やっせんBO医

日本の教科書に記載されていない事項を中心にした個人的見解ですが、環境に恵まれず孤独に研鑽に励んでいる方に。

臨床医における問題解決の基本(第3部)

2015年05月12日 04時54分55秒 | 医学・医療総論
5.問題の分解

    問題点の感知と整理
      ↓
    診断(問題の分解→仮説の設定→問題点の原因特定)
      ↓
    治療(問題点の解決策の決定→解決策の実行)
      ↓
    問題の検証

 ここでは前の段階で明らかになったそれぞれの問題点をさらに分析していく。問題が複雑であれば、より小さく単純な要素に分解することで、解決しやすくなることが少なくない。この際、「モレなくダブリなく(MECE :Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive)」系統的に考えることができれば理想的だ。例えば、胸痛が問題となっている場合、胸壁、神経、心臓・血管系、肺、食道などと解剖学的に分類すれば考えやすいし、また発熱患者なら、病態生理を加味して、感染症、腫瘍、膠原病・免疫疾患、・・・などとなるだろう。このような考え型の枠組み(フレームワーク)を用いた思考法はしばしば非常に有用であり、普段からこのように考える癖をつけておくとよい。

 そこで、あらかじめ最初にチェックする所見や検査項目を自分でまとめておくと、特に時間の余裕がない救急の場面で役立つ。例えば低ナトリウム血症なら、SLEEP(SIADH、Loss of water、Endocrine(drugを含む)、Edema、Pseudohyponatremia)などと覚えておけば、よくみられる疾患を見落とすことなくチェックできる。頭痛患者であれば眼圧、項部硬直の有無、側頭動脈・副鼻腔の圧痛を忘れずに確認する、などと決めておくのだ。見逃してはならない疾患にとくに注意すべきなのは言うまでもない。

 特徴的な所見の組み合わせがそのまま診断に結びつくこともある。機械的に適用するわけにはいかないけれども、昔からトリアスなどという形でまとめられてきたものがその例だ。その他、それぞれ無関係に見えても重要な手がかりになりうるものがある。たとえば肺に陰影があり、腎機能の悪化をきたしているとすれば診断の範囲をかなり狭めることができるだろう。検討すべき範囲を可能な限り絞り込むことがここでの重要なポイントである。そのためには情報を獲得する努力を惜しんではならないのだ。教科書で鑑別診断のリストをしらみつぶしにチェックするという方法もあるとはいえ、全ての症例でこれを行なうのは非効率的あるいは壮大な無駄である。そして疾患の頻度と重症度を考慮しつつ、きわめてまれな疾患は緊急性がないかぎり後回しにしてよいことが多い。ここで覚えておいて損のない格言に次のようなものがある。「ある症候がある特定の稀な疾患でよくみられるものだとしても、実際にはたびたび遭遇する疾患の非典型的な症候である可能性のほうが高い」。

 判断の誤りを最小限にするためには、胸痛イコール心筋梗塞などとはじめからパターン化された対応ではなく、鑑別診断を考えながら対応することが重要である。とはいえ、残念ながらこれですべてがうまくいくとは限らない。典型的な症状でなければ、しばしば鑑別リストから漏れてしまうことに注意が必要だ。例えば急性心筋梗塞でも右肩のこりや頭痛を主訴として来院することがある。このように教科書にも記載されることのまれな所見から診断するのはきわめて難しいというのは容易に想像できるだろう。そもそも鑑別診断のリストに含まれてさえいないものを診断できるはずがない。また、人間の記憶力には限界もある。病態生理的にたやすく連想しにくい検査所見であったりする場合、それ単独では疾患名を想起することさえなく、その他の所見や時間経過などの情報をあわせて検討することが絶対的に必要である。ところがその診断に必須の検査が通常の診断論理では行なわれることがないものでありうる。血管内リンパ腫におけるランダム皮膚生検などは最たるものだろう。すると、ある程度想像力を働かせ、可能性が低いとしても丹念に検討していくしかない。普段から過剰とも思える程度に網羅的に検査を行なっておく、という対策もありえないことではないけれども、それが実際どの程度役立つのか疑問である。危険因子のある男性高齢者が狭心痛を訴え心電図変化を伴っていれば心臓カテーテル検査を行うことも許容されるだろうが、では、それ以外の患者ではどうか。可能性が非常に低くても重大な結果をきたしうるため全例に施行するという立場もありえるとはいうものの、可能な限り何らかの根拠があるものに限定する、と考えるのが一般的だろう。

 その意思決定には検査の侵襲性や手技の専門性も大きく関わってくるのは言うまでもない。いわゆる専門医の場合、限られた分野に思考を集中すれば済み、またあらかじめある程度の診断がついた状態で紹介されることが多く、このようなジレンマに苦慮するのはむしろ地域医療の現場なのだ。プライマリケアの最前線においては典型的な症状は少ない傾向にあることも指摘されており、特に高齢者では特定の臓器を示唆する症候は少なく、しばしば非特異的である。最近元気がない、などといった非常にあいまいな訴えの場合には網羅的にチェックせざるを得ないけれども、全身状態が不良であったり、認知症で検査に非協力的である、などといった理由で十分に検討できない場合もまれでないところに難しさがある。




6.仮説の設定

    問題点の感知と整理
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    診断(問題の分解→仮説の設定→問題点の原因特定)
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    治療(問題点の解決策の決定→解決策の実行)
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    問題の検証

 以上のように分解され絞り込まれた問題点をそれぞれうまく説明する診断仮説を考える。経験のある医師ならば患者の医療面接を行ないながら、並行して複数の診断仮説を頭の中に思い描きつつ、さらにより突っ込んだ病歴を聞きだし、検査計画を立てるだろう。この仮説を導き出す思考過程として上記のようにフレームワークなどを利用して筋道立てて進めることもある一方で、多忙な現場ではより直感的に行なわれる部分も多くヒューリスティックと呼ばれる。認知心理学的にはこのとりあえずの診断をこれまでの経験(そういえば以前、似たような患者がいたな…)や、パターン認識(満月様顔貌→クッシング!)などで思いつくとされており、さらにこれらの診断仮説を意識的にまとめあげるアブダクションという思考法もしばしば用いられる。これは、①ある症状、検査所見が認められる、②その症状、所見はOOという病態(疾患)があるという(診断)仮説を採用すると最もよく説明できる、そしてそれを同程度うまく説明できる説明は他にない、③したがって、OOという診断仮説は恐らく正しい、という段階を踏んで推論される。すなわち、「A(仮説として挙げられた疾患、診断名)ならばB(症候、検査所見など)である。」という命題があって、Bという手がかりが得られた場合、Aを推論によって導くのだ。AとBが一対一で対応するような特殊な例であれば(一種の同義反復ないし理論的同一視)、診断はいたって簡単である。腎不全では血清クレアチニン値が高値である、とかアミロイドーシスならば病理検査でアミロイド沈着がみられるというように病理学的所見が疾患概念の基礎にあるような場合や、奇形・動脈瘤など解剖学的に診断される疾患もここに含まれる。患者側からみると、診断のイメージはこのようなものだと思う。

 とはいえ、残念ながらこのような幸運な例ばかりではない。このアブダクションという推論(「Aという疾患ならばBという検査所見が得られるはずである。ここでBという所見が得られた。従ってAという仮説は正しい。」)は仮説設定のためには確かに有効な方法であるけれども、論理的に考えると必ずしも正しい推論であるとは言えないのだ。たとえば、胸痛を訴える患者で、「心筋梗塞ならば心筋由来のCKが上昇するはずである、実際検査してみると確かにCKが上昇していた、従って、この患者は心筋梗塞である」という推論は正しいだろうか。少し考えてみると心筋由来のCKは心筋炎でも上昇するので常に正しいとは限らないことに気づく。これは論理学の分野では後件肯定の誤謬と言われ、誤った推論として古来知られていたものである。さらにAならばBであるという命題自体、確実性に乏しいことがほとんどだ。たとえば、心筋梗塞ならば胸痛が出現する、というのがふつうであるものの、胸痛をきたさない心筋梗塞もまれではない。

 そこで実践の科学としての医学は、ここに確率を持ち込んだ。すなわち、ベイズの定理を適用して、検査前の疾患の確率(オッズ)と検査の尤度比から疾患の存在確率を導き、その検査後確率が一定以上あれば、その疾患の可能性が高いと考えるのである。特に検査前の段階で診断の確信が持てないような場合に行なった検査結果は大きな意味を持つ。例えばやや非典型的な症状で来院した胸痛患者における心電図がそうだ。一方で、喫煙歴のある糖尿病患者が締め付けるような胸痛を訴え、それが1時間続き冷汗を伴っているとすれば、検査前から急性心筋梗塞が非常に強く疑われるので、心電図所見の如何にかかわらず循環器専門医にコンサルトしなければならないのである。

 当然のことながら、その適用が困難な場合も決して少なくない。確率を用いて診断するには、その前提として確率現象を生み出す「枠組み」を明らかにしておかねばならないとされる。すなわち「鑑別診断のリストなど起こりうるできごとを列挙したもの」(標本空間)と「それぞれの起こりやすさの度合い」(尤度)が必要で、このうちどちらが欠けていても従来の確率法則を適用できないのだ。ところが、たとえ鑑別診断リストに漏れがないとしても、検査前疾患確率はしばしば不明である。文献にて確認できなければ一般人口での有病率を使用するとされているものの、有病率が非常に低い(稀な疾患である)場合には、検査前に絞り切れずにいると、いかに感度・特異度が高い検査で陽性になったとしても、検査後確率はやはり低いままである。

 また、次に利用される推論としては、当然陽性(場合によっては陰性所見)となるべきBという手がかりが得られなければ、Aという診断仮説は誤っている(反証される)、と演繹する方法である。例えば胸痛を訴える症例で、心筋梗塞を考えたが、経過中に心筋由来のCKが上昇しなかった、という場合、心筋梗塞はほぼ確実に否定されるだろう。その感度が100%である検査が陰性であれば、その疾患は否定されることになる。ただしこのような推論では、その疾患ではない、とは言えるが、疾患を診断することはできない。むしろ診断を絞り込む方法と考えたほうがよいだろう。

 医学的所見のほとんどはそれ単独では確実性に欠ける非特異的なもので、ゆえに診断はそれらの所見を精妙に組み合わせたうえに築かれる。ベイズの定理を適用するにしても一筋縄にはいかない。従って、ある疾患が否定的であると考えられても、まったく捨て去ることはせずに物事を進めていかなければならないこともある。肺炎と考えた症例が抗生剤治療で改善したとしても、陰影が残存し肺胞上皮癌でないと言い切れないのであれば、退院後もX線で陰影の消失を確認するまでフォローするくらいの慎重さが求められるのである。




7.問題の原因特定

    問題点の感知と整理
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    診断(問題の分解→仮説の設定→問題点の原因特定)
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    治療(問題点の解決策の決定→解決策の実行)
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    問題の検証

 以上述べてきたように診断をつける思考過程は決して単純なものではないが、多くの場合、病歴のみである一定の範囲に仮説を絞り込むことができる。そして認知心理学的にはいくつか(一度におよそ7個以下)の候補を念頭に置きながら、支持する病歴や身体所見、逆に否定する根拠がないかを確認しながら進んでいくという(仮説演繹法)。このプロセスは診断基準が存在する場合でも省略できるわけではなく、病理組織検査のようなgold standardとしての検査にせよ100%信頼できるわけではない。臨床的に矛盾する点があれば、再検討することが必要だ。

 ここである疾患概念は理論的仮説の体系であり、現実の疾患のより抽象化された概念であるということに注意しておく必要がある。言い換えれば、個々の特性を無視したところに成立しているので、ぴったり全ての所見が教科書通りであるとは限らない。したがって、典型的所見がそろっていない場合でも、安易に新しい疾患概念を作り出そうとするのではなく、まずは既存の疾患のバリエーションとして理解するのが妥当であることが多い。
 
 確定診断をつける、それは、その基礎にある病態を推測するための原点であり、これこそが本質的問題といっていい。高血圧を主訴に来院した患者でも、副腎に腫瘍がみられたなら降圧薬のみで済むというわけにはいかないだろう。また、ある診断を下してそれで終わりということでもない。診断が正しければ、その疾患の病態生理(=基本原理、公理)から演繹的に(合理的推論によって)多くの具体的所見が説明できるはずである。もしできなければ、その診断が間違っているか、あるいは把握されていない問題点(偶然、他の病態が併存しているなど)があるのか、改めて検討しなければならない。文献やこれまでの報告例と比較することが必要だ。
 
 むろん、ただ一口に診断といっても、いくつかのレベルがありえる。つまり呼吸困難の原因が心不全である、と診断したとしても、血行動態的に心係数が低いこともあれば高心拍出性かもしれない。心機能低下の原因は収縮不全か拡張不全か、また基礎疾患として解剖学的に大動脈弁閉鎖不全が認められたとすれば、それが動脈硬化性のものか感染性心内膜炎による急性のものかで対応は大きく異なる。電気生理学的には心房細動があるかもしれないし、高心拍出性ならビタミンB1欠乏症や貧血の有無を検索すべきだろう。その増悪因子が感染であることもあれば、その他のストレスであるかもしれない。同じ疾患でも重症度のみならず病態などそれぞれの患者ごとに差異があり、それを踏まえた上で次の段階に進まなければならないのだ。

 このように診断が確定されればそれに従って治療方針の決定に進むことになる。しかしながら、特に救急の場面では余裕をもって検査を積み重ねることができない。ポイントを押さえた病歴聴取と身体所見だけで急性心不全と判断し、検査結果が明らかになる前に治療を開始しなければならないこともありえる。一方、急性心筋梗塞やくも膜下出血などは典型的症状であれば検査を行なわずとも診断可能であり、仮に検査で異常がみられなかったとしても、完全に否定されるまではその疑いを捨ててはいけない。逆にそのような疾患を念頭に置きながら心電図所見や頭部CT画像を読みとることで診断精度を高めることもできる。また、診療所のようなプライマリケアの第一線の現場では全ての患者に対しはじめから検査を尽くすことは時間的、物理的環境による制約があり、現実的でない。そのような場合、経過観察や診断的治療という選択をすることもあり、後日治療に対する反応や時間経過という因子を含めて最終的に診断することになる。

 さて、ここで、しばしば意識されていない前提について触れておきたい。それは「あるひとつの病態では一つの原因がある」ということだ。これは単一病因説といわれるもので、特に急性疾患に当てはまる。何らかの症状がある場合、偶然的要素がなければそれに対するある一つの病因があって、その病態を形づくると考える。たとえば、ここに発熱患者がいたとして、その診断は肺炎である、あるいはリウマチ性多発筋痛症である、などと診断するわけだが、特別な所見がなければ両者の合併があるとは通常考えない。逆に言えば可能なかぎり単一の病態として考えるというのが基本である。“臨床的なセンス”というものがもしあるとすれば、このことが一つの要素になるかもしれない。プレゼンテーションの場であれこれの事実を脈絡もなく羅列されると、この主治医は患者の病態を把握できていない、と判断されることにもなるだろう。

 この単一病因説、というのはある意味で極めて効率のよい考え方ではあるものの、それによって見逃される面もあることに注意が必要だ。コッホは感染症の病因として細菌の存在それ自体が決定的であると主張したが、ペッテンコーフェルはそれに反対し、衛生環境などの要因も極めて重要であることを力説し自らコレラ菌を飲んだのである。肺炎患者がいて、肺炎球菌が原因(起炎菌)であるとしても、論理的因果関係は単純でない。免疫抑制状態にあるものや摘脾の既往があれば無視しえない要因であるし、たまたま風邪をひいていれば先行するウイルス感染が影響したと考えられる。あるいはショートステイ先で慣れない介護者が食事の介助をしていて誤嚥させたのかもしれず、さらに、ショートステイをしていたのは家庭の不十分な介護力による、・・・などと因果の網の目は複雑に絡み合っており、必要に応じて食事介助の方法や介護についても検討を広げなければならないこともあるだろう。医療現場では便宜上肺炎球菌を病因として抗生剤治療を行ない、それでその肺炎は一応改善したとしても、実際には解決されていない問題も意識されずに残されたままあるかもしれないのである。

 最近では生活習慣病など慢性疾患の重要性が高まっており、それらにおいては病因をただ一つに求めることができないことが多い。そこでこの単一病因に代わって、疾患の発症に関連するリスク因子という考え方が一般化しており、多重リスク要因の複合による発症確率モデルが提唱されるなど、病気を実体としてとらえるというより関係論的にとらえるようとする努力もはらわれているのだ。 (2009.3.24、2015.5.12改訂)