまで活発に続けられているのだ。とりわけ、構造・過程・結果という3つの視点に分けて考えてみたとき、後二者については臨床指標clinical indicatorを用いて評価する試みが熱心に進められ、医療現場にも影響を及ぼしつつあるのは周知のとおりである(日医会誌 2005; 133: 216-219)。しかしながらその具体的成果は未だ明らかとは言い難く、患者の目に直接触れる医療機器・スタッフの等の“構造”に関する指標も重視される状況に変わりはない。ただし、医師を評価する客観的基準があるわけでもなく、問うてみれば医師自身の間でも議論が百出するだろう。

当然のことながら、一人の医師ないし医療機関が単独で現代の高度化した医学・医療に十全に対応するのは不可能である。よって必然的に分業に向かわざるをえず、ある特定の疾患(群)に限定して対応すべく専門施設や専門医が存在しているはずだ。移植可能施設が臓器別に日本全体で数か所しか選定されていないのはその顕著な例だろう。また、「特発性間質性肺炎診断と治療の手引き(2004)」にも、“可能な限り専門医へのコンサルテーションを勧めること”、と記載されている。この根拠としては、複数の医師の間で一致したものが正しい診断であるとの仮定の下に、39例のIIP(特発性間質性肺炎)疑い症例の診断を比較した研究がある(Am J Respir Crit Care Med 2007; 175: 1054-1060)。それによれば“academic-based physician”群は同一の情報を与えられた“community-based physician”群よりも診断の一致率が高かったという。これは米国の大学とその関連施設で行なわれたもので、医師の背景として3名の“community clinician”の臨床経験は8-20年、日常診療に占めるILDの割合は1-20%、一方6名の“academic clinician”の臨床経験は9-26年、診療に占めるILDの割合25-95%とのことであった。しかしながらこの試験に参加した医師が少ないうえにどのような規準でエントリーされたかも記載がない。また、ほとんどの“academic clinician”の日常診療の70%以上はILDに関わるものであるというが、これほどの高度な専門性を持つ医師は日本の大学にはほとんど存在しないだろう。大多数は入院患者の7~8割を占める肺癌や最近増加しつつある嚥下性肺炎の診療に追われつつ細々と自分の専門性を追求しているのではないだろうか。米国では1枚の胸部単純X線でさえ、その読影報告書には1~2ページにわたって所見がびっしり記載されているのに対し、日本ではCTさえ放射線科医による読影がなされないことも稀ではなく、この論文の結果を直接日本に適用するわけにはいかないのである。

専門分化が医療の質を担保するためのものであることを思えば、この日本のお粗末な状況を放置しておいていいはずがない。日本において最近公表されたタルセバの製造販売後副作用収集状況(2009年3月)によれば、ILD様事象123例を放射線診断専門家、臨床腫瘍学専門家及び呼吸器内科専門家より構成される判定委員会で検討したところ、23例(18.7%)はILDではないと判定されたという。これはイレッサ錠250プロスペクティブ調査(特別調査)でも同様で、主治医より報告を受けた急性肺障害・間質性肺炎発現症例のうち画像が入手できた140例が判定委員会で検討され、22例(15.7%)が否定されている(それぞれ企業ホームページによる)。詳細は失念したが、タルセバ処方医は呼吸器学会などの所属者に限定されているはずだ。否定された症例の内訳は肺炎・感染症14例、原疾患の進行4例、無気肺2例、腫瘍出血、放射線肺臓炎の自然経過各1例などで、診断自体のむつかしさは否定しようもない。けれども、中には“明確なILD所見なし”というものまであったというのに驚かずにいられないのだ。

加えて専門医制度についても、資格を得るのにふさわしい教育がなされていないのではないかということが以前から指摘されている。日本専門医制評価・認定機構の活動により改善が図られつつあるとはいえ、未だに認定された資格が専門医の質を保証しているとは言い難い。気管支鏡を10年以上も手にしたことのない呼吸器内視鏡学会指導医が存在するような状況だ。結果として専門医資格は単に既得権益を守るだけのものに成り下がっているのではないかと危惧する。また評議員選挙において医局員から白紙の投票用紙を取り上げ、記入し投票しているのは教授であるなどという話も聞く。そのような学会が専門家集団として信頼されるだろうか。学会を政治の場にしてはならず、本来の姿に立ち返り医療の質を維持・向上させる実質的な存在であってほしいと思う。

かつて丸山真男は日本社会を「タコツボ型」と形容した。しかし、医学の進歩による必要から分業した各専門科が孤立していては医療が成立しない。日本の専門医は他科への相談を忌避する傾向にあるが(プライマリ・ケア 2008; 31: 220-228)、専門医の守備範囲が明確な欧米では過剰とも思えるほどにコンサルテーションを行い、積極的にコミュニケーションを図っている。これは各専門科間ばかりではなく、センター病院と地域医療機関の間でもそうである。良質な医療を提供するという目的の下では、専門医も総合診療医も対等である。専門医でなければ良い医師ではないなどというのは実情を知らない者の誤解に過ぎない。最近、ようやく日本においても変化の兆しが見えつつあり、地域医療連携も成果を挙げつつあるように思われる(日医会誌 2006; 135: 1721-1725)。

ところが最近発売された抗癌剤などでは、一定の要件を満たした専門科医師に使用が制限されているものがある。これはイレッサの件で医師に対する信頼が低下したことを反映するものだろうが、むしろ「間質性肺炎の専門医の助言を適宜得られる環境下での使用」(ゲフィチニブ使用に関するガイドライン2005.7.25改訂日本肺癌学会)のほうが重要だ。専門家であるからこそ専門外の病態に対して無力であり、「癌化学療法に十分な経験を持つ医師」が間質性肺炎を適切にケアできるとは限らない。さらに、遠方のセンター病院からフォローを依頼されながら上記制限により薬の処方自体ができないためやむなく断るケースも経験した。専門医師に安易に依存しつつ、患者の置かれている状況や医師の連携を一方的に無視するかのような製薬企業の姿勢には疑問を感じざるをえない。プライマリケア医はその重要な任務としてゲートキーパー機能を持つ。だから気軽に紹介することのできる優秀な専門医をいつも求めている。一方、専門医のほうも適切に紹介されることがなければ無駄な労力と時間を費やすばかりで、その専門性を発揮することができない。お互いが協力し合えばこそ患者ケアの質を高めることができるのだ。 (2009.5.16)

播種性骨髄癌症

2009年05月02日 06時17分49秒 | 腫瘍
播種性骨髄癌症(Disseminated carcinomatosis of the bone marrow ; DCBM)は比較的まれとはいえ、消化器科・外科系学会地方会レベルでもしばしば発表されていることから推測すれば、一般臨床家が遭遇する可能性も十分あるに違いない。進行が早く対応が後手に回りかねず、あらかじめ知っておくべき病態だろう。

DCBMは悪性固形腫瘍の骨転移のうち、原発巣、転移巣ともに結節形成性に乏しく、全身の骨髄へびまん性浸潤性に転移をきたすものである。癌の骨髄転移に合併する血液異常については、すでに1936年にVaughanらがleukoerythroblastic anemiaとして報告しているようだ。その後Jarchoらによるdiffusely infiltrative carcinomaの概念をもとに1979年に林ら(癌の臨床 1979; 25: 329-343)がびまん性骨転移の40症例を集計し、出血症状(DIC)、microangiopathic hemolytic anemia(MAH)を合併する病態を播種性骨髄癌症と称したのを嚆矢とする(日消外会誌 2006; 39: 265-270)。ただし、その後日本においてDCBMとして報告されている症例は多いけれども、必ずしもこの定義に沿うものではない。また、文献から推測する限り欧米でもこの病態の存在は認識されているようであるが独立して扱う研究者はほとんどないようだ。

蓮田ら(日臨外会誌 2008; 69: 355-359)の概説によると、比較的若年者に多く(中央値は40~50歳台)、原発の多くは胃癌(90%)でその他大腸癌や肺癌、乳癌、前立腺癌にもみられる。胃癌におけるDCBM9例の検討によると組織学的には4例が印環細胞癌、3例が低分化型腺癌で、残り3例の中分化型腺癌でも低分化成分が混在していたとされるなど(Oncol Rep 2006; 16: 735-740)、分化度との関連を示唆するものが数報ある。頻度については転移、進行、再発胃癌で保存的治療を行った1598例の患者のうち39例(2.4%)で病理学的に“bone marrow dissemination”が確認されたとの報告がある(Oncology 2007; 73: 192-17)ものの、DCBMとの異同は明らかでない。

貧血、腰背部痛、出血傾向が三主徴とされるが最も多いのは全身倦怠感・腰背部痛であり、貧血や出血傾向はそれに次ぐという。血液生化学検査所見では初期にALP(主に骨由来)とLDHの急増がみられ、遅れて末梢血液中の骨髄芽球の出現、貧血、血小板数の著明な低下がみられる。血液検査で注目されるleukoerythroblastic anemiaを認めたものは39例中2例(Oncology 2007; 73: 192-17)、高カルシウム血症も9例中2例(Oncol Rep 2006; 16: 735-740)に過ぎず、念頭になければ見逃しやすいことが予想される。血中FDPの上昇が早期診断に有用との報告もあるようだ。骨髄を中心とする広範なリンパ行性、血行性転移によるびまん性臓器浸潤によりDICやmicroangiopathic hemolytic anemiaを合併するのは10%、発症後平均生存期間は4.6か月と述べるものもあるが、急激な経過の中で診断に難渋することも稀ではなく油断できない。晩期には全例で出血傾向を呈し、脳出血や消化管出血が直接死因となるという(日消外会誌 2006; 39: 265-270)。画像所見としては骨シンチにおけるsuper bone scan(beautiful bone scan)が特徴的である。これは体幹骨を中心としたほぼ均一びまん性の集積像を認めるもので、一方、radioisotopeが骨へ高度に集積し腎からの排泄が遅れるため、腎陰影は欠損・菲薄化(faint kidney sign)する(Dokkyo Journal of Medical Sciences 2008; 35: 113-120)。単純X線やCT所見では骨破壊は軽度で、造骨性変化と溶骨性変化が混在する。確定診断は骨髄穿刺・生検が必須となるが剖検により始めて明らかになることも少なくない(日消外会誌 2002; 35: 431-435)。

DICに対する治療ないし抗癌化学療法によりDICから離脱できれば延命に寄与するとの報告が多い。また、Bisphosphonateが骨吸収を抑制することにより骨からの成長因子の供給を減らし、癌細胞の増殖を抑制するとされ、さらに窒素含有Bisphosphonateは癌細胞増殖を直接抑制するともいわれ、Bisphosphonate使用例で生存期間が長い傾向にあったとするものもある(Oncol Rep 2006; 16: 735-740)。しかしながら、化学療法等の評価はいまだ確立されておらず、原発臓器や患者の状態を勘案し個別に決定しなければならないだろう。

以上、DCBMについてまとめてみた。現在の高度専門分化された状況においては、癌患者の診療は腫瘍専門医が担当するのが当然とみなす向きもあるかもしれないが、実際にはそのようなケースはむしろ少ない。患者の立場からすれば初診から診断までのごく初期の段階はもちろんのこと、腫瘍の進行・再発により積極的治療が適切でないと判断された場合にも地域の非専門医のもとで闘病生活を送ることになる。しかしながら、腫瘍専門医のみならずホスピス医も不足しているため、要の存在である総合診療医、プライマリケア医の負担が過大になっているのが現状なのだ。

しかも専門施設・医師との連携も事実上極めて限られているため、専門知識が不足していることを自覚しつつ診るほうも大変神経を使う。先を見越した余裕のある対応は至難で、予想外の経過をたどり悔やむことも少なくなく、トラブルの連続だ。そのような環境をとっくの昔に見限った者も多いだろうが、一方では報われないことに不平をもらすこともなく地道な努力を続ける医師も多いに違いない。疲弊しきった日本の医療に未来があるとすれば、彼らの中にこそかろうじて残されているのではないかと思う。 (2009.5.2)