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イスコ・モレノ (マニラ市 副市長 )

2011年01月15日 | 政治界
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マニラ市 副市長 イスコ・モレノ
FRANCISCO "ISKO MORENO" DOMAGOSO



イスコ・モレノの人生は、『成功』と『勝利』人です。

彼は、私達に貧乏と剥奪が成功への障害物ではない事を教えてくれます。



彼は、トンドの不況地域で1974年10月24日に誕生して、
最も恵まれない殆ど見捨てられた都市の一部で若い人生をスタートしました。



母親の名は、ホアキン(Joaquin) 、父親の名は、ロサリオ・ドゥマゴソ(Rosario Domagoso)と言い、唯一の子供が彼でした。
父親はマニラの北港で荷役人夫として働いていましたが、その生活はとでも貧しいものでした。

貧乏のため、彼は、おもちゃ、新しい靴、および衣服と、普通の子供が望む
喜びや贅沢は、彼にはほど遠い物でした。

彼は家族を護るために、早くから社会や経済と立ち向かいました。



彼は4年生の時から小学校を卒業するまで、古新聞、プラスチック、
カートンボックス(段ボール箱)、ペットボトルや空き缶と、再利用が
できるがらくたを集めては販売して家族の生活費を手伝いました。

多くは、皆さんご存知のマニカちゃんが居た、マニラ市トンド地区の
スモーキー・マウンテンと呼ばれるゴミ捨て山が彼の仕事場でした。
この時期の彼の収入は1日80円程度です。

私のパートナーのデラ・クルスも、キワニスなどの団体から支援に行った時に、ゴミ山でよく彼を見かけたそうです。
顔立ちの良い、場違いな感じの男の子だから気に留めていたそうです。



彼は教育を受けるために、トンド高校へ通いましたが、芽を出し始めるティーンエイジャーの時期に彼は、ぺディ・キャブという、人を運ぶサイドカー付きの自転車を漕いで生活を支えました。
この頃で1日の収入が100円程度です。

高校生の時も、彼は細々と生計を立てる為に忙しかったので、思春期の子供を成長させるパーティや遠出やスポーツなどを楽しむことが出来ずに10代を過ごしました。



高校卒業と同時に推薦入学で船舶エンジニアリングとして、ドルを稼ぎ貧乏から脱する事を目指して、海上大学に入学しました。

1992年、海上協会【PMI】(Philippine Maritime Institute)で登録されると、
彼の運命が急激に変わりました。

トンドのゴミ山で、スターメーカーの「ウォウィー・ロハス」(Wowie Roxas)が
この威勢がいい若者を見つけました。   スター誕生です。

ジェルマン・モレノ(German Moreno)のバラエティショーに出演してから、

煌めく魅力的な若者は、スクリーン名『 イスコ・モレノ 』と賛辞されました。



銀幕の栄光にも関らず、イスコ・モレノは決して夢の目標を失わなかった。

1998年に、彼が育ったトンド地区の悲しい状態を緩和させるべく、
彼は政治に生きる事を望みました。

若く新しい政治家であるにもかかわらず、評議員に選ばれてたくさんの
政治評論家を驚かせました。

2001年には、彼はマニラ6区のどの評議員よりも多い票を得て再選され

3期の評議員を常に1位で当選し続けました。



彼は、貧しいものに権利が無い、真実と正義の無い基本政策に憤りを感じ、
人々に奉仕することを誓約した事を貫こうとして、政治的な成功にも拘らず
悩み、そして求め続けました。


前のマニラ副市長の、ダニー・ラクナ(Danny Lacuna)の助けを通じて、市議会と彼の公務イニシアチブによって要求された重い作業負担にも関らず、彼は、僅かな休息時間を国際労働者同盟経営学会と経済学を学びました。

そして彼は行政学の大学、フィリピン大学のNCLRGでローカルな立法と財政のコースをも学びました。

彼が一番心を痛めていたことは、特に、貧しいものたちの医学と健康のことでした。



〔BOTIKA NI ISKO〕
〔イスコの薬屋〕




副市長は、色白の、ホントよか男。しかも凄いパワーを感じます。
まるで、そのまま大統領になれそうな勢いです。




多くはイスコ・モレノの伝記から知られることができます。

1、貧乏をあなたの夢の実現への障害にしないで下さい。
   Don’t let poverty be a hindrance to the fulfillment of your dreams.

2、教育をあなたの成功へのあなたのキーにしなさい。
   Make education your key to your success.


★ ★ ★ ★ ★



去年の8月23日、キリノスタンドでバスジャックがあり、香港の観光客を人質にし殺害された事件の対策本部の責任者として、マニラ市長のアルフレド・リムさんと彼の責任を問われる問題がありました。

このブログ記事は、その少し前から準備していたのですが投稿は控えていました。

そして問題の両者とも、しこりを残したままの解決となりました。

下の動画は、その人質事件の様子です。



痛々しい事件でしたけど、この事件と、市長さんたちのスキャンダルはよく判りませんので、勝手な解釈は控えますが、リム市長は中国系の人であり、イスコ副市長は中国人グループが彼の後援をしていますから、中国人が人質にあっているのを放って置いてコーヒーショップ等でエンジョイしていたという事は有り得ません。

対策本部から少しの時間、出掛ける事もありましょうし、コーヒーを飲む事くらいはあっても可笑しくはないと思います。

まあ、今の自分はお手伝いも出来ず見守っているだけでした。

その間も、副市長は私を捜しておられたようです。


★ ★ ★ ★ ★



この事件の前に、何度か私はマニラ市役所の彼のオフィスに行きました。
人を通じてですが、副市長から指定された時間にです。

彼は凄く忙しくてまだ見えて無いと言うのを2時間待って、疲れたから帰りました。
待つのは良いのですが急かせたくもないですから。

最後に行ってお会いした時は、評議委員の人たちが集まっておられて、また時間が掛かりそうなので、「帰ります」と職員から伝えてもらうと、順番を繰り上げて評議委員達の居られる中を通されました。

挨拶と少しお話をしましたけど、彼は、「いつも待たせて悪いね。日を改めて、どこかで食事をしようよ。」と言われました。


さて、どうしたものか...
マビニ辺りでないと、市の緊急事態に駆けつけられないからと、どこか良いレストランを探しました。
その日は、「海舟」と言う日本レストランにも予約をしました。

いや、探さなければいけなかったのは、食事をする場所ではなく、食事代でした...

当日の夕方、副市長から連絡があり場所を指定されました。

「カフェ・アドリアティコ」です。 喫茶店でした。


先に着いた私と同行してくれた友達は中に入り、店員に尋ねました。
「副市長はよく来られるの?」
時々来られるようでしたから、副市長がいつも食べてる品を注文予約して待っていました。

私達が外に出て待っていると、1時間ほど遅れて彼が来ました。

弁護士と一緒に来られて、外のテーブルの私の横に座られ、

「ソーリー、ソーリー」と言われました。

私は、「バイス、ビシー カァノォ。」
    (副市長、忙しいねぇ。)

副市長は、
「おーおー、〇〇、いそがしいぇ~。 ごめんねぇ~」
(〇〇は、私のニックネームです)

「ハラ? マロノン カ パラ ニホンゴ?」
(あれ?日本語が出来るんだ?)

「すこしだけねぇ」


驚いた...  ほんとに勉強家です...



さて、お会いしてからの話は、彼が持ってるファンデーション(ボランティアの財団)と、私のファンデーション(日比交流のお友達会)と、パートナーシップを結び、日本人グループとの交流を図りたいと言う副市長の希望と、私の、もし日本人に何かあれば、副市長に気軽に相談が出来る様にして欲しい、と言う願い事が主題でした。

「それじゃあ、パートナーシップの書類作成はこの人に任せなさい。」

と紹介して頂いた弁護士がこの方です。


市役所(庁舎)の顧問弁護士です。

副市長と“アドリアティコ・カフェ”の外のテーブルでお話をしてると、一人の女性が店の中から出て来て副市長に近付き話しかけました。

タガログ(フィリピン語)ですが、

「先に帰ってるよ。」
「ああ、お前、来てたのか?」
「うん、ちょっとボランティアの人と話してた。」
「そうか。 僕は少し遅くなるからね。」

と言う内容ですが、副市長の奥さんでした。

友達が紹介してくれました。

綺麗な人ですけど、副市長の奥さんとは思えない様な
極普通の格好で何処にでも行かれる。
貧しい人達の手助けをしようとする人間は、
綺麗な格好をしていてはダメだそうです。


それが副市長と奥さんの普段の姿。

副市長は、俳優時代にはブリーフ姿のポスターがマニラ中に出た事もあります。

生きて行くには仕方が無いと云う。


2002年でしたか、カウンセラーに立候補した時に
副市長が演説をした言葉の中に素敵な文句があります。

私はゴミ拾い人間です。
ゴミを何処に捨てるかは、私が決める。
私はゴミにはならない。


そしてこの日、彼が私に言った言葉、

「おーおー、〇〇、いそがしいぇ~。 ごめんねぇ~」

彼は学ぶ事を忘れず、暇があればボランテイアをしたり、
病気の人にも気を掛ける。
ゴミ山の出身で成功したにもかかわらず、
人々の生活の安定を求め、医療の充実を図り、
将来は大統領を目指す若者。

私は、この副市長「イスコ・モレノ」が大好きです。
私の家内も彼の大ファンです。

だって、すっごい好い男ですから~


この日の夜を記念して、
アドリアティコ。カフェの前を通り掛った消防車の写真を載せて置きます。








タガログですが、議員立候補時のスピーチです。





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