やっせんBO医

日本の教科書に記載されていない事項を中心にした個人的見解ですが、環境に恵まれず孤独に研鑽に励んでいる方に。

抗生剤治療で悪化する感染症

2010年05月24日 05時06分40秒 | 感染症
臨床医は医学理論を背景に持っているとはいっても、経験から多くを学ぶという点においては他の職業に異ならない。そしてセオリー通りの順調な経過をたどらなかった症例のほうがより心の奥底に沈潜し、月日の経過の中で発酵し、知識に深みを与えることになる。とりわけ、感染症にまつわるものは数が多いだけに、各人それぞれが忘れえぬ記憶を有しているはずだ。日ごろから起炎菌の同定に気を配ってはいても、保険診療下では網羅的に検査することも許されず、結果、empiric therapyばかりの有様に、やむを得ないと自らを慰めることもしばしばである。けれども、その薬剤が最善であると確信できない部分がどこかにある限り、想定外の現実を前にあれやこれやの不安が交錯し、悶々と日々を過ごすことにもなるのだ。

抗菌薬治療中に思いがけない反応を起こすとすれば、アナフィラキシーや薬疹などアレルギーを介したものがその代表だろう。ともすれば意図的に“薬害”などと呼ばれ、薬の側にのみ原因があるかのように喧伝されるのだが、もちろん患者の側の要因も無視できるものではない。また、伝染性単核症のような疾患がペニシリンによる発疹の頻度に影響することも知られている。さらに、バンコマイシンなど抗MRSA薬でみられるred man症候群はあたかもアレルギーのように見えるけれども、急速な経静脈投与でヒスタミンが遊離するために生じるもので、主に上胸部、顔面の紅潮が生じ、まれにショック状態にさえ至る。一方、セフェム系薬剤はアセトアルデヒド脱水酵素を阻害し、蓄積したアルデヒドによってアンタビュース様反応を呈することがあり、アルコール摂取後に不快感、皮膚紅潮、頭痛、頻脈などを起こすという。

では、肺炎症例で抗生剤治療を開始したにも関わらず、肺野陰影が悪化ないし新たに出現し、発熱も持続しているような場合はどうだろう。通常は初期治療失敗例と判断し、抗菌薬選択の妥当性や、あるいはそもそもそれが感染症であったのかという診断を見直すことになるはずだ(Int J Antimicrob Agents 2009; 34 suppl 3: S14-S19)。これについては日本の成人市中肺炎診療ガイドライン(日本呼吸器学会編、2007年)でも一章を割いて説明されている。けれども、臨床的には悪化しているように見えても、じつは微生物学的には有効、つまり適切な抗菌薬により菌量はすでに減少しているという可能性はないだろうか。

一見、臨床医学的な常識に反すると感じられるかもしれないが、たとえば結核症治療における初期悪化現象(paradoxical reaction)をその一例として挙げることができる。典型的には抗結核薬開始2か月前後で臨床的、画像的に病態の悪化ないし新規病変の出現を認め、発熱、肺浸潤、低酸素血症、リンパ節腫大がみられる(Eur J Clin Microbiol Infect Dis 2002; 21: 803-809)。化学療法を引き金として、死菌から抗原が放出されることや、抑制されていた免疫が束縛を解かれることにより、免疫反応が亢進するのが原因とされており、ステロイドが有効なことが多い(Clin Infect Dis 2008; 47: e83-e85)。また、近頃では投与されていた免疫抑制剤を中止したり、あるいはAIDS患者でHAART(highly active antiretroviral therapy)など強力な抗レトロウイルス治療を行うことで、再構築された免疫機能が過剰に働く結果、結核やニューモシスチスなどの感染症症状を発現・悪化させる免疫再構築症候群(immune reconstitution syndrome)が多くの研究者の興味を惹いているようだ(Clin Infect Dis 2007; 45: 1470-1475)。

さらに学生時代のかすかな記憶をたどってみればJarisch-Herxheimer反応もまさにそうである。これは当初梅毒治療に伴って見出されたもので、その後スピロヘータでも知られるようになり、しばしば致命的にもなりうるものだ(Med Clin N Am 2006; 90: 1265-1277)。この反応にはTNFをはじめとするサイトカインが強く関与しているとされ(J Antimicrob Chemother 1998; 41 suppl A: 25-29)、抗TNF-α療法の有用性も報告されている(N Engl J Med 1996; 335: 311-315)。それだけならどうということもないのだが、ここにあえて取り上げたのは、同様の反応がその他の一般細菌でも起こりうることが示唆されており、敗血症のサイトカイン動態のモデルともされているためである。すなわち、抗生剤治療により、グラム陰性菌の細胞壁からエンドトキシンとしてLPS(lipopolysaccharide)、グラム陽性菌からもlipoteichoic acidsをはじめとする多種多様な物質が大量に放出され、これらが自然免疫(innate immune response)を刺激する結果、産生された種々の炎症性メディエーターやTNF-αなどのサイトカインが病態や予後の悪化に関与していることが示唆されている(FEMS Immunol Med Microbiol 2005; 44: 1-16)。しかも意外なことに、TNF-αやIL-1βなどのサイトカインには細菌の増殖を促進させる作用があるとの報告もある(Crit Care 2002; 6: 24-29)。

これらの成果を踏まえると、病原菌を排除しようとする従来の治療法とは別に、微生物に対する反応プロセスも重症感染症に対する治療戦略のターゲットになりうるのではないかと考えるのはごく自然な成り行きだろう。その一連の反応のもっとも上流に位置する、エンドトキシン放出作用が抗菌薬ごとに異なることに注目した研究があるがその効果は明らかでなく(Crit Care Med 2002; 30: 349-354)、より下流のサイトカインなどを直接制御する試みのほうが精力的に行われている。残念ながら、やはり明確な有用性を示したものはほとんどなく(Br J Anaesth 2009; 103: 70-81)、もっとも多くの検討がなされているステロイドにしても、現時点で感染症に対する有効性が確立しているのはニューモシスチス肺炎と結核性髄膜炎くらいで、敗血症に対するステロイド大量療法の有効性は否定され、low dose steroidに注目が移っている状況だ(Mandell, Douglas and Bennett’s Principles and Practice of Infectious Diseases 7th ed. Churchill Livingstone 2009年)。おそらく、immunomodulatorとして使用する薬剤の種類のみならず、その組み合わせや投与量、さらにタイミングなど複雑な条件がそれらの結果を左右しているのだろう。成人市中肺炎診療ガイドライン(日本呼吸器学会編 2007年)では重症肺炎に対するステロイドが有効である可能性について記載しているものの、そのエビデンスは薄弱であるといわざるを得ない。報告が散見されるPMX-DHPなどの血液浄化法についてもさらに多数例での検討が必要である(ICUとCCU 2009; 33: 135-140)。

フレミングに始まる抗微生物療法の歴史は近代医学のなかでもひときわ華やかで、多くの成功に彩られている。しかしながら、いまなお人類が感染症を克服しているとは言いがたく、活発な研究が続けられている分野だ。今後とも抗微生物薬を開発し続けないわけにはいかないだろうが、それではたして最終的な勝利がもたらされる日がくるのか、不安を感じずにはいられない。一臨床医としては、医学の将来に思いをめぐらしつつも、眼前の仕事に没入するのみである。 (2010. 5. 24)

国と企業と臨床医

2010年05月10日 05時21分37秒 | 医学・医療総論
外科医が細心の注意をもってメスをふるうように、内科医は薬の使い方にとくに意を用い、それまで培ってきた経験や知識のすべてをそこに込める。それは単に既成のガイドラインをよりどころとしたものではなく、個々のケースで解き難く絡みあう病態はもちろん、患者の希望やその他もろもろを心に留めながら、いくつかの選択肢とそれに伴うリスク/ベネフィットを比較したものになるだろう。これこそが生命科学者や薬剤師などと一線を画する臨床医の専門性というべきもので、プロとしての自覚が生まれる源泉であるに違いない。そして、このことは安全性に対する特段の配慮が要求されるべき新規作用機序をもつ薬剤の場合にはとりわけ重要になるはずだ。ところが、このところ上市されてくる薬をみると、副作用被害を最小限に抑えるのに有効どころか、現場の医師の手足を縛るのみで、患者のためにもならない方策を押し付けてくるものが少なくないのである。

たとえばつい最近承認を取得したアフィニトールでは治験で間質性肺疾患(ILD)が11.7%という高頻度でみられたことから、8週ごとに胸部CTを行うことが求められる(ノバルティスファーマ ホームページによる)。これを考えた人間の頭の中はわからないが、おそらく、CTを定期的にチェックすればたとえILDを発現しても早期に発見し、重篤化を避けることができる、という思惑があるはずである。一見もっともらしく思えるけれども、果たしてこれで期待した安全性を確保できるだろうか。

このような一種のスクリーニング検査が有効であるために必要ないくつかの条件がある(今日の疫学 第2版、医学書院、2005年)。まず、症状が発現する前にILDを発見できなければならないだろう。けれどもそのような例はごく一部である。アフィニトールの治験(n=274)でも32例のILDが見出されているが、うちグレード1(画像で有所見だが無症状)であったのは8例で、治験参加者全体の2.9%に過ぎなかった。しかもCTは各人複数回行っているので、1回の検査で指摘される率はさらに少ない。すなわち、無症状の人を対象にするということは、検査前確率(対象集団での有病率)が非常に低いことを意味する。言い換えれば、ごく少数の患者を見つけるために、結果的ではあれ必要性のない圧倒的多数を検査しなければならないのだ。殊に、予後不良のILDを発見しようというのが目的であれば、そのようなものは進行が速い傾向にあり、8週のインターバルで捕捉するのはすこぶるむつかしいだろう。

そしてさらにやっかいなのは、有所見者イコールILDとは言えないことだ。検査後確率(あるいは陽性適中率)は検査前確率と検査の特異度に大きく依存することを思い出してもらいたい(臨床疫学 第2版、メディカル・サイエンス・インターナショナル、2006年)。つまり、いかに特異度が高い検査であろうとも100%でない以上、検査前確率が低い場合、検査後に“発見”された症例の多くは偽陽性となる。そして、胸部単純X線に比べればCTの感度は非常に良好であるとはいえ(Lancet 1999; 354: 99-105)、その特異度はそれほど高いものではない。たとえばCTによる肺癌検診で指摘された病変のうち実際に肺癌であったのはわずか2~3%にすぎない(肺癌 2007; 47: 769-776)。ILDにしても、画像のみで正確に診断するのは至難で、だからこそ現在のガイドラインでは臨床所見、病理所見をも総合した判断が重視されているのである(日本呼吸器学会編、特発性間質性肺炎 診断と治療のてびき、2004年)。とくにHRCTを行えばしばしばILD様の陰影がみつかることが知られているが、その臨床的意義は未だ明らかでない(Eur Radiol 2006; 16: 771-780)。腹部と一連でスキャンされた胸部CTが呼気位のまま撮影されてしまうと、含気不良が原因のすりガラス影があたかもILDのように見えることさえある。CTでILD様陰影が認められたからといって、ただちに真のILDとみなすわけにはいかないのだ。

そこで、診断を確定させるために気管支鏡や外科的肺生検など侵襲的検査が行われるとすれば、その負担はもちろん合併症のリスクも無視できない。一方で、本来その薬物治療の恩恵を受けるはずだった患者が、実はILDでないのに治療を中止されてしまうこともあり得る。検査の陽性適中率が100%でなければ必然的に一定の頻度でこのような例がみられるはずである。

しかし、非常に低い確率であったとしても、真の薬剤性肺障害を早期に発見すれば、予後を改善できるかもしれない、という仮説は捨てがたい魅力をもつのは確かである。残念ながらこのことを直接検証した臨床試験はなく、傍証から考察するしかないが、早期発見の意義がもっとも重視され精力的に調べられているのは、やはり癌検診だろう。そして、胸部X線写真と喀痰細胞診を用いた肺癌集団検診により早期肺癌の発見比率は向上するものの、それが死亡抑制につながるかについては検証中で、現時点では行うよう勧めるだけの根拠が明確でないとされている(日本肺癌学会編、EBMの手法による肺癌診療ガイドライン、2005年版)。肺癌術後の定期的な胸部CTにしてもその意義が証明されていないのが実情だ(肺癌 2007; 47: 239-244)。一方で、薬剤性肺障害が無症状の段階で発見され、ただちに薬剤を中止しステロイドパルス療法を行ったにも関わらず、進行し死亡したタルセバ症例も企業パンフレットで以前紹介されていた。このように現時点では、無症状の段階でILDを発見することの意義はまったく不明であるといわざるを得ない。そして奇妙なことに、アフィニトールの場合にはグレード1のILDなら投与継続、症状が出現するグレード2では休薬(中止ではない)を指示される。症状発現時のCT撮影のみでも対応は何ら変わりがないのだ。

以上述べてきたように、検査医学や診断学の立場からは、日常診療において自覚症状などの徴候がない患者に対し、スクリーニング的な検査を行うことは薦められない。有症状時にただちに適切な検査を行うことのほうがはるかに重要である。したがって、医学の常識に反し患者の安全に寄与するかもわからず、むしろ有害でさえあるかもしれない定期的なCT検査を、その添付文書に明記し臨床現場に遵守を迫るなどというのは、いかなる意味でも正当化しえない。だからこそかえって、製薬企業や厚労省が安全対策を徹底しているとアピールしてみせるだけの、いわば保身の意味しかないように見えてしまうのだ。イレッサ訴訟もようやく年内に解決の見込みだという。この件ではよほど責められているのだろうと同情はするが、臨床試験なみに多くの検査をさせておけば非難されずに済むとでもいうのだろうか。むしろ、“人間は世の中の事象を管理できる、あるいは管理すべきだ”という現代日本に根深く浸透している思想が存在する限り、犠牲者が出るたびにそれを管理できたはずの誰かが責任を追及されることはなくならないだろう(養老孟司、人間科学、筑摩書房、2002年)。つまらぬ方策のために医療のあるべき姿がゆがめられることのないよう祈るばかりである。

そして、医師自身にその責任の一端があることを素直に認めなければならないのだが、ここで透けて見えてくるのは、医師の能力を疑い、はなから頼りにならぬと見限った国や企業の態度である。でなければ、レシピ本のごとき手取り足取りの添付文書を作ろうとするはずもないだろう。しかも法的拘束力をもつそれは料理本とは決定的に異なり、一切の逸脱を許さない。結果、素直に従えばそこそこの味加減を約束するものの、誰もが満足するとは限らないものとなった。そして、この事情は何も医師ヒエラルキーの末端ばかりではなく、世間でKey opinion leader (KOL)と呼ばれる医師たちも例外ではない。数年前にある大手製薬企業のトップが記者に国内の大学・研究機関と手を組まない理由を訊かれた時の返事は象徴的であった。曰く、「日本には小魚しかいないからだ」。慇懃無礼なMR氏が、医局を一歩出たとたんにペロリと舌を出しているのが目に浮かぶ。陸続と上市される、特に分子標的薬と呼ばれるものは万人にその有効性が保証されているとは限らず、リスク管理が不可欠なものが多い。医師の役割はますます高まっているはずである。企業や国が保身にのみ汲々とし患者の利益に無関心であるとすれば、真に患者に寄り添うことができるのは臨床医しかいないではないか。このことを今一度心すべきだと思う。 (2010.5.10)