先週、日本に居る仲間からこんなメールと2つの〔YouTube〕のリンク・アドレスが届きました。
『世界のハリマオに成って下さい。
で、ハリマオってどんな意味?』
そして〔YouTube〕は、快傑ハリマオの歌でした。
三橋美智也が歌った懐かしい曲です。
私が小学校に通い始めた頃でした。
もう一つはこれです。
「ハリマオ」とは、マレー語で「虎」のことだそうです。
「マレーの虎」と呼ばれた、谷豊がモデルのテレビ映画です。
「マレーの虎」と呼ばれたのはもう一人います。
フィリピンでは「山下財宝」で有名な日本軍人
山下奉文将軍です。
・山下将軍の山下財宝はM資金と併せて、またの機会に改めてご紹介します。
そして、
「ハリマオ」とは、フィリピン語で「獣」のことです。
【HALIMAW】と書いて「ハリマオ」と読みます。
この「獣」は、(ケダモノ、怪獣、野獣)の事で、動物とは限りません。
聖書に出てくる、悪魔の部類で、ルシファーやサタンもそうでしょう。
「虎」などの動物は、【HAYOP】で、「ハイオップ」「ハヨップ」です。
女性が襲われたり殺されそうになった時等、理不尽な場面でよく使う、
「ハヨップ カ!」【HAYOP KA!】は、「お前は、けだものか!」ですが、
日本語のニュアンスで言えば、
「ハリマオ」は、けだもの。
「ハヨップ」は、けもの。
理解できますか?
いえ、私が説明した事じゃあなくて、
仲間が私に言った言葉です。
今日から私が世界の獣です。
げ~!!??
私が播磨の生まれだったら「播磨王」でも良いけど...
「針魔王」じゃ、閻魔さんだし...
♪「嘘ついたら針千本の~ます!」フン、フン!
※時に、仲間と言うのは「草の根神霊探偵団」です。
と私が言ってるだけで、本当は、
「草の根ネットワーク」だそうです。
「くさいのね~。」
やっぱ、あたしゃ「獣」だわね。
レインボウマンに成りたかったのに...
≪Wikiからの抜粋≫
『快傑ハリマオ』(かいけつハリマオ)は、1960年4月5日 - 1961年6月27日まで日本テレビ系ほかで放送されていた日本のテレビ映画である。
抑圧される東南アジア(第4部を除く)の人々を解放すべく、正義の使者ハリマオが活躍する。森下仁丹の一社提供番組で、夕食を終えた一家が仁丹を飲んで快傑ハリマオを楽しむというカウキャッチャーCMが放送されていた。
制作は宣弘社で5部構成の全65話。太平洋戦争直前前後にマレー半島で日本軍に協力したマレーの虎と言われた谷豊をモデルに山田克郎の『魔の城』を原作として制作された。第2部以降のオープニングに「ハリマオとは? マレー語で 虎のことである」というテロップが表示された。
第1話 - 5話のみ試験的にカラーで制作された、日本初のカラーテレビ映画でもある(ただし、当時カラー受像機自体が市販される以前で、カラーで見た視聴者がいたかどうかは不明)。また、カンボジアのアンコールワットでロケを行い日本のテレビ史上初の海外ロケとなった。だが、現地の人に誤解され軍に拘束されかけたのを、偶然に日本語を話す人がいて事なきをえたという。
タイトルの「快傑」は怪傑からの造語で、後に『快傑ライオン丸』『快傑ズバット』などにも用いられた。
ハリマオ
ジャカルタやマレーなどの南洋諸国(第1 - 3部および第5部)や、中国大陸(満州と思われる、第4部)で活躍する正義の人。頭を白いターバンで巻き、黒いサングラスをかけた姿で部下と共に颯爽と登場する。武器は拳銃で、馬で移動する。正体は日本の元軍人と思われるが……。
谷 豊(たに ゆたか、1911年11月6日 - 1942年3月17日)は、昭和初期にマレー半島で活動した盗賊。現在の福岡県福岡市南区出身で、マレーシアに渡った後に盗賊となりハリマオとして一躍知られる存在となった。その後、日本陸軍の諜報員となって活動する。
谷豊の生涯
マレーシアに育つ
谷豊は理髪店を営む父・谷浦吉の長男として生まれた。豊が生まれてまもなく、一家はマレーシアトレンガヌ州に移住した。これ以来、豊は日本人ながらマレーシアの文化に親しんで育つことになる。
「教育は日本で受けさせたい」という親の意向もあり、1916年学齢期にはいったん帰国(祖父母の家に滞在)し、福岡市立曰佐小学校に入学するものの、1924年、再びマレーシアへ戻り、マレー人の友人たちとともに青春を過ごした。当時の豊は親分肌で皆に慕われていたらしい。なおマレーシア文化の影響をうけ、1930年ころイスラム教に帰依している。
転機
徴兵検査不合格
1931年、二十歳になったとき、徴兵検査を受けるため再び帰国。しかしムスリムの豊にとっては天皇を現人神として絶対視する当時(昭和初期)の日本軍の思想と相容れず、そのために不合格となる。軍隊入りがかなわなかったことは、マレーシア文化のもとに育ちながらも日本人としての意識を強烈に持ち(ある意味、当時の日本人青年としては当然ではあるが)、祖国の役に立つことを夢見ていた豊にとってかなりのショックだったらしい。その後、日本ゴム工場に勤務した。
妹の惨殺
同じ頃マレーシアでは、満州事変に対して在マレーの華僑たちが排日暴動を起こしていた。そのさなかの1932年11月にマレーシアの谷家(店舗兼住居)も破壊され、さらにたまたま寝込んでいた豊の妹シズコが暴徒に斬首され殺されてしまう。しかも暴徒は妹の首を持ち去り、さらしものにまでしたともいう(なおこの首は隣家の歯科医が奪還し、遺体と縫い合わせている)。この事件により谷一家は日本へ引き揚げざるを得なくなった。
帰国した母親から事件のことを聞いた豊は激怒し、1934年7月、単身再びマレーシアへ向かった。
盗賊団を組織
再びマレーシアへ戻った豊はマレー人の友人たちと徒党を組み、華僑を主に襲う盗賊団となった。数年の間、マレー半島を転々としながら活動を続けていたようである。
諜報員となる
そんな中、太平洋戦争が始まる。開戦にあたり、まず日本陸軍はマレー半島攻略を第一目標とし、現地に精通した諜報員を欲していた。日本軍の現地工作を担当した特務機関・「F機関」は、日本人でありしかもマレー半島を股にかけて活動する豊らの盗賊団に目をつけ、これを1941年12月、諜報組織に引き込んだ。こうしたことの結果、マレー半島攻略は順調に進んでいった。
谷豊の最期
その後も豊は部下とともに諜報活動に従事していたが、そのさなかに感染したマラリアによりシンガポール(昭南)で31歳で死亡した。遺体は部下らが引き取り、イスラム式の葬礼をおこなったという。現地のどこに葬られたかは不明。
なお諜報員として働いていた豊は軍属ということで戦死あつかいされ、福岡の実家への戦死公報が届けられた。
英雄「ハリマオ」へ
日本軍としてはこの劇的な日本人諜報員・谷豊に戦意高揚のシンボルとしての役割をも見いだし、彼の死は新聞でも報道された。
また、豊は「マレーのハリマオ」または「ハリマン王(ハリマオの転訛)」などとよばれて大々的に宣伝され、映画なども作られた。ハリマオとはマレー語で「虎」を意味する。この名前は「豊のマレーでの通称『ハリマオ・マラユ』」に由来するとも、「豊らの盗賊団を諜報員にした際の作戦名『ハリマオ作戦』」に由来するとも言われているが、いずれにせよ豊が死後英雄視される中で広まった名前である。こうして伝説的な英雄「ハリマオ」の虚像が一人歩きをはじめた。
大戦中に作られたハリマオのイメージは根強く残り、戦後においても『怪傑ハリマオ』としてドラマ化され、それに便乗する形で漫画連載もされた。しかし戦争が過去の物となり、東亜での戦争行為について日本国内で批判的な見方が高まるにつれ、軍国主義のシンボルでもあった英雄「ハリマオ」は忘れ去られていったのである。
ふたたび「谷豊」へ
だが豊没後半世紀を経た20世紀末になって、ようやく一人の人間「谷豊」としての再評価がはじまっている。
豊が愛したマレーシアでも、1996年に初めて彼をテーマとしたドキュメント番組が組まれた。その番組のラストは次の言葉で締めくくられている。
“イギリス軍も日本軍も武器ではマレーシアの心を捉えられなかった。心を捉えたのは、マレーを愛した一人の日本人だった。”
≪~以上、Wikiからの抜粋≫
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