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アジア協会アジア友の会の地域グループ *****JAFS松原ぞうすい(雑炊・贈水)の会*****

JAFS「松原ぞうすいの会」は、地域で活動するNGOグループです。アジアの村に衛生的な水(井戸)を贈る活動をしています。

予告!第63回松原ぞうすいの会 内モンゴル留学生は笑顔が素敵でシャイでキュートで、しかも勉強熱心!

2013年04月26日 | ぞうすいの会・ゲスト

主催:(公益)アジア協会アジア友の会(JAFS)松原
JAFSアジアの人々とともに・井戸を贈って33年

第63回JAFS松原 ぞうすい(雑炊・増水・贈水)の会
     ~安全な飲料水を届けよう~

日 時: 2013年5月26日(日)12:00~14:00

      雑炊つくり(11:00~)からの参加も大歓迎です!!

ゲスト: 金 晶晶さん (中国・内モンゴル)

      きん しょうしょう と読みます。

      「私の故郷~通遼~の紹介」

雑 炊: モンゴル雑炊

内モンゴルの東にある通遼出身の金晶晶さんは昨年8月に来日。
子どものころから日本アニメが大好きで宮崎駿の「となりのトトロ」などをみて
日本語に興味を持ち、次第に日本や日本文化への関心が深まり、内モンゴル
大学では日本語科へ進学。
現在大阪松原市にある阪南大学の交換留学生です。
日本へ来ることの夢は果たされました。
1年間の日本滞在です。日本へようこそ♪
内モンゴル大学4回生の若い世代の晶晶さんから見た、中国や内モンゴル、そし
て故郷 通遼の人々の暮らしなどをお聞きします。
また日本の茶道にも興味を持たれています。若い親善大使として、地域の人とも
交流し、もっともっと日本が好きになってもらいたいです。 松原へようこそ♪

定 員:30名 (申込み5月23日(木)まで)

参加費:700円 (JAFS会員500円)

会 場:松原市立福祉総合会館2階

    近鉄南大阪線「河内松原駅」下車 10分

協  賛:松原市ボランティア連絡会

☆お申込み・お問い合わせ☆

公益社団法人 アジア協会アジア友の会 松原地区

世話人 橋本末子 Tel/Fax 072-332-7097

又は、本部事務所  担当:青木 Tel 06-6444-0587/ Fax 06-6444-0581

 




熱田典子さんが語る・・・ネパールの人々の暮らし&NGO活動 第62回JAFS松原ぞうすいの会レポート①

2013年03月24日 | ぞうすいの会・ゲスト

第62回松原ぞうすいの会 

第5基目井戸はネパールへ寄贈
・・・水パイプラインの取水所になります!
ネパールの人々の暮らし&NGO活動

日 時: 2013年3月24日(日) 12:00~14:00
ゲスト: 熱田典子さん (JAFSスタッフ) 
      「ネパールの人々の生活とNGO活動」

JAFS松原ぞうすいの会は、発足15年を記念して第5基目の井戸をネパールに
贈りました。ネパールは山岳地帯では井戸を掘っても水は出ないので、水源地
からのパイプラインの取水所として贈ることになりました。

ゲストの熱田典子さんはネパール人と結婚され、ネパールの生活に深く根差し、
ネパールの架け橋となり、農村の生活改善、栄養改善、女性、子ども達の教育、
など様々な分野でJAFSスタッフとして活躍。今回はJAFS松原からの井戸寄贈
地のネパールに思いをはせながら、ネパールの文化や、人々の暮らしなどにつ
いてのお話を聞きました。

熱田さんのお話はわかりやすく、彼女のネパールの人たちを愛する思いにあふ
れていました。そして、さまざまな困難を抱えたこの国の人たちへの尊厳を忘れ
ず、ともに乗り越えながら自立支援を目指す姿勢に貫かれています。心の奥底
で燃え続ける情熱は、鮮やかで真っ赤なサリーの色のようでした。強さに裏打ち
された優しさ、いや優しさに裏打ちされた強さでしょうか。優しさと強さを兼ね持つ
JAFSスタッフの、ぶれない自立支援への信念が伝わってきました。

この少年が持っている水がめは、25キロにもなります。とても重いものです。
「生きる力」を日本では教育で教える必要があるといいますが、
ここネパール
では、当たり前の話として、「生きる力」は生活の
中にあります。彼らは日々
「生きる力」を身につけています。その力が無いと生きていけないからです。

確かに水汲みをする必要があるから学校に通うことが阻害さ
れている、とい
う面はあります。しかし、だからといって、この
水汲みの少年の姿を見て、「可
哀想だ」という見方だけはしな
いでください。

たくましく生きているこの少年への尊厳を持った熱田さんの視点は、すべての
支援にかかわる者にとって、とても大切
な出発点だと共感しました。
ここでは、すべてを紹介できませんが、熱田さんの話によって、なぜネパール
の開発には困難がともなうのか、なぜ女性の平均寿命が男性より低いという
数少ない国なのか、など考えさせられることも多い内容の深いレポートでした。

会場には老若男女、幼児から赤ちゃんまで参加してくれました。
サリーの着付けで大いに盛り上がり、ファッションショーみたいでしたよ。熱田さ
ん持参で着付けのサリー姿も少し紹介しましょう。

ナマステ!皆さん、素敵でしょ?
下の写真中央のお二人はネパール人父娘みたいでしょ?


ぜひ熱田さんとともに、パイプラインの村を訪れてみたいものです。
熱田さん、素敵なサリーと美味しいカレー、そして圧巻のネパール報告
どうも、ありがとうございました!

美味しいキーマカレーのお話は次回のブログで紹介しますね。レシピもご期待を。



予告!ネパール民族衣装のぞうすいや着付け体験も!第62回松原ぞうすいの会おしらせ

2013年03月18日 | ぞうすいの会・ゲスト

第62回松原ぞうすいの会 第5基目井戸ネパールへ寄贈

ネパールの人々の暮らし&NGO活動

日 時: 2013年3月24日(日) 12:00~14:00

      ※ 雑炊つくり(11:00~)からの参加も大歓迎です!

ゲスト: 熱田典子さん (JAFSスタッフ) 

      「ネパールの人々の生活とNGO活動」

雑 炊: ネパール雑炊 お楽しみに!

        雑炊には、幸南食糧(株)様のご協力をいただきました

        ネパール民族衣装、サリー 着付け体験ありますよ!!

JAFS松原[ぞうすいの会」は、発足15年を記念して第5基目の井戸をネパールに
贈ります。ゲストの熱田典子さんはネパール人と結婚され、ネパールの生活に深
く根差し、ネパールの架け橋となり、農村の生活改善、栄養改善、女性、子ども達
の教育、など様々な分野でJAFSスタッフとして活躍。今回はJAFS松原からの井
戸寄贈地のネパールに思いをはせながらネパールの文化や、人々の暮らしなど
についてのお話を聞きます。
サリーの着付け体験もお楽しみください。

定 員 : 30名 (申込み3月21日(木)まで)

参加費: 700円 (JAFS会員500円)

会 場 : 松原市立福祉総合会館2階

      近鉄南大阪線「河内松原駅」下車 10分

主 催 :(公社)アジア協会アジア友の会 JAFS松原

協 賛 : 松原市ボランティア連絡会

☆お申込み・お問い合わせ☆

  公益社団法人 アジア協会アジア友の会

  松原地区世話人 橋本末子 Tel/Fax 072-332-7097

  又は、本部事務所 (担当:青木) Tel 06-6444-0587/Fax 06-6444-0581

 


西田孝司さん 松原市の古道たち 長尾・竹内・中高野・下高野・住吉街道 第61回松原ぞうすいの会レポ②

2013年01月30日 | ぞうすいの会・ゲスト

第61回JAFS松原ぞうすいの会
松原の魅力再発見 ~ 歴史街道からマッキー

日 時: 2013年1月19日(土) 12:00~14:00
ゲスト:西田孝司氏 (松原市文化財保護審議会委員)
       「松原の魅力再発見 ~ 歴史街道から」
雑 炊: まつばら雑炊 
食材は 松原育ち‘まったら愛っ娘’& 合鴨スープ

上は松原市のマスコットキャラクター、マッキーです。可愛いですね。       

Think Globally,Act Locally~いつも世界の諸地域の文化紹介している松原ぞ
うすいの会ですが、今回は足元の地域を大切にすることで歴史街道をテーマとしました。

第61回は、大阪府松原市を走る古代の道ぞいに、歴史的な場所をめぐるお話でした。
松原市で一番、という事は世界で一番、この松原の歴史に詳しい西田孝司さん(松原
市文化財保護審議会委員)を講師にお招きしました。歴史ファンだけでなく、地元松原
市に興味のある人たちが集まりました。

参加者のアンケートから

・西田先生のお話が勉強になりました。
・とても楽しく有意義な会合で、今後ますますの発展を期待しています。(U)
・こんな機会があるのをはじめて知りました。また参加します。(S)
・楽しいひと時で時間があっという間に過ぎました。雑炊美味しかった、また参加します。(M)
・雑炊が大変美味しかったです。西田先生のお話は何度か聞いていますが良かった(K、H)
・深い話を聞かせてもらってよかった。(W)
・松原に住んで20年ですが、ワクワクして聞いていました。貴団体の取り組みも知りたい。(T)

始まる前に、道沿いに点在する地蔵道標、古道の交差点などの写真を8枚参加者にみ
てもらい、ここは松原市のどこだか分かりますか?のカルトクイズをしました。なんと参
加者30目の中にお一人、全部分かるという強者がおられました。きっと、自分の住まれ
ている、この町を大切に思っておられることでしょう。聞けば、松原市のマスコットキャラ
クター、マッキーの可愛らしい金太郎飴を作ることを提案されたのも、彼ということで納
得しました。

松原中央郵便局前の長尾街道碑      阿保神社のくすのき大木です

東西の長尾街道に南から斜めに住吉街道が交差するところ。地蔵道標です。大阪でも最古の部類です。

中高野街道(新堂から岡へ)と交差する斜めの道、住吉街道です。
北へ行くと、上の写真につながります。

最初に明治時代に作られた、この付近の地図がレジュメのなかにはさんであり、当時は
古道と集落とため池、川のみがくっきりと浮かび上がり、背景はすべて田んぼや畑であ
ることが分かりました。古の姿に近いその地図を見ながら、4つの古道の説明を受けま
した。4つの古道とは、東西に走る長尾街道(大津道)、竹内街道(丹比道)、南北に走る
中高野街道、下高野街道です。

そのあと、点在する歴史的なポイントの説明がありましたが、特に河内大塚山古墳につ
いては西田先生のご専門でもあり、被葬者をめぐる謎を解くヒントが語られました。全国
で第5位の巨大古墳で、作られた6世紀中ごろに限れば、全国で1番大きなこの古墳の
ミステリー。雄略天皇から安閑天皇、欽明天皇、そして西田先生によれば実は何らかの
事情で空墓になった巨大古墳で、では入るはずだった人は・・・など、興味尽きないお話
が繰り広げられました。

全国第5位の大きさを誇る河内大塚山古墳。    阿保茶屋の交差点です。長尾街道(東西)と
昭和のはじめまで、この中には村もお寺も神社も。 中高野街道(南北)の交差点で、今もにぎやか。

謎の満面の笑みの彫刻石は、仁徳天皇の第3皇子である反正天皇にちなんだもので、
彼の名、瑞歯別命(みずはわけのみこと)にちなんだもの。生まれつき丈夫で立派な歯の
持ち主だったという伝説から、この歯磨き面の歯の部分をなでると、歯や歯茎にご利益が
あるという事で、彼を祭神とする祠の前にこの彫刻が設置されました。
まだ遺構は発見されていませんが、このあたりに「柴籬宮」を反正天皇がおいたということ
が伝わっています。5世紀ごろ反正天皇が第18代天皇として即位した後、都を難波から
河内の丹比(たじひ)に移し丹比柴籬宮(たじひしばがきのみや)を造営しました。
この柴籬神社(しばがき神社)の南側にはかつての参道の松並木の、最後の一本が、名
残に立っているのが今でも確認できます。ここが「松原」の地名の発祥の地かもしれません。

なにげない生活道路のあちこちに、深い歴史があることを知らされました。
奥が深い松原の話はとめどなく続き、あっというまに100分が経ってしまいました。

参考に以下に、今回の松原市域の古道についての西田氏の過去の記事を松原市HPか
ら紹介しておきます。興味があれば、さらに松原市のHPから検索してみてください。

 ★ 松原市HP→文化・スポーツ→歴史→歴史ウォーク より抜粋

『広報松原』に「歴史ウォーク」西田孝司氏 連載中 2012年9月号でvol.182

11.大津道と丹比道の敷設

長尾街道(大津道)の道標
(上田1丁目の松原郵便局前)
大阪府が明治43年(1910年)に建てた

歴史の絵舞台を演出した直線古道

 河内の国名は、淀川の「川の内の方」という意味に由来するといわれています。
 「川の内」に含まれる松原市には、大阪平野を東西に結ぶ直線古道として大津道(近世の長尾街道)が通っていました。また、その南、1.9キロほど離れて同じく直線古道の丹比(たじひ)道(近世の竹内(たけのうち)街道)も東西に走っていました。

 大津道と丹比道については、『日本書紀』の天武(てんむ)天皇元年(672年)7月条の壬申(じんしん)の乱における戦いの記述中に見えます。す なわち、7月1日、大海人皇子(おおあまのおうじ)(のちの天武天皇)方の大伴吹負(おおとものふけい)軍に属する坂本臣財(さかもとのおみたから)らは 河内・大和国境の高安城を占拠しました。翌朝、財らが西方を眺めると、大津道と丹比道の両道から大友皇子(天智天皇の皇子)の近江朝廷軍が高安山めがけて 押し寄せてくるのが見えたのでした。
 このことから7世紀後半にはすでに両道が存在していたことが明らかです。

 考古学的にも、近鉄河内松原駅の150メートル北側の長尾街道南側(上田2丁目)の発掘調査で、 道路側溝と考えられる幅 170センチ、深さ30センチの溝が検出されています。この溝から6世紀末から7世紀初めごろの須恵器や土師器 が出土しています。
 また、道路部分に相当する高さは、側溝の肩の高さより20センチ高くなっており、上面は平らに整地されていました。
 側溝をもつほど立派な古道でしたので、この遺構は長尾街道の前身と考えられる大津道であることがほぼ実証されたのでした。
 大津道は、堺市北三国ケ丘町の方違(ほうちがい)神社と奈良県北葛城郡当麻町長尾の長尾神社とを結ぶ道であると一般的に考えられています。市内では、府道堺・大和高田線と平行して、天美我堂-新町-高見の里-田井城-阿保-上田-西野々-一津屋を通っています。
 市役所・市民病院・商工会議所・警察署・松原郵便局など主だった官公庁は、いずれも大津道沿いにあります。大津道が、市内のメインルートであることがよくわかります。
 これに対し、竹内街道の前身とされる丹比道のルートははっきりしません。ふつう、先の方違神社で大津道と分かれ、堺市金岡神社前や羽曳野市野中寺 の南側を通って、大阪府太子町・奈良県当麻町境の竹内峠に至る道だといわれています。市域では、中央環状線と平行して、岡・立部を通っています。

 しかし、歴史地理学者の足利健亮さんは、羽曳野市郡戸(こうず)の大座間池(おおざまいけ)付近から、松原に入って立部 ・岡・新堂・高見の里・新町・天美に至り、大和川の手前の阿麻美許曽(あまみこそ)神社まで西北に延びる斜向道路の存在を指摘され、これが本来の丹比道で あると考えておられます。
 7世紀後半ごろまでに、大和でも南北の直線古道の上(かみ)ツ道・中(なか)ツ道・下(しも)ツ道が等間隔につくられ

いました。河内を通る大津 道・丹比道も大和の古道とほぼ同じころ、国家によって敷設された大動脈でした。これらの計画道路は、歴史の桧舞台を演出するモニュメントだったのです。

 33.高野街道を歩く
十二社権現堂と道標(いずれも新堂3丁目)
宮は旧社地を離れ、児童公園内に移されている。
道標も向きは変えられている。

古代にさかのぼる古道

 空海は平安初期の弘仁2年(811)、紀州の高野山に金剛峰寺(こんごうぶじ)を建て、同地で入定しました。のち11から12世紀ごろから、空海を尊崇する人々は、高野詣をするようになりました。
 京都の貴族たちが高野山に詣でるルートは何本かありました。ふつう、淀川を下って天王山麓の大山崎や大阪の天満橋、あるいは堺まで来て、陸路、霊山をめざしました。
 大山崎からの道は東高野街道とよばれ、生駒山地西麓を経て河内長野方面に向かいます。旧国道170号線がそれにあたります。
 一方、堺方面には三国丘の方違(ほうちがい)神社の南を通る西高野街道が走っていました。国道310号線はそれが発達したものです。
 この東・西高野街道にはさまれるかのように、市域にも中高野街道と下高野街道とよばれる古道が通っています。
 中高野街道は、北から南へ大和川に架かる高野大橋を渡って、三宅の屯倉神社前を過ぎ、阿保・上田・新堂・岡・丹南を結んでいます。近鉄河内松原駅前を南下するバス道は新道で、旧道は曲がりくねって、その西の松原幼稚園や松原小学校前を通っていました。
 下高野街道は、大和川の下高野橋から阿麻美許曽(あまみこそ)神社前を過ぎ、天美小学校を左に見て、西除川に沿って布忍神社前を通り、河合の古池に至るルートです。やはり曲がっています。府道大阪狭山線がそれにあたります。
 もともと、中・下高野街道は地形の影響をうけて、中位段丘上にできた集落と集落を結ぶ自然発生的な道としてスタートしたと思われます。これに対し、市域を東西に一直線に走る長尾街道や竹内街道(「歴史ウォーク」11)は国家計画によって作られたと考えられます。
 近世以降、高野詣が盛んになるにつれて、同道は主要な道路となり、中・下高野街道とよばれるようになったのでしょう。
 高見の里方面から、長尾街道と中高野街道をつなぐバイパスとなる住吉道が中高野街道と交差する新堂2丁目で6世紀後半ごろの橋が検出されました。
 橋梁部材は、川底に幅40センチ、厚さ10センチの板材を二重に敷き、その上に直径40センチ、長さ5mの丸太を横に並べて橋脚替わりにしたものです。橋梁の幅は10mほどになり、歩行部分は厚さ15センチの板材を2枚重ねて強度を保っています。
 こうした堅固な橋が川に架けられていたことから、同地には古道が古墳時代後半から存在していた可能性があります。
 橋梁検出地の東、新堂3丁目の良念寺門前には、新堂の鎮守ですが高野詣や熊野詣の遥拝所もかねた十二社権現宮が祀られていました。戦国時代の永禄年間 (1558~69)の創建と伝えています。今は廃寺ですが、真言宗の東之坊境内に本殿・門・木鳥居が作られ、同寺住持が管理していました。
 また、街道沿いには天保5年(1834)造立の「かうや」道を示す道標も現存しており、歴史街道のなごりを今にとどめています。


延期のお知らせ 第61回JAFS松原ぞうすいの会 松原の魅力再発見 ~ 松原の歴史街道から

2012年09月29日 | ぞうすいの会・ゲスト

明日9月30日予定の松原ぞうすいの会ですが、

台風接近のために会場クローズの可能性があり、

残念ながら延期と決定します。

来年2013年1月20日(日)、19(土)、26(日)の

いずれかの日に延期予定です。

正式に決定すればまた、お知らせします。

それまでに、11月4日(日)松原ワールドフェスタなどもあります。

皆様、楽しみにしていてくださいね。またお会いしましょう。


第61回JAFS松原ぞうすいの会

松原の魅力再発見 ~ 歴史街道から

日 時: 2012年9月30日(日) 12:00~14:00

      ※ 雑炊つくり(11:00~)からの参加も大歓迎です!

ゲスト: 西田孝司氏 (松原市文化財保護審議会審議委員)
       「松原の魅力再発見 ~ 歴史街道から」

雑 炊: まつばら雑炊 (お楽しみに!)

        食材は 松原育ち‘まったら愛っ娘’& 合鴨スープ

アジア協会アジア友の会「松原ぞうすいの会」は主に海外からのゲストをお招きして異なった文化や生活のお話を聞いています..今回は松原在住で広報まつばら「松原歴史ウォ∸ク」を執筆されている西田孝司さんからお話をお聞きします。私達の生活道路は歴史街道。松原の歴史から素敵な松原を再発見しましょう。上の写真は阿保神社の御神木で、何百年も松原を見守っている巨木です。 

Think Globally, Act Locally, JAFSは地域にしっかりと根付いた国際協力活動をめざしています。

定 員 : 30名 (申込み9月27日(木)まで)

参加費: 700円(JAFS会員500円)

会 場 : 松原市立福祉総合会館2階

      近鉄南大阪線「河内松原駅」下車 10分

主 催 :(公益)アジア協会アジア友の会(JAFS)松原

協 賛 : 松原市ボランティア連絡会 

☆お申込み・お問い合わせ☆

(公益社団法人)アジア協会アジア友の会(JAFS)

松原地区世話人 橋本末子 Tel/Fax 072-332-7097

又は、本部事務所 (担当:青木) Tel 06-6444-0587/Fax 06-6444-0581 


プーリー・アナビアンさんのサントゥール・静謐なペルシャの響き~ 第60回記念松原ぞうすいの会レポ③  

2012年06月03日 | ぞうすいの会・ゲスト

第60回記念 松原ぞうすいの会 レポート③
お話と伝統音楽の美しき調べ  ペルシャと日本の絆 再び
日 時;2012年5月27日(日)
場 所;松原市総合福祉会館

ゲスト;ダリア・アナビアンさん(ペルシャ文化伝道士)
     プーリー・アナビアンさん(サントゥール奏者)
     河村真衣さん(サプライズゲスト・サントゥール奏者)

プーリー・アナビアンさんのプロフィール

 イランの首都テヘラン生まれ。5歳からペルシャ伝統楽器サントゥール奏者として、

放送やコンサートに出演。イラン国立テヘラン大学音楽学部ピアノ科卒業。1978

年に日本初、ペルシャ語会話辞典「みんなのペルシャ語」を出版。1983年に放送

されたNHKドラマ「壬生の恋歌」の主題歌をはじめ、みんなのうたの「イランの

子守唄」やFM番組に放送出演。NHK文化センターの公開講座「シルクロードの

音楽」のレクチャーコンサートなど、各地で800回以上演奏を行う。

☆☆☆ サントゥール奏者、プーリー・アナビアンさんからのメッセージ ☆☆☆

「音楽を通じてペルシャと日本の文化交流を進めることが私の願いです。」

河村真衣さん(左)は、プーリーさんの大阪音大の元生徒。
耳が本当に良くて、作曲に、楽器演奏に類まれな才能を持っておられます。
今ではプーリーさんの良きパートナーに。
二人の息のぴったり合った幻想的でスリリングな演奏に、会場はシーンとなりました。
エキゾチックなペルシャ楽曲のあと、アンコールの拍手が。
そして「五木の子守唄」の演奏。意外にも日本の曲のプレゼントがあり、会場もサントゥールの地平の広さを堪能しました。
プーリーさんいわく、チューニングが若干日本の音楽とは違うそうですが、素人耳には分かりませんでした。

演奏後に二人はすぐに立ち上がって、深く手を握り合いました。
見ている私たちにも感激的な瞬間でした。

サントゥールやペルシャ、お二人の魅力をもっと知りたければ、アナビアンHPを見てください。

サントゥール――ピアノの祖先

台形の箱は、音色と強度に関して最も適している胡桃(くるみ)材で作られている。72本の弦は、4本ずつに分けられた束が18あり、ぜんぶで72本になる。同じ音に調弦された4本の絃が、“小ろば”という柱に持ちあげられている。4本の弦の束は、

同じ音に調弦され、真ちゅう弦と鋼絃が交互に並んでいる。しんちゅう絃は2オクターブ、鋼絃は1オクターブ。1オクターブが9のトーンに分かれていて、全部で27の音が出せる。

サントゥールは、曲によって音階を変えなければならないが、その調弦に時間がかかる。そのために、一回の演奏会に数台のサントゥールを持っていくことも稀ではない。

直接、撥で絃を叩くので、ピアノの祖先だということが理解できる。撥は、非常に細く、長さ25センチで重さ1.5グラムしかなく、フェルトを付けた先で叩く。

サントゥールの歴史

 すでに紀元前3000年のアッシリアでこの楽器の原型が見られる。古代においては、絃は、羊の腸で作られていた。13世紀、シルクロードの交易が盛んになると、絃は絹で作られた。現代では神秘的な音を出す真鍮と鋼へと変化した。のちヨーロッパに渡ったこの楽器は、鍵盤や足や蓋がついてピアノに発展した。

 イランでは、サントゥールという名称で呼ばれているが、世界各地で異なった名称で愛用されている。中国では、楊琴(ヤンチン)、アメリカではダルシマと呼ばれている。日本は江戸時代に サントゥールは洋琴(ヨウキン)又は夜雨琴(ヤウキン)という名前で紹介されるが、その後長い間忘れ去られた。

 昭和58年にNHKの大河ドラマ「新選組」の中でのサントゥールがプーリー・アナビアンの演奏によって、新たにその音を響かせた。以後日本各地の演奏会でペルシャ音楽を伝え、この楽器が知られ、注目されるようになった。

 現在、プーリー・アナビアンは、大阪音楽大学や青少年センターの若者達にこの楽器を指導している。

 長年日本で活躍しているサントゥール奏者、プーリー・アナビアンのメッセージ―

 「音楽を通じてペルシャと日本の文化交流を進めることが私の願です。」

 ペルシャ音楽について

 ペルシャ音楽は5000年の歴史があり、鳥の声を模倣したのが始まりと伝えられている。天高く舞い上がる鳥は、精神を高揚させる音楽に発展していった。鳥の歌う調子を元に、その抑揚とリズムから影響を受け、幅広くたくさんの旋法が生まれてきた。ペルシャ音楽には12の旋法がある。ヨーロッパ音楽には短調と長調の2種類の旋法があるだけである。音程は、ヨーロッパ音楽では1オクターブを12の半音に分割するが、ペルシャ音楽では24の四分音に分ける。さらに微妙な音程を必要とするので音程は無限分割されていく。リズムも自由自在に変化し、これらを組み合わせた即興演奏がよくなされる。

レポートは、まだまだ続きますよ!


第60回記念 松原ぞうすいの会 今回はスペシャルゲストで、ペルシャ音楽の世界も楽しんで!

2012年05月15日 | ぞうすいの会・ゲスト

JAFS アジアの人々とともに・井戸を贈って33年
     心をひとつにがんばろうNIPPON
   第60回 記念  JAFS松原ぞうすいの会
スペシャルに豪華に お二人のゲストと素敵なひとときを

   お話と伝統文化の美しき調べ
    ペルシャと日本の絆再び

        
日 時:2012年5月27日(日)
     12:00~14:00 お話と演奏、食事 

     11:00~ゲストと一緒に、ペルシャ料理を作りませんか。
      お手伝い大歓迎!

ゲスト★ペルシャ文化伝道士 ダリア・ アナビアンさん (写真右)
    ★サントゥール奏者  プーリー・ アナビアンさん(写真左)  
                            お二人は親子です。
  日曜の昼下がり、ペルシャ雑炊 アッシュ・マッシュを味わって、
             ペルシャのお話きいて、素敵な音楽も楽しんで!

 参加費: 1000円(JAFS会員700円)
■ 会 場: 松原市立総合福祉会館3F
        (近鉄南大阪線河内松原駅南西へ歩いて約10分)
■ 協 賛: 松原ボランティア連絡会 
■ 申し込み:定員30名 5月24日(木)までに、以下の連絡先まで。
■ 主催:(公益社団法人)アジア協会アジア友の会(JAFS)松原
      地区世話人 橋本末子 Tel/Fax 072-332-7097
または (公益社団法人)アジア協会アジア友の会 本部(担当:青木洋介)
      Tel 06-6444-0587/Fax 06-6444-0581
 シルクロードを経て日本に伝わってきた正倉院御物などのペルシャ文化。
今から1300年前に、私たちの松原にある古道(竹の内街道、長尾街道)
も経て伝わってきました。

ゲストプロフィール

プーリー・アナビアンさん

 イランの首都テヘラン生まれ。5歳からペルシャ伝統楽器サントゥール奏者として、

放送やコンサートに出演。イラン国立テヘラン大学音楽学部ピアノ科卒業。1978

年に日本初、ペルシャ語会話辞典「みんなのペルシャ語」を出版。1983年に放送

されたNHKドラマ「壬生の恋歌」の主題歌をはじめ、みんなのうたの「イランの

子守唄」やFM番組に放送出演。NHK文化センターの公開講座「シルクロードの

音楽」のレクチャーコンサートなど、各地で800回以上演奏を行う。

☆☆☆ サントゥール奏者、プーリー・アナビアンさんからのメッセージ ☆☆☆

「音楽を通じてペルシャと日本の文化交流を進めることが私の願いです。」

ダリア・アナビアンさん

イランの首都テヘラン生まれ。古美術商の両親と来日する。神戸の国際学校カナディ

アン・アカデミー、ニューヨークのファッション専門学校フレンチ・アカデミーを卒業。

1988年に帰国後、NHKテレビ番組「シルクロードロマンの旅」のレポーター、ABC

ラジオ「旅のハーモニー」のレポーターなどを務める。

1997年以降は、主に警察署、検察庁、裁判所、入国管理局にてペルシャ語の通訳を

務める。自治体の人権講座や文化センター、大学や高校など各地でペルシャの歴史及び

イランの現状について講演も行う。ただいまペルシャ料理の本を執筆中。

 

 


予告!第59回松原ぞうすいの会 熱帯のガーナから来たオーツ・アチャンポンさんのお話

2012年03月04日 | ぞうすいの会・ゲスト

JAFSアジアの人々とともに・井戸を贈って33 
心をひとつに~がんばろうNIPPON~
収益金の半分は、JAFSの南三陸町被災地支援に、
半分は従来どうりアジアの井戸建設資金のなります。


   
      
59回松原ぞうすいの会
熱帯の国ガーナ
英語で聞こう~人気先生(オーツ・アチャンポンさん)のふるさと

■日 時:
2012325() 12001400 
     
 1100ゲストと一緒に、ガーナ料理を作りませんか。
      お手伝い大歓迎!
■ゲスト
Mr. Out Acheamponh  (Ghana)  通訳あり
     ガーナ アシャンティ州 出身のオーツ先生は松原市のALT
     (
英語の先生)です。

お話しMaa ha! こんにちは! ガーナへようこそ!! 
■料 理:トマトシチュー & ライスボール
■参加費:700円(JAFS会員500円)
■会 場:
松原市立総合福祉会館2F
■協 賛:松原ボランティア連絡会 

■申し込み:定員20名 322()までに。

 
外国語は日常生活の中に入り込んで、異文化を理解したり、国際協力や多様な社会で生き抜くためにも大切な教育になっています。現在、松原市の小・中学校で外国人の英語の先生は5人おられます。松原市の学校は早くから外国の先生を導入し、英語教育に力を入れています。オーツ先生は現在松原7中で、休み時間に生徒達と英語で語りかけたりする人気先生です。「ぞうすいの会」でも英語でガーナの国について聞いてみませんか。よく知られていることは
野口英世が黄熱病を研究した国です。

 ■主催:(社)アジア協会アジア友の会(JAFS)松原
 問い合わせ、お申し込みは、こちらまで。
松原地区世話人 橋本末子 Tel/Fax 072-332-7097

もしくは
(社)アジア協会アジア友の会 本部
 
Tel 06-6444-0587/Fax 06-6444-0581


松原が誇る、安心安全美味なる「河内鴨」。第58回JAFS松原ぞうすいの会 レポ④南京玉すだれ

2012年02月09日 | ぞうすいの会・ゲスト

レポート第④弾 おまけ

心をひとつにがんばろうNIPPON 
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AFSアジアの人々とともに・井戸を贈って32
       第58JAFS松原ぞうすいの会
 
松原で見つけたオンリーワン!
         どこにも負けないこだわりの河内鴨

日 時:20122()12001400
         
ゲスト津村 佳彦 氏(有)ツムラ本店 専務  
お 話
:松原が誇る「河内鴨」ブランド。その道のりと熱き思い

今日は特別に、地元松原のお話なので、場を盛り上げようと仲間が応援に来てくださいました。
皆でぞうすいを食べはじめて、しばらくしたら「南京玉すだれ」の披露です。
最初はじっと見ているだけだった皆さんも・・・

「あ、さて、あ、さて、さても南京玉すだれ・・・」
長井さんのテンポのいい話芸につられて、いつのまにか大の男たちも、お遊戯状態?
気が付けば、みんなでストレスを吐き出すポーズをしていました。
じっとしてると、元気な彼女から、「声が小さいで!」とか、ツッコミが入りますので・・・。

すっかりリラックスしたところで、津村さんのお話が始まりました。

でも、レザーの上着を脱いだら・・・いきなり、このファッションでした。
こちらも「ツカミ」がうまい!爆笑でした。
「こんな派手な服、どこで売ってるんですか」とご本人に聞いたら、
「僕は店の人に、一体どこで着るんですか?と聞かれました」との返事が返ってきました。

「人間も鴨も同じ」
地道な日々のアヒル飼育のお仕事から導かれた、説得力あるお話がはじまりました。
お話の内容は、前の記事を見てくださいね!


松原が誇る、安心安全美味なる「河内鴨」。その道のりと熱き思い。第58回JAFS松原ぞうすいの会 レポ③

2012年02月04日 | ぞうすいの会・ゲスト

レポート第3弾 Q&A編

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       第58JAFS松原ぞうすいの会
 
松原で見つけたオンリーワン!
         どこにも負けないこだわりの河内鴨

日 時:20122()12001400
         
ゲスト津村 佳彦 氏(有)ツムラ本店 専務  
お 話
:松原が誇る「河内鴨」ブランド。その道のりと熱き思い。

質問;鴨と合鴨とアヒルの違いを教えてください。

   (アヒルは野生の鴨が家畜になったもので、合鴨はアヒルと鴨のかけあわせたものです。)
 結局、みな鴨のDNAを持っています。ですから、白いなかに、茶色の斑点も出ることがあります。

   こう、覚えてください。今、日本では、生きている間に空を飛べるのが「鴨」、空を飛べないのが「アヒル」とうことです。そして、アヒルが解体されて裸になったとたん、白でも青首でも、黒でも、斑点でも、みな「合鴨」になります。「合鴨」という肉になります。裸になれば、皆同じ。中身が大事です。それは人間でも同じです。国籍が何人でもどんな見かけでも。皆同じ。中身が大事でしょう。

    こんなややこしい定義は日本だけです。英語では皆、ダック(duck)ですからね。

質問;「河内鴨」という名前ですが、もともとこのあたりでは鴨飼育の歴史があったのですか。地域で違いがあるのですか?

   (豊臣秀吉が鴨の飼育を奨励したというのは記録に残っています。)

   このあたりでも、美原、富田林、羽曳野の伊賀、池島、東大阪などでも鴨の飼育農家はありました。しかし、みな戦後に「公害」ということで続けられなくなって、辞められました。臭いや鳴き声です。残っているのは、うちだけです。鴨の種類は35年前までは「大阪鴨」というのがあったのですが、肉が多くて食用飼育に適していたイギリスのチェリバレーという種類を、うちはどこよりも早く取り入れました。
 なぜ、うちだけが合鴨飼育を続けられたのか。なぜ、近所がしんぼうしてくれたのか。私のおじいさんが、先見の明があったのではと思います。これからは近所に迷惑かけるから、対応を考えなければと考えたのでしょう。戦争時分のずいぶん昔のことですが、こけたままのほったらかしにされているお地蔵さんをみつけてきたのです。うちは殺生もしているわけだし、そのお地蔵さんを許可を得て、大切に家の向かいでおまつりしたのです。

毎年地蔵盆になれば、近所の子どもたちに、私たちはお菓子を配っています。子どもの時から身近にお菓子を受け渡ししていると、私たちにも顔なじみになります。人間関係があると、苦情も大目にみてもらえるのでは。
 今では奈良に飼育場があります。でも、今でもヒヨコのうちはここ松原で孵して育てています。

今はせちがらい世の中になりましたね。知らない人に声かけられたら、危ないから無視していきましょうなどと子どもに教えるそうですが、私は近所の人と、元気にあいさつしてほしいと思います。あいさつのできる子どもになって欲しいと思います。

世間の皆さんは、生き物を扱い、食べ物を生み出している農業にもう少し理解を持ってほしいと思います。住宅が増えて、朝から耕運機の音がやかましい、と農家には苦情が来るそうですが、想像してみてください。9時ころにはもうカンカン照の日があるでしょう。早朝の作業でないと、炎天下、年寄りばかりの農家の人はぶっ倒れてやられてしまいますよ。誰も農業をしなくなってしまいます。 

質問;逆に料理人から教えられたことはありますか?

   いっぱいありますよ。私のロース肉はお造りで食べられるくらい柔らかで臭みがなく、和食に向いています。煮込みすぎない方がいいのです。ところが、私の合鴨肉を気に入ってくださった料理人の方には、洋食の方々もいます。リーガロイヤルホテル、北野ホテル、ポンデベッキオさんなどです。あるシェフがいいました。あえて10日くらい熟成させてからソテーにしているというのです。それはそのシェフなりの工夫ですね。シェフからはいろいろ学べます。トリ肉は熟成が進んでも、日本では味噌につければ美味しく食べられるし、外国ではヨーグルトにつけて食べたりもしますね。魚、トリ、豚、牛の順に傷みやすい、腐りやすいでしょ?それはその順に分解が早いということ。分解が早いということは、人間の体にもいいということじゃないですか。私も料理人の方々から学ぶことも多く、また料理人のこだわりにも耳を傾けつつ、うちの「河内鴨」の特性を生かすために、私のこだわりも聞いてもらうこともあります。本当にプロどうしの信頼関係でやっています。

質問;鴨カレーはどこで手に入るのですか?

   松原の商工会議所で手に入ります。

質問;餌はどうしていますか?

   無農薬飼料です。今は配合飼料ですが、自分でも昔のように作れと言われれば、僕は作れます。米ぬか、麦、カキ殻etcなどを混ぜます。残飯を与えれば残飯の匂いがしてしまいますよ。イベリコ豚がそうですが、餌によって肉の香りも変わってきます。人間も同じです。食べているもので、体の匂いも違ってくるのですよ。
 カロリー計算はヒヨコが3000kcal、仕上げは2700kcalです。これが2500でも2600でもだめですし、また、早く大きくしようとして急いでもダメです。人間も同じでしょう。

質問;家でも料理されるのですか?

   家用に鴨肉を解体することもありますが、なぜかその時は少しおおざっぱになってしまいます。妻にその事を指摘されてしまいます。

質問;どこでツムラの合鴨料理は食べられますか?

   何十軒もありますよ。地元松原なら、「和味(なごみ)」というところがあります。
   じぶ煮とか、美味しいですよ。

質問;子どもが全く親の思うようには育ってくれません。本当にかっこいい車に乗ってるだけで、息子は言うことを聞いてくれるのでしょうか? (笑)

   私は親父をかっこいいと思っていました。でも、すべてを真似する必要はないですし、いいところは真似をして、悪いところは真似をしなくていいと思っていました。

(※ 親父のかっこよさにも、いろいろあると思うし、皆さん誰しもが津村さんのようなファッションも似合うとは限りませんね。(笑)でも、本当に参考になるお話でした。管理人)

この集まりの参加費による収益の
半分はアジアの農村への井戸建設に、

半分は東日本大震災の支援金として、
いずれもアジア協会の活動を通じて役立てられます。


松原が誇る、安心安全美味なる「河内鴨」。その道のりと熱き思い。第58回JAFS松原ぞうすいの会 レポ②

2012年02月01日 | ぞうすいの会・ゲスト

レポート第2弾!

心をひとつにがんばろうNIPPON 
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       第58JAFS松原ぞうすいの会
 
松原で見つけたオンリーワン!
         どこにも負けないこだわりの河内鴨

日 時:20122()12001400
         
ゲスト津村 佳彦 氏(有)ツムラ本店 専務  
お 話
:松原が誇る「河内鴨」ブランド。その道のりと熱き思い。

東日本大震災で、地域のつながりが見直されました。今回のぞうすいの会、
テーマは地元を知ろう!地域で頑張っている人から学ぼう!ということで
松原ブランド研究会のメンバーでもある、合鴨飼育家の津村佳彦氏のお話です。


津村さんの熱い語りは続きます。この後は、食育についてです。
★「いただきます」は命への感謝の言葉
 
松原市の学校給食にも、うちの合鴨を地元の食材として使ってもらえればいいです。「河内鴨」の肉でも、給食用にはお安く出せる分を取り分けておいてあります。同時に食育の話もしてほしいです。
 ところで、学校に子どもを通わせる保護者が、「どうして給食費をちゃんと払っているのに、食べるときに子どもは『いただきます』などと言わねばならないのか」と言ったそうです。お金さえ払えば、別に感謝の「いただきます」の言葉はいらないというのです。それを聞いてびっくりしました。「いただきます」というのは、調理した人への感謝だけにはとどまらないのです。むしろ、命あるものをいただくわけですから、その食材となった命に対しての「いただきます」なんです。
 僕は青年会議所の子供向けの企画で、生きた合鴨を解体するところを見せて、一緒にいただくことで生き物が食べ物になっていくこと、そのことへの感謝の気持ちを教えました。もちろん、見たくない子どもは見なくていいよ、向こうに行っていいよと言っています。最後は子どもたちと一緒にその肉をおいしく食べました。子どもたちは「いただきます」は命への感謝の言葉だとわかってくれたと思います。(イスラム教でハラルミートといってお祈りを捧げる儀式をしてから解体作業に入るのを、目の前で見たことがあります。その時は少しイスラム教に興味も持てました。)いずれにせよ、皆さんは自分たちの口に入るまで、食べ物がどうやって自分の口まで来るのかを知っておくべきです。安全な食材というだけでなく、命への感謝も大切です。
 「いただきます」を言わなくていい、なんてモンスターペアレントなんかに学校は負けたらだめですよ。PTA会長には、私のような人を選んでください。(笑)

 
★若い人も、料理の仕方を学んで欲しい
 食の安全にこだわる私ですが、賞味期限というものには疑問を持っています。
 賞味期限、消費期限というものができて、大量生産大量廃棄のシステムとなりました。もったいない話です。本当は正直な製造年月日だけあればいいのではと、私は思ってしまいます。生産した人の責任で製造日を示し、あとは料理する人の判断、責任にすればよいと思います。料理の仕方がわからないという若い人がいます。何でも人のせいにして、自分自身、食べ物の知識がなさすぎる消費者が多いのではないですか。食育といいますが、そのためには料理の方法も若い人に知ってほしいし、教えたいと思います。食育というのであれば、料理研究家たちよりも僕のように卵をヒナにかえして命の誕生から、それを食べ物になるまで見届けている、僕のような人にも語らせてもらいたいです。
 ブロイラーの鶏は密集した中、薬漬けで育っています。健康的ではありません。完全に外界と遮断されて動き回ることもできません。人間も外でしっかり遊んで体力つけさせないといけません。人間も鴨も同じです。私は、今引きこもりで家の中にこもっている若者の体が心配です。鴨を見ているから、人間のこともわかるのです。何度も言いますが、人間も鴨も同じです。

 
★いつでも私は、負けてもいいから「真っ向勝負」がモットー
 「河内鴨」の登録商標を取得するには、いろいろな条件をクリアしなければならず、当時は大変でした。200万~300万円かかったかもしれません。でも今はこれは胸張ってつくっていることの証拠です。無農薬の飼料を食べさせ、薬を使っていない、なおかつロースの味は生で刺身で食べて柔らかく臭みのない最高レベルのものを出しています。そこに私は照準をあてています。それには肥育期間が他所のものより、長く時間をかけて育てています。そのため、モモ肉のほうは少し歯ごたえあり、固くなってしまうのが、うちの特徴です。そちらは若干安くだしています。また、ガラも中華料理屋にダシ用にだしています。
 しかし、生で食べれる最高のロース肉は神戸、大阪、京都までの関西でしか出していませんし、量に限界があるので出せません。それに大阪に行かないと「河内鴨」は食べられない、と思って欲しい。大阪の名物にしたい。大阪を、地元を大切にしていきたいと思っています。
 私はいつでも「真っ向勝負」です。安全で安心して食べられる、最高の味の刺身で食べられる柔らかい臭いのないロース肉を提供することに「真っ向勝負」です。負けてもいいから「真っ向勝負」です。これは学生時代に、僕がラグビー部で学んだ精神です。そこまでこだわらなければ、もっと楽をして大量生産もできるのでしょうが、その道は選びませんでした。

 
★顔が見える料理人との信頼関係
 「河内鴨」と銘打ちながら、途中で浮気して別のところの物を出した店があります。味が変わったといって、客にはすぐにばれてしまいます。困ったものです。その店の後に、たくさんの待ってもらっている料理人がいるのだから、そんなことは絶対やめてもらいたいです。
 偽物が出るようになって、販売にかんしては、私は料理人を見て判断することにしています。マナ板が白くなくて清潔でないようなところでは、刺身はだしてもらうわけにはいきません。だから厨房を見せてもらうこともあります。それで、お断りしたこともありました。本当に自信のある人は、自分の仕事場を見せることができる人です。私も取材でトリたちのいるところを見てもらったことがあります。本当は病気を持って来られたら困るので、あまり人を入れたらだめなのですが。でも自信があるから見せられるんです。プロの料理人は、本当のその道の達人は、何でもオープンです。レシピでもオープンです。最後はその人の腕で決まるのですから。
 顔が見える料理人にしか売らないのは、信頼関係を大切にしているからです。

 ★「後継者問題」の解決策は、親父がかっこよく人生を楽しむこと
 私の今日のファッションも、目立つでしょ?でも、実はこれも戦略なのですよ。皆さんは私のことをきっと忘れられなくて覚えてくださるでしょう。(笑)服装のことでもお話しましょう。
 私が33歳で大阪のこの業界の団体に参加した時、まわりは年配の方ばかりで、発言権はまったくありませんでした。そのときの皆さんの共通の悩みは「後継者問題」でした。息子が跡を継いでくれようとしないと嘆いておられるのです。それなら、今一番若い後継者である私に、ここで一言話させて欲しいといいました。実は卵、鶏、豚、牛それぞれの業者の方はそれぞれの匂いを身につけて持って来られていました。それに服装も地味なものでした。大阪の都心の真ん中に出てくるのだから、もう少し、おしゃれにして来てほしいものです。息子さんたちはお父さんのその姿を見て、かっこいいと思いますか?憧れますか?親父のようになりたいと思いますか?と私は言いました。
 私はいつも一日中合鴨といるときは白い作業着姿ですが、一歩外へ出るときは営業マンなのだから、きちんとしたスーツ、ネクタイに背広でパリッとして出かけます。そして、働くときはしっかり働く、遊ぶときには思いっきり遊ぶという生き方です。趣味もありますし、そこにはお金もつぎ込みます。仕事はきついですが、時間もとられますが、生き物相手でいいものを育てようと思えば、楽をして儲けることはできません。仕事もしっかり、でも遊びもしっかり。私の父はいい車に乗っていました。アメ車です。エメラルドグリーンでした。遊ぶ時の旅行も贅沢なものでした。子ども心に、親父をかっこいいと思っていました。私のアドバイスを実行した玉子屋さんが、息子が跡を継ぐと言い始めたと言いましたよ。
 大先輩たちを相手に、私はそのとき生意気なことを言ったかもしれませんが、その後、気がつけば私がその団体の会長になってしまっていました。ちょっと言いたい放題になってしまいました。

 
 私の息子は今21歳です。跡を継ぐ決心で、大学に行かずに仕事につきました。最初家族の過半数は息子を大学に行かせるほうに賛成でした。しかし、宮大工も高卒でもギリギリ遅いくらいだそうです。解体(私たちは「割る」といいます)は習得に時間のかかる技術です。手に職は早い方がいいのです。職人の技術の習得には、4年のブランクは大きいのです。その4年間に遊んでしまうと思います。

 生き物を相手にするこの仕事は、楽ではありません。今日も朝、私はヒヨコにエサをやって来ました。また右腕を見てもらったら、大きな傷があるでしょう。ほら、生傷だらけです。解体のときに暴れる鴨にやられるのです。バイトとかで、楽をして手っ取り早く目先のお金を儲けようと思うことを覚えてしまうとだめなのです。息子が跡を継ぐ決心をしてくれたことは嬉しいことです。

★エピソード:息子さんの高校時代の出来事です。文化祭で、息子さんの部活メンバーでテントを張り、合鴨の炭火焼バーベキューを150円くらいで、売っていました。香ばしい香りがあたりに漂っていました。たまたま文化祭に来た一般の保護者が当日食べたら、香ばしくて脂身が甘く、本当においしかったので、以前食べたツムラの合鴨のことを思い出してしまいました。まさか、今食べたそれがツムラの合鴨とはツユ知らずに、です。それで、もっと合鴨を食べたくなって、晩御飯用にその日の帰り、夕方にツムラ本店までわざわざ買いに来ました。そこで津村佳彦さんから、その文化祭のバーベキューの合鴨が、実はツムラの合鴨で、売っていたのも、実はツムラの息子さんたちだった教えられ、びっくりしたということです。息子さんはしっかり営業マンの才能がありますね。美味しいものは美味しい。息子さんは自分の家の合鴨、「河内鴨」に絶対的に自信があるから、堂々とメニューに挙げて文化祭に出したのでしょう。彼の心意気を感じるお話です。高校生時代には、すっかり「河内鴨」への誇りを持っておられたと言えます。ちなみに、わざわざ買いに来たその一般保護者とは、何を隠そう、このブログの管理人です。

まだまだ、レポートは続きます

この集まりの参加費による収益の
半分はアジアの農村への井戸建設に、

半分は東日本大震災の支援金として、
いずれもアジア協会アジア友の会の活動を通じて役立てられます。


松原が誇る、安心安全美味なる「河内鴨」。その道のりと熱き思い。第58回JAFS松原ぞうすいの会 レポ①

2012年01月24日 | ぞうすいの会・ゲスト

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      第58JAFS松原ぞうすいの会
 
松原で見つけたオンリーワン!
         どこにも負けないこだわりの河内鴨

日 時:20122()12001400
         
ゲスト津村 佳彦 氏(有)ツムラ本店 専務  
お 話
:松原が誇る「河内鴨」ブランド。その道のりと熱き思い。

東日本大震災で、地域のつながりが見直されました。今回のぞうすいの会、
テーマは地元を知ろう!地域で頑張っている人から学ぼう!ということで
松原ブランド研究会のメンバーでもある、合鴨飼育家の津村佳彦氏のお話です。

 まるで映画スターのようなド派手なファッションで現れた津村氏。
期待を裏切る嬉しくも華々しい登場です。まるでオンステージです。
しかし、それ以上に何よりも
、そのお話の内容には皆が吸い込まれて
いくような説得力がありました。強烈な現代社会への批判は、日々生
きている合鴨たちを育てることによってのみ知ることのできる、深い
洞察力に裏打ちされています。人間も鴨も同じ。そこから導かれる言
葉に
耳を傾けましょう。
 何度かにわけてレポートします。
 どうぞあなたも津村佳彦ワールドへ。津村さんのお話 レポートその① 食の安全を超える大きなお話

★ 合鴨飼育の仕事をしていて、私が感じる幸せ 

今私は47才です。大阪の松原市で、私で5代目の明治の時代からの合鴨飼育の家業に就いています。
私は今この仕事をしていて、本当に幸せ者だと思っています。
「河内鴨」のブランドをつくりあげ、薬を使わない安全な合鴨を、なおかつ工夫に工夫を重ね、ロース肉を最高の味に育てている、今の自分の仕事に誇りを持っています。
生き物を卵からヒナになる誕生にかかわり、そのヒナを大切に育て、そして生き物を食べ物にかえ、そして皆さんにお届けするという、一連の流れすべてに責任を持ってかかわることができ、喜びを感じています。
 お客さんのなかには、子どものアトピーが、津村さんの合鴨なら出ないと言って感謝されることもあります。
プロの最高の料理人から、ツムラの合鴨の味は良いと、本当に味のわかる人に言ってもらえることも嬉しいです。
ある日余命幾ばくもない父親のために息子さんが鴨肉を買いに来ました。
「親父に最後に何が食べたいかと聞いたら、ツムラの合鴨だというんです」と言って下さいました。
もう、一切れくらいしか食べられない体なのに、最後の一口にお父様がそうおっしゃったというのです。
感無量でした。本当にありがたいことです。

 安全や味を大切にする私のやり方では大量生産はできませんし、日数も手間もかかります。
でも、本物を本当にわかって下さる方々に支えられています。
また食べ物と人との関係、生き物と人との関係、世の中の生産や消費、心のあり方、おかしいと思うことが、いろいろあります。
皆さんにもっと知ってほしいこと、伝えたいことがあります。
合鴨を育てているなかで日頃思っている、そんなことを今日は少しお話をさせてもらいます。


 ★ のっぺらぼうの顔のないヒナが誕生した衝撃 

今から30年以上も前の話です。
私が小学生だったころ、アメリカから肉を早く大量に生産できるという抗生物質、筋肉増強剤が入ってきました。
早くヒナを大きくすることができ、病気でも死なないというのです。
そのころ、私はもうすでに家業の手伝いをしていて、エサを与える仕事も任されていました。
そんなとき、これからの時代におすすめだというその抗生物質を、私は実験のように100倍に薄めて使ってみました。
半年ほど経過してわかったのですが、確かに少し死亡率が減ったような気がしました。
さらに私はその薬を10倍に薄めて与えて見ました。
 ところが、半年経った頃には、何と奇形が産まれ始めました。足が3本や4本のヒナが誕生したのです。
その恐ろしさの確証を知りたくて、私はさらに試しに原液のままでその薬を使ってみました。
すると、何と、ついにのっぺらぼうの、顔のないヒナが誕生しました。その時の衝撃を私は忘れません。

 やはり薬は怖いものでダメ。
ヒナの体にこんなに悪いのだから、きっとそのうち人間の体にも影響がでるはずだ。
家族でそう話していたのを、今でもありありと覚えています。
それから、私たちは世の中の流れに逆らって、今までどおり薬を使わない飼育の道が正しいのではと思い続けました。

 

★ 農薬も放射能も同じ。利益優先の結果、命を犠牲にしている

 その後1986年にチェルノブイリ原子力発電所の事故が起こりました。
その数年後に、地域のベラルーシやウクライナで多くの奇形の家畜が産まれました。
のっぺらぼうの家畜の赤ん坊の写真を見たとき、私はあのときのヒナと同じだと感じました。
催奇形のリスクある抗生物質も、放射能というリスクのある原子力発電も世の中の原理としては全く同じ。
無理に効率よく大量の肉や電気を生みだそうとして、動物や人間の体に大変なリスクを作り出しているのです。
福島の事故が昨年起こりました。私は子どもたちの体を本当に心配しています。
チェルノブイリの教訓はどこまで生かされているのでしょうか。
 完全無農薬でがんばって野菜を作っている人がいます。
私のようにわずかの薬を使用することにもこだわっている合鴨飼育農家がここにいます。
しかし、どんなに地域で日々苦労して育てていても、一瞬で起こった事故のために、地球レベルでは放射能の影響を受けてしまう。
そう思うと、努力が水の泡になることが、本当に情けなく、悲しくなってしまいます。

 人間も合鴨も家畜も同じ生き物です。
家畜や野菜に悪いのなら、人間にも影響が出るのは当然です。
卵アレルギーの子どもが、なぜか私のところの卵ではアレルギーが出ないと言われました。
抗生物質などの薬は、必ずアトピーなどで人間を苦しめます。
安い卵、安い野菜、安い肉、あの値段でできるのがおかしいのです。何かカラクリがあると感じて下さい。

 

 
★ 鳥インフルエンザのときの無理解もはねのけて
 
 6年前に鳥インフルエンザが流行ったとき、松原市のツムラでも菌が検出されたと新聞に載りました。
本当に残念でした。行政の担当者だけでなく、警察まで来てずいぶん大層なことでした。
毎日のように鴨を見ている私には、その菌が弱毒性だとわかっていました。
その証拠に一羽も病気になっていない、発症していない、普段と変わらず皆元気だったのです。
 
大正年間にスペイン風邪が流行って多くの人が亡くなりました。
その経験から、私のひい爺さんの伝言で、うちでは必ず合鴨と一緒にニワトリを2~3羽飼っています。
ニワトリは自然界に近い合鴨よりも体が弱いです。だから、ニワトリが弱ってきたら気を付けること、ニワトリが元気なうちは大丈夫。
ニワトリが元気なうちは消毒しすぎてはいけない、薬は使わなくていいというのです。
 合鴨より体の弱いニワトリを一緒に飼うことは、菌が移るリスクもあるのですが、ニワトリの様子を見て合鴨の健康も予測できるというのです。
 ひい爺さんの知恵です。
 私はそのことも、ニワトリの元気な様子も記者さんたちには説明したのですが、それでもニュースに流されてしまいました。弱毒性なのに、大々的にツムラの合鴨、鳥インフルエンザに感染というわけです。
メディアには気を付けたいと思ったのですが、同時に私はこれはチャンスだ!と思いました。
なぜならツムラの河内鴨の名前が全国的に広まったのですから!(笑)

 鳥インフルエンザの流行ったときは、行政の指導でやむを得ず、抗生物質を使いました。
ところが普段使用していないので、ほんの少し使うだけでよく効きます。
人間も合鴨も同じですよ。今はうちでは全く抗生物質は使っていません。
エサにも水にもこだわり、床の乾燥に努め臭いの少ないストレスのない環境にもこだわっています。
健康な合鴨たちです。
(注;ツムラではヒナ鳥を水に泳がしたり、水鳥としての合鴨の力を引き出す工夫もしている。)

                 以下、続きは次回に・・・・。

この集まりの参加費による収益の
半分はアジアの農村への井戸建設に、

半分は東日本大震災の支援金として、
いずれもアジア協会の活動を通じて役立てられます。



第58回JAFS松原ぞうすいの会 松原で見つけたオンリーワン! どこにも負けないこだわりの河内鴨

2012年01月08日 | ぞうすいの会・ゲスト

心をひとつにがんばろうNIPPON
JAFSアジアの人々とともに・井戸を贈って32
 
  58JAFS松原ぞうすいの会
 
松原で見つけたオンリーワン!
どこにも負けないこだわりの河内鴨

日 時:20122()12001400
          11
00~ ゲストと一緒に、料理を作りませんか。
           お手伝い大歓迎
ゲスト津村 佳彦 氏(有)ツムラ本店 専務  
お 話
:松原が誇る河内鴨ブランド。その道のりと熱き思い。
 料 理:河内鴨ぞうすい
参加費:1000円(JAFS会員700円)
会 場:
松原市立総合福祉会館2F
   (近鉄南大阪線河内松原駅南西へ約10分)
 

協 賛:松原ボランティア連絡会
申し込み〆切:1月19日(木)

河内の松原市で明治初期より140年あひる及び合鴨づくり一筋。
新鮮・安全・美味しい「河内鴨」を「ツムラ本店」はめざしてこられました。
孵化・飼育から処理、加工、卸・小売まで、文字通りの一貫体制。
食の安全が問われるこの時代だからこそ、味だけではなく安心にもこだわって
「河内鴨」を生産・販売しておられます。
「地球規模で考え、地域で行動する」私たち。
今回は海外からのゲストではなく、地域の活性化に目を向けました。
今まさに地元の松原でがんばっておられる方から学びます
 

 
お問い合わせ
主催:()アジア協会アジア友の会(JAFS)松原
   世話人;橋本末子
   
Tel/Fax 072-332-7097
   
()アジア協会アジア友の会 本部(担当:青木洋介)
   
Tel 06-6444-0587Fax 06-6444-0581


第57回松原ぞうすいの会レポート②シャフウィナさん報告 インドネシア・アチェ&東北へ 復興への願い

2011年07月28日 | ぞうすいの会・ゲスト

心をひとつに~がんばろうNIPPON~
収益金の半分は、JAFSの南三陸町被災地支援に、
半分は従来どうりアジアの井戸建設資金になります。

第57回JAFS松原ぞうすいの会
インドネシア・アチェから東北へ
復興への願い 虹のように


■日 時:2011年7月23日(日)12:00~14:00 
■ゲスト:シャフウィナ さん (インドネシア アチェ)
■お話し:アチェと東北、津波災害のその後と私のボランティア活動
■料 理:チキンカレー
     ガドガド(サラダ)
     スウィーツ(ココナツミルクとかぼちゃ、バナナ入り)   
     ケーキ(ブルーベリー入り)
■会 場:松原市立総合福祉会館2F
■協 賛:松原ボランティア連絡会

★★★★シャフウィナさんのお話内容★★★★ 

 
写真は南三陸町にて
★アチェについて

インドネシアにはスマトラ、ジャワ、スラウェシ、バリ、ロンボク、コモド、など多くの島に300の民族がいます。インドネシアは20世紀になってできた新しい国です。以前から、島ごと、地域ごとに多様な文化があります。
スマトラ島のアチェには10の民族がいます。アチェ族は海岸にいます。衣装は金糸をよく使ってピカピカにします。たとえば他のガヨ族は中部にいて、同じアチェでも言語はまったく違います。

ACEHのAとはアラビア、Cとは中国、Eとはヨーロッパ、Hとはインドを表すと言われています。交通の要地にあるので、いろいろな民族が混ざっていて、顔がインドネシアの他の地域の人とは違う印象です。

アチェの人々の宗教はほとんどがイスラム教です。女性は頭からこうやってスカーフをかぶっています。
インドネシアではイスラム教、キリスト教、仏教など個人が何の宗教を信じているかをはっきりさせています。日本人の感覚では分かりにくいかもしれませんが、無宗教というのはインドネシアではダメなのです。日本人がよく行くバリ島はヒンズー教です。

 15世紀にはアチェ王国というのがあって、女性の王も5人いました。1873~1904年の対オランダ戦争がありました。オランダに他の島は占領されても、アチェのみ自由を守りました。軍隊長には女性もいました。

 アチェのコーヒーはおいしくて1杯35円くらいで飲めます。作り方はとても濃くいれます。砂糖をいっぱい入れてとても甘いです。昔は男だけの飲み物で、女性はお茶を飲んでいましたが、今では女性もコーヒーを飲みます。

  ★インド洋大地震 津波の日のアチェ(2004年12月24日7:58AM)

津波の日は日曜日でした。普段の日曜日の朝を紹介しましょう。

皆、朝早くは祈りの時間です。祈りの後、コーヒーおお店で飲んで6時くらいに家に帰ります。水牛に子どもたちは草を食べさせます。農家の人たちは町に出て、朝5時から10時くらいまで市場で野菜を売ります。そんなのんびりした朝でした。

20万人近くの人が亡くなりました。40mの津波が来たのです。私のおじいさん、いとこも亡くなりました。大学の先生も亡くなりました。モスクだけが残って、皆で祈りました。被災者はテント生活が始まりました。

私の父の家は海岸から5㎞のところにあり、津波の最後の到達から1㎞のところで助かりました。
なかにはこんな話もあります。津波で夫が流されて助かった妻は再婚したのですが、なんと夫はスリランカまで流されていて3年後に戻って来たというのです!その後どうなったのか、私は知りませんが。
バスケットボールにしがみついて浮かんでいて助かった、いとこの男の子もいます。流されたときには、激しく動くのではなく、何もしないで流されるほうが体力を失わずにいいと言います。そのいとこは助かり、3日後に父も見つかりました。しかしその子の母も、妹も亡くなりました。

 アチェの人は銀行にお金を預けません。そのかわりに「金」を買います。本当に全財産が失われたのです。

海岸から2㎞以内は家を建ててはだめだと言われているのですが、次の津波が100年後だったら構わないと言って、また同じ場所に家を建てて住む人もいました。

 動物にはわかるのでしょうか。1日前に鳥たちはどこかへ行ってしまったという話も聞きます。

【ウィナさん提供資料】
被害状況    インド洋大地震   アチェ   東北関東大震災  東北
現地時間    2004年12月24日(日)  2011年3月11日(金)
        午前7:58          
午後2:46
マグニチュード 9.1-9.3           
 9.0
地表からの深さ 30km           
   32km
震源地     インド洋            太平洋
中心からの距離 バンダ アチェ市から250km   仙台市から
125km
津波の高さ   5-42m           3-38m
津波到達時間  地震から24-25分後       地震から10-45
分後
被害領域    8地域             6県
死者数     20万人            
死者15327人+
                        行方不明者8343人6月1日
人口      バンダアチェ 264,618人 南三陸  19,170人
地震の後           219,
070人        9,750人
        45,548人(人口の17%) 9420人(人口の49%)
元の領域の広さ 64,8k㎡          163.74k㎡

★アチェでの支援活動・日本との違い

 

水はオーストラリアの軍隊が浄水器の車で来て、海水から水を作りました。アメリカは船の中で医療活動を行っていました。

 アチェでは半数の人が親戚や友人の家に避難しました。あとはテント生活でした。日本は避難所の建物の中でいる人が多かったです。日本は寒かったこともあります。日本では片付ける時もごみを分別していました。レスキューは、日本は30分後に来ました。アチェでは紛争地区なので12時間後になって来ました。外国のレスキューは3日後でした。

 アチェでは津波以前に紛争がありました。1976年から独立運動があり、98年からの激しい戦いで1万人が亡くなりました。ですから外国人はアチェに入れなくなっていました。BRRという復興のための会社が作られ、窓口はそこに一本化されました。家や道も作られ、日本やアメリカは一番大きく復興支援事業に貢献しました。アジア協会はマングローブの植林を行いました。現地では日本と違い、パワーショベルなどの大きな重機も入れないところは、象が活躍しました。仮設住宅は半年後から作られました。それまではテントでした。日本ではもっと早く、3か月後から仮設住宅が作られています。日本では学校で防災教育が普段からありますが、アチェでは津波のあと、ようやく防災教育がはじまりました。

 私はJAFSの田中さん、永井さんと一緒にJAFSの支援活動に参加しました。ダヤバルという場所がJAFS支援活動場所でした。折り紙を私は持って行きました。子どもたちが喜んでくれました。そして、破壊された海岸沿いに、マングローブの植栽を行いました。

★東日本大震災の被災地支援に参加・留意したこと

インドネシア大使館は地震後東北在住のインドネシア人を調べました。気仙沼に研修生がたくさんいました。大使館はバスで彼らを迎えに行きました。

私は自身がアチェで日本の支援を受けたので、私もお返ししたいと思いました。

南三陸町は金曜日の午後2:46分で皆さん仕事中の地震でした。
私はJAFSの第3次隊に参加して、歌津で炊き出しの世話をしました。

 JAFSの東北支援に参加したときに留意したことがあります。
子どもたちの心のケアが大切です。アチェでもそうでした。
私は友だちと遊んだり、絵を書いたりする心の癒しに気をつけました。
また、津波で疲れた心を、おいしい料理でなごませたいとも思いました。
そこでココナツミルクなどの材料を持って行って、向こうでインドネシアのカレーを作りました。炊き出しメニューはもう決まっていたので、JAFSの青木さんが特別企画をしました。喜んでもらえました。

(余談)
アチェのときもトルコの人たちがケバブを作っていました。
外国人向けに外国レストランもたくさんありました。
けれども、コーヒーだけはアチェのコーヒーにはかないませんでしたので、新しくできたコーヒー店はお店を閉めました。

 ★ウィナさんの考える復興のありかた

支援の形は、可哀そう、だからあげる、特にお金のことばかりになります。が、お金を貰うだけではなく、一緒に復興に参加することが大切と思います。自分の村を立て直すことは、ただ貰うだけではなく、一緒に行うことが大切と考えます。

2006年のジョグジャカルタの地震の時は、ジョグジャカルタの王様は村人が一緒に家を建てることを勧めました。2004年のアチェの津波の時は村人は仮設住宅は、作ったものを貰うだけでした。故郷、ローカルコミュニティは大事です。復興でつくりあげる町の姿は、政府が決めるのではなく、復興後の村の形をどんなものにするか、その地域の人が一緒に考え、下からの動きとすることが大切です。時間はかかるのですが。

 

 美味しいインドネシアカレーとお話で、大満足の昼下がりでした。
 ウィナさんの笑顔が素敵ですね。 民俗衣装も美しかったです。
 


面白すぎるオスカルさん!魅力再発見コロンビア!第56回松原ぞうすいの会レポート④社会編

2011年05月26日 | ぞうすいの会・ゲスト

心をひとつに~がんばろうNIPPON~
収益金の半分は、JAFSの南三陸町被災地支援に、
半分は従来どうりアジアの井戸建設資金になります。

第56回JAFS松原ぞうすいの会
南米コロンビア 魅力あふれる多様な社会

■日 時:2011年5月22日(日)12:00~14:00 
■ゲスト:オスカル ピネダ 氏 (コロンビア)
      サルサ・インストラクター
■お話し:多様な社会 コロンビア ~ 自然・人・文化・食べ物~
■料 理:フリホレス(コロンビア豆料理)
■会 場:松原市立総合福祉会館2F
■協 賛:松原ボランティア連絡会

前回の人・文化編に続きまして・・・

■社会

南米社会の多くがそうであるように、貧富の差がコロンビアでも大きいです。

格差社会です。コロンビアの課題です。

 

 

ゲリラたちは、かつてゲバラの時代には理想を掲げていたのかもしれませんが、

現在の姿は変質しているように思えます。

食べていくための資金源を確保するために活動しているように見えます。

また、人数も減っています。

 

 押収された麻薬です。以前とは違い、ずいぶんと改善されてきました。

 

 ■質問コーナー

・サルサとサンバはどう違うのですか?→三味線と沖縄の三線くらい違います。サルサのほうがヨーロッパの影響が大きいです。サンバはアフリカの影響が大きいです。

・黒人と白人の戦いは、アメリカのようにありましたか?→アメリカのような激しい黒人への差別はありませんでした。コロンビアはMIX社会です。

・先住民の言葉は?→ケチュア語などです。学校はスペイン語ですが、最近は滅んでいくケチュア語を保護するため教えられているところもあります。

 ・「コロンビアの今までのイメージはどうでしたか?」というオスカルさんの質問→参加者からコロンビア・コーヒーが有名。かつては麻薬の話を聞いた。最近はどうなのか知りたかった。

麻薬のイメージはもはや過去のもの。治安も良くなり、観光客も増えています。なぜなら、美しい自然が豊かで魅力いっぱいのコロンビアだから。陽気で明るく人懐っこいコロンビアの人々が迎えてくれるから。

  

 コロンビア人とわかると、空港での税関の厳しい対応、財布の中まで調べられたことも。ただし、日本の税関は良い。ハイ、コロンビアね。コーヒーね。どうぞどうぞって通してくれる。(笑)シンガポールでタクシー運転手にコロンビアは、麻薬とマフィアの悪い国と失礼な対応を受けたこと、笑いを交えながら、次々と紹介するオスカルさん。コロンビアから来たと言うだけで、オスカルさんには不本意な「なぜ???」の経験がいっぱいです。だから、今の本当のコロンビアの姿を知ってほしいと思っています。だから、こうやってコロンビアの話をいっぱい日本の人に伝えています。また、日本の本当の姿、コロンビアで伝えています。もう、ちょんまげ姿はいないとか(笑)

 

 参加者からは、シンガポールで同じく日本人と言うだけで「たくさんの人を殺した国」から来たといわれて当惑した経験が紹介されました。過去の歴史的事実をから学びつつ、未来を築く。お互いの今の姿を知ることなく、過去のイメージや関係でとどまっている限り、前へは進めません。良好な関係を築くためにはお互いを知ってもらうための対話の努力も必要ですね。

 

新婚ほやほやの素敵なご夫婦、お幸せに!

 

オスカルさんの結婚式でシャンソンを披露された東さんが再会。
再び素敵なシャンソンを披露された。一同うっとり。

 宮城県南三陸町の被災地支援に行かれたJAFS事務局青木さんが現地報告。

  ■以下は感想から。

・ステレオタイプでその国の人々の一人ひとりを、悪しき一つのイメージで固定してしまうことは国際理解の妨げです。私たちの中にもそのような偏見が残っていないか、もう一度ふりかえって見ることが大切と知りました。また何国人という枠で捉える前に1人の同じ地球市民として隣人としてお付き合いしたいです。オスカルさんのイメージでコロンビアのイメージが変わりました。

・オスカルさんのお話はとても分かりやすく、コロンビアという国について理解が深まった。良い質問もたくさんあり、一層盛りあがった。

・時間的には2時には終了したいと思っていたが、オスカルさんとの時間の打ち合わせが不十分なこともあり、長引いてしまった。2時までと思っている参加者には申し訳なかった。

・お料理はオスカルシェフの指導で楽しくおいしく出来た。参加者も本当に協力的であった。今回は量的にも十分で安心。(24名で米1升4合)
・東さんの歌はやはり上手だった。