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やっせんBO医

日本の教科書に記載されていない事項を中心にした個人的見解ですが、環境に恵まれず孤独に研鑽に励んでいる方に。

下気道の臨床解剖学

2011年12月19日 05時11分43秒 | 気道病変
昔を振り返ることが多くなった。それは何かを成し遂げたからではない。思い出されるのは後悔の念を伴うような出来事ばかりだ。これまでの生涯をかけて手に入れたもの、それと引きかえに失ったもの、あるいはありえたかもしれない別の人生、果てしなく想像は駆けめぐるけれども、いつも行き着くのは満ち足りた感情とは対極の場所である。理想はすでに遠く、今さらどうなるものでもないとわかってはいても、ここにいたる道のりを辿りなおさずにいられない。学生時代のノートをもう一度めくってみるのも、そんな心持ちが少なからず関係しているのだろう。

臨床をめざす一学生にとって、解剖学は時代に取り残され、ただひたすら暗記するだけの退屈な学問であるように思われた。「蘭学事始」の時代ならいざ知らず、骨の小さな突起の名前や末梢神経の走行を覚えて何の意味があるのかといつも大きな疑問を抱えていたものだが、その意義を理解したのは大分あとになってからのことだった。おそらくこれからも解剖学は医学を支えるもっとも大事な根幹の一つでありつづけるだろう。この機会に呼吸器臨床に関連した、ごく初歩的な事柄だけでもまとめてみようと思う。

日常的に使われている言葉が常に同じ内容を示しているとは限らない。たとえば上気道/下気道という用語さえ、その定義は必ずしも一定していないようだ。教科書によっては下気道を気管分岐部より末梢と記載するものもあるとはいえ、一般に受け入れられている両者の境界は声帯である。これは組織学的な裏づけがある(口側は扁平上皮が主、気管側は多列線毛円柱上皮)のみならず、臨床的な観点からも声帯から下は原則として無菌状態であるとされていることにも対応する。末梢側についても意識されていることは稀ながら、肺胞領域を含むとするものや終末細気管支までに限るとするものなど様々だ。さらに非専門医にとってわずらわしいものの一つは、肺胞嚢にいたるまで23回も分岐を繰り返すといわれる(Weibelによる)気管支の命名法だろう(気管支学 2011; 33: 75-82)。気管から末梢まで主気管支、葉気管支、区域気管支、亜区域気管支…と枝が幾何級数的に増加し、病変部位を把握するのも容易ではない。気管を起点とした分岐数で表す方法は簡便であるとはいえ、極細径気管支鏡を用いれば第12次分岐まで観察可能であるといわれれば、もはや想像の域を超えている(気管支学 2003; 25: 118-122)。中枢気管支の命名にもいまだ未解決の問題が残されている一方で(気管支学 2010; 32: 3-5)、検査手技の進歩は末梢気管支の表記法をも細かく規定することを求めているのだ(気管支学 2000; 22: 330-331)。しかも右上中間幹分岐部と左上下葉支分岐部をそれぞれ右2次分岐部、左2次分岐部、あるいはSecondary carinaと略称するのは許容されるのに対し、Second carinaは不可であるなどなかなかうるさいのである(気管支学 2009; 31: 247-250)。

もちろん疾患の理解は病変の存在部位を正確に記述するところから始まるに違いない。中葉舌区症候群(日呼吸会誌 2008; 46: 55-59)や副鼻腔気管支症候群などのように疾患名そのものとなっているものは言うまでもなく、病態や診断、さらに治療方針の決定にも大きな意義をもつ。再発性多発性軟骨炎において、狭窄病変は肺内気管支(軟骨は小さな板状で不規則に分布)よりも肺外気管支(馬蹄形の軟骨輪と背側の膜様部からなる)に形成されやすいというのも解剖学の知識から容易に理解される(気管支学 2008; 30: 29-35)。肺癌症例で中心型(肺門型)/末梢型の別を認識することが欠かせないのも、改めて述べる必要はないだろう。もっともこれは肺癌取扱い規約にきちんと定義されているわけではなく、区域気管支を含む中枢気管支に発生したもの(酒井文和編著 新版すぐ身につく胸部CT 秀潤社 2002)と述べるものや、腫瘍の中心部が肺門構造内に位置しているものと説明する記載など、やや曖昧な使われ方をしている。ちなみに、 内視鏡的早期癌については従来の気管支鏡の可視範囲である亜区域支までに限局するものとされ、慢性血栓塞栓性肺高血圧においても同様に、肺葉動脈から区域動脈に閉塞がみられる中枢型と、区域動脈より末梢の小動脈の閉塞が主体である末梢型に分けられる(肺血栓塞栓症および深部静脈血栓症の診断、治療、予防に関するガイドライン(2009年改訂版)、日本循環器学会ホームページ)。ただし、これらの分類や肺区域の略号(S1、S2…)には欧米で通用しないものもあり、英語論文を執筆するような場合には注意が必要だ。

気管支は末梢になるほど内腔が狭くなり、それにつれて気道抵抗も増大するように感じられる。たしかに個々の気管支が対象なら真だろうが、集合体としてみれば気道抵抗が最大になるのは区域気管支の付近だ。各気管支・細気管支レベルの総断面積はむしろ末梢ほど増加するためであり、とくに第16分岐にあたる終末細気管支から第17-19分岐の呼吸細気管支にかけての広がりが顕著であることから、吸入気の流速はこの近辺で低下する。よって経気道的に侵入した粉塵は、線毛もみられなくなるこの領域とその周囲の肺胞腔内に停留し、病変を生じるにいたることが多い。細気管支の直径は1~0.5mm程度だが、内径2mm以下の気管支をとくにSmall airwayと呼ぶ理由の一つはここにある。周知のように、ここまで到達して人体に影響を与えうる粒子の多くは10μm以下で、径が数十μmのものは鼻腔で捕捉されたり気管や太い気管支壁に付着して逆送される。また、ガス交換は呼吸細気管支以下で行われることを踏まえれば、Carinaから0.7mm径の気管支の容量71mLに門歯からCarinaまでの容量80mLを加えたものがほぼ解剖学的死腔に相当することも、これ以上の説明を要しないだろう(Fraser and Pare’s Diagnosis of Diseases of the Chest 4th ed. Saunders 1999)。

ここに断片的に書きつらねたものは、本来含むべき内容を網羅しているといえるものではない。けれども、この仕事を続けているかぎり、臨床的な疑問を何一つ抱えずにいるということはないはずだ。だから折に触れて図譜をひらき、学びなおす。そうすれば靄のかかった世界をとおり抜けてそれまでとは異なる境地に達することだってあるかもしれない。否、そこに新たな発見などなくても構わないのだ。色あせた古いノートを手にとれば、あらゆる知識を吸収しようと格闘していた頃の記憶がよみがえり、しばし逍遥しつつ安逸をむさぼることができる。それで充分ではないだろうか。 (2011.12.19)