去年の12月29日から12月31日まで地球アゴラの撮影の為にバギオ(マニラから車で5時間)にいきました。
バギオとは高地にあることから年中冷涼な気候で、3月から5月にかけて大統領府などの政府機関が移転する場所で
このことからバギオは「サマーキャピタル」とも呼ばれ一年を通して最高気温が26℃を超えることはなく
絶好の避暑地となっています。
フィリピンに住む日本人の中ではフィリピンの軽井沢と呼ばれているそうです。
年末なのでたくさんの人が里帰りしていて町は混雑していましたし道路も凄い渋滞でした。
バギオと日本人の関りは非常に深いものがあります。
1901年フィリピンではバギオ開発計画が始まりましたが当初から道路建設で難渋したアメリカ人は
日本人の勤勉さに着目し、日本からの移民にその建設を託したそうです。
日本から総勢3000人という人がフィリピンに渡りこの工事に関わりました。
移民日本人は劣悪な労働条件のもと峻烈を極める自然と闘い多くの犠牲者(600人とも言われています)を出しながらようやく1903年に完成しました。
道路の名前は建設責任者の名前を取ってケノン道路と呼ばれているが現地では日本人が造った道路と認識されています。
この建設に従事した日本人の一部はフィリピン人と結婚するなどして現地に残りました。
彼らの中にはその勤勉さでもって事業に成功した人も多く、結果、現地の日本人の地位は次第に向上し、
第二次大戦が起こる以前の時代その繁栄はピークに至ったそうです。
しかし、現地の日本人らにとって我が世の春とも思われた繁栄は日本軍のフィリピン侵攻、植民地化、敗退を経て暗転しました。
侵攻、植民地化していく中での日本軍の残虐行為、また最終的に日本軍が敗走するに及び、
現地の村々を焼き払ったことへの怨念は凄まじく、日本人及びその子孫は現地人からの襲撃に晒されたそうです。
彼等は山奥に逃げ込んで常に生命の危険に怯えながら飲まず食わずの生活を強いられました。
その悲惨な生活は戦後なおも続き1972年に至って、シスター海野が命を張っての救出活動を始めるまで続きました。
シスター海野は1973年に北ルソン比日友交協会を設立、1974年奨学金制度を始めるなど日系人の地位向上に尽力したそうです。
一方ではフィリピン人を貧困から救うため1983年に農業協同組合を創設するなどフィリピン人の生活向上にも多大に尽力し、
バギオ市のあるベンゲット州から名誉州民の称号を贈られました。
1989年シスター海野が死去した後、その活動は私にこの話をしてくれたカルロス寺岡(日本大使館名誉領事)
・寺岡マリエの兄妹、尾辻ヨシの各人に引き継がれ今日に至っている。
バギオで彼らが辿った悲惨な過去に関わらず、その後の日系人社会の発展と現地のフィリピン人の生活向上に尽くてきたことで、
彼らは比日両国民から尊敬を集めています。
私にこの話をしてくれたカルロス寺岡名誉領事が戦後山に逃げ込んだときの話を目に涙を浮かべながら話してくれた事が忘れられません。
もう一つ忘れられないカルロス寺岡さんの言葉
「私の親はこのフィリピンでケノンロード建設という凄い事をやり遂げた一人で多くのフィリピン人に尊敬されていた。
私も含めてですが今の日本人にもう少し昔の日本人を見習ってもらいたい。」
私は考えさせられました。
バギオとは高地にあることから年中冷涼な気候で、3月から5月にかけて大統領府などの政府機関が移転する場所で
このことからバギオは「サマーキャピタル」とも呼ばれ一年を通して最高気温が26℃を超えることはなく
絶好の避暑地となっています。
フィリピンに住む日本人の中ではフィリピンの軽井沢と呼ばれているそうです。
年末なのでたくさんの人が里帰りしていて町は混雑していましたし道路も凄い渋滞でした。
バギオと日本人の関りは非常に深いものがあります。
1901年フィリピンではバギオ開発計画が始まりましたが当初から道路建設で難渋したアメリカ人は
日本人の勤勉さに着目し、日本からの移民にその建設を託したそうです。
日本から総勢3000人という人がフィリピンに渡りこの工事に関わりました。
移民日本人は劣悪な労働条件のもと峻烈を極める自然と闘い多くの犠牲者(600人とも言われています)を出しながらようやく1903年に完成しました。
道路の名前は建設責任者の名前を取ってケノン道路と呼ばれているが現地では日本人が造った道路と認識されています。
この建設に従事した日本人の一部はフィリピン人と結婚するなどして現地に残りました。
彼らの中にはその勤勉さでもって事業に成功した人も多く、結果、現地の日本人の地位は次第に向上し、
第二次大戦が起こる以前の時代その繁栄はピークに至ったそうです。
しかし、現地の日本人らにとって我が世の春とも思われた繁栄は日本軍のフィリピン侵攻、植民地化、敗退を経て暗転しました。
侵攻、植民地化していく中での日本軍の残虐行為、また最終的に日本軍が敗走するに及び、
現地の村々を焼き払ったことへの怨念は凄まじく、日本人及びその子孫は現地人からの襲撃に晒されたそうです。
彼等は山奥に逃げ込んで常に生命の危険に怯えながら飲まず食わずの生活を強いられました。
その悲惨な生活は戦後なおも続き1972年に至って、シスター海野が命を張っての救出活動を始めるまで続きました。
シスター海野は1973年に北ルソン比日友交協会を設立、1974年奨学金制度を始めるなど日系人の地位向上に尽力したそうです。
一方ではフィリピン人を貧困から救うため1983年に農業協同組合を創設するなどフィリピン人の生活向上にも多大に尽力し、
バギオ市のあるベンゲット州から名誉州民の称号を贈られました。
1989年シスター海野が死去した後、その活動は私にこの話をしてくれたカルロス寺岡(日本大使館名誉領事)
・寺岡マリエの兄妹、尾辻ヨシの各人に引き継がれ今日に至っている。
バギオで彼らが辿った悲惨な過去に関わらず、その後の日系人社会の発展と現地のフィリピン人の生活向上に尽くてきたことで、
彼らは比日両国民から尊敬を集めています。
私にこの話をしてくれたカルロス寺岡名誉領事が戦後山に逃げ込んだときの話を目に涙を浮かべながら話してくれた事が忘れられません。
もう一つ忘れられないカルロス寺岡さんの言葉
「私の親はこのフィリピンでケノンロード建設という凄い事をやり遂げた一人で多くのフィリピン人に尊敬されていた。
私も含めてですが今の日本人にもう少し昔の日本人を見習ってもらいたい。」
私は考えさせられました。
ある知り合い依頼で明日からバナウエに日本向け輸出用家具の下見と話し合いに行ってきます。
車でマニラから約10時間
考えるだけで辛い
でもバナウエは世界遺産になっていて私も何回か撮影(感染列島、いってQ)で行きましたが、
私はとても好きな場所です。
日本に輸出する家具はバナウエでできた物だけではなくセブからの家具もあります
これはセブの家具です。
信じられますか?あの有名なハリウッド俳優のブラッドピットも愛用している品です。
バナウエの家具は大体一枚木で作るテーブルなどでセブの家具はバナウエの家具より値段が高く高価です。
写真は明日行ってから撮りますので帰ってきてからどんな家具がバナウエで出来るのかお紹介致します。
でも10時間か・・・・
しんどいなー
でも仕方無いので明日バナウエに行ってきます
では帰って来たらまた更新しますお楽しみに
車でマニラから約10時間
考えるだけで辛い
でもバナウエは世界遺産になっていて私も何回か撮影(感染列島、いってQ)で行きましたが、
私はとても好きな場所です。
日本に輸出する家具はバナウエでできた物だけではなくセブからの家具もあります
これはセブの家具です。
信じられますか?あの有名なハリウッド俳優のブラッドピットも愛用している品です。
バナウエの家具は大体一枚木で作るテーブルなどでセブの家具はバナウエの家具より値段が高く高価です。
写真は明日行ってから撮りますので帰ってきてからどんな家具がバナウエで出来るのかお紹介致します。
でも10時間か・・・・
しんどいなー
でも仕方無いので明日バナウエに行ってきます
では帰って来たらまた更新しますお楽しみに
サンチャゴ要塞
サンチャゴ要塞とは、イントラムロス城内の北西の一角にあってパシッグ川に面し、スペイン、アメリカなどの
フィリピンの支配の根拠として、軍事的な役割を果たしてきた所でスペイン人が立てた中世風の要塞です
捕虜収容所や軍の司令部として使われ、第二字世界大戦中には日本軍の憲兵隊司令部にもなったそうです。
城門を入ると、独立の英雄ホセ・リサールに関する資料や文献が展示されたリサール記念館があります。
この写真はサンチャゴ要塞から見えるパシッグ川です。
水は奇麗ではありません
ゴミも沢山浮いています。
何をしているかわかりませんが、こんな人がいました。
虹色ジーンではいろんなところに行きました
自分でつくるオリジナルの靴やバッグの店やぬいぐるみの店あとはダンパマーケット(DAMPA)です。
場所パサイ市のマカパガル通りにあります。
新鮮な海の幸が並んでおり、買った新鮮な食材は隣のレストランでそのまま調理してくれます
さらに、予め行くレストランを決めておくとスタッフが一緒に買い物に行って食材の値段交渉をしてくれますよ。
市場にはこんなシーフードが売っています。
皆さんもフィリピンに来られることがあれば是非行ってみては如何でしょうか?
味はレストラン次第ですが美味しいレストランもいっぱいありますし、とにかく安かった。
サンチャゴ要塞とは、イントラムロス城内の北西の一角にあってパシッグ川に面し、スペイン、アメリカなどの
フィリピンの支配の根拠として、軍事的な役割を果たしてきた所でスペイン人が立てた中世風の要塞です
捕虜収容所や軍の司令部として使われ、第二字世界大戦中には日本軍の憲兵隊司令部にもなったそうです。
城門を入ると、独立の英雄ホセ・リサールに関する資料や文献が展示されたリサール記念館があります。
この写真はサンチャゴ要塞から見えるパシッグ川です。
水は奇麗ではありません
ゴミも沢山浮いています。
何をしているかわかりませんが、こんな人がいました。
虹色ジーンではいろんなところに行きました
自分でつくるオリジナルの靴やバッグの店やぬいぐるみの店あとはダンパマーケット(DAMPA)です。
場所パサイ市のマカパガル通りにあります。
新鮮な海の幸が並んでおり、買った新鮮な食材は隣のレストランでそのまま調理してくれます
さらに、予め行くレストランを決めておくとスタッフが一緒に買い物に行って食材の値段交渉をしてくれますよ。
市場にはこんなシーフードが売っています。
皆さんもフィリピンに来られることがあれば是非行ってみては如何でしょうか?
味はレストラン次第ですが美味しいレストランもいっぱいありますし、とにかく安かった。