高知ファンクラブ

“高知をもっと元気にする”ボランティア集団、「高知ファンクラブ」のブログです。

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 ・・・戦友を失いました

2011-02-19 | 2011年2月~の記事

戦友を失いました            情報プラットフォーム、No.281、2月号、2011

 


訃報に接したのは21世紀に入った直後である。越田豊先生を失ってから10年。
「鈴木先生、”バカ”の口癖は止めた方が良いです。」に「越田先生の”アホ と
ちゃいまっか”はきついです。」とやり返したことを思い出す。2001年3月21日の
一期生の卒業式に先立ち行われた追悼式で鈴木(当時副学 長)が読み上げたもの
を、越田先生を偲びながら採録したい。(Flying Fish(高知工科大学NEWS
LETTER)、No.14(2001,3)に掲載)


         ----追悼 越田 豊 副学長----


 戦友を失いました。高知工科大学を創るという戦場での戦いは熾烈でした。戦
いの相手は誰の心の中にでもある「固定観念」でした。どこに潜んでい るか分
からない相手です。この戦いは8年前に始まりました。副学長として共に、何時
も戦いの先頭を走っていたように思います。

 危篤と伺って駆けつけた1月28日の日曜日。先生の手を握りながら「しっかり
せよと、抱き起こし」の戦友の歌を思い出していました。しかし、友 は顔を上
げてくれません。手の温もりだけが伝わってきました。

 2月2日の告別式の帰り、「戦い済んで、日は落ちて」と心で歌い、涙しながら
伊丹からの高知便に乗りました。もうすぐ大学が出来て4年。そこま で近づいて
きた卒業式。第一期生を送り出す今日このときに、ここにいる卒業生の晴れ姿を
見ることなく、あの世へ旅立たねばならなかったことは大変 な心残りだったで
あろうと推察いたします。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 私の不平や愚痴を黙って聞いてくれた先生、持って行きようのない憤りをたし
なめてくれた先生でした。関西弁特有の穏やかな調子であっても、厳し い内容
を盛り込んだ先生の語り口が懐かしく思い出されます。

 何時だったかはっきりと覚えておりませんが、京都の鱧料理をご馳走になった
ことがあります。これは私の魚だよと言って居られました。豊の魚を 「ハモ」
と呼ぶことを知りませんでした。その時、この次は私が私の魚で奢らせてくださ
いと申し上げました。「スズキ」のフランス料理のつもりで機 会を探していた
のですが、借りになってしまいました。

 「何故、生き物は雄と雌があるのですか」、「その必要性は」、「生物にとっ
てどんな利得があるのですか」と質問したことがあります。これを読ん で下さ
いと渡された本、お返しできずにお借りしたままになっています。新潮選書「な
ぜオスとメスがあるのか」です。先生の思い出、先生の記念とし たいと思いま
す。また読み返してみると、さらに疑問が出てきます。でも、それをぶつける人
はもうこの世にはいません。

 高知工科大学を離れ、お互いに歳を重ねた5年後、10年後に、久しぶりにお会
いして、あのときは大変でしたね、今だから言えるけどこんなだった よ、と
いった会話を先生としている情景を夢に描いていました。残念で、残念でなりま
せん。誰よりも学生が好きで、学生諸君の身になって考える先生 でした。今日
の卒業生のことを最も気に掛けておられた先生でした。先生の情熱や思いは、本
学の学生・卒業生・教職員全員に、永遠に受け継がれてゆ くことでしょう。先
生、これまでありがとうございました。そして、お疲れさまでした。ここに謹ん
で越田先生のご冥福をお祈り申し上げます。

 

ご感想、ご意見、耳寄りな情報をお聞かせ下さい。

鈴木朝夫   s-tomoo@diary.ocn.ne.jp

高知県香美郡土佐山田町植718   Tel 0887-52-5154

 

 鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

鈴木朝夫の講演・出版の記録

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羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界5

2011-02-19 | 2011年2月~の記事

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界5

 

09~竹村家住宅  国指定重要文化財

 東の店舗部分は230年、西の客間は170年前のもの。
 幕府の巡検使を迎えた程の格式の高い住宅で、
 高知城「懐徳館」と同様の貼り付け壁(和紙貼り付け)。
 付け書院の花頭窓は、土佐でしか見られない特徴である。
 東棟(店舗・屋号を黒金屋)、中棟(住居)、西棟(客間)の
 三棟からなっている。
 入口は西と東の2ヵ所で、西門は巡検使や高官を迎える
 正門で、東門は家人の入口である。

09~竹村分家(マル久呉服店)

 分家の初代は、安右衛門守信で安政6年(1777)に
 本家より分家する。屋号を「 久 」を掲げた
 建築は、文政11年(1828)に、そして明治5年に改修。
 当初は質屋を営み、次第に発展して呉服商となる。
 三代目安七守本のころ、土佐国西部では唯一の
 絹織物商として繁盛した。
 この安七が店舗と住居を別棟として
 連続させた家を新築している。

 

羽迫博己さんの、町屋あれこれ

羽迫博己さんの、町屋あれこれ・・・いの町編

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羽迫博己さんの、土佐人の銅像20・・・板垣退助先生像

2011-02-17 | 2011年2月~の記事

羽迫博己さんの、土佐人の銅像20・・・板垣退助先生像

天保8年(1837)4月17日、土佐藩馬廻格 
   乾永六の長男として高知城下中島町に生れた。
 少年時代から学問よりも相撲や闘犬などの勝負事を好み、
   士格青年の社団組織「盛組」の中心人物として
   乱暴を働き処分を受けている。
 安政2年(1855)には1年間江戸勤番を勤めるが、安政
   3年8月には総領職没収、城下四ヵ村禁足という重い
   処分を受けて、3年間城西神田村で生活したこともある。
 万延元年(1860)父の死去により、知行を50石削られて
   220石で家督を継ぎ、時の仕置役 吉田東洋の
   推薦を受けて藩政に携わり、騎兵術、蘭式兵学を学んだ。
 慶応4年(1868)の戊辰戦争には東山道先鋒総督府参謀
   として出征、その功績により、版籍奉還後は高知藩
   山内豊範の補佐役大参事となった。
 のち明治政府の参議となったが、明治6年征韓論に敗れて
   西郷隆盛らとともに辞任した。
 翌7年1月、同志とともに「愛国公党」を結成、民選議院
   設立の建言を政府に提出、高知に帰って片岡健吉らと
   立志社を設立して自由民権運動を展開した。
 明治15年4月6日、自由党総理として遊説中、岐阜で
   暴漢に刺されたとき、血まみれの中で口にした「板垣
   死すとも自由は死せず」の一言が新聞その他で報道
   され、この言葉が自由民権運動の合言葉になると
   ともに、彼は一躍自由民権運動の英雄となった。
 同年11月から7ヵ月にわたる欧州視察にあたっては、
   その旅費の出所に疑惑が生じ、党内に亀裂を生じる
   など、彼らの運動も曲折を重ねたが、明治22年の
   憲法発布、翌年の国会開設への道を切り開いた。
 その後、板垣は伊藤博文内閣の内務大臣などの要職に
   つくも、明治33年引退後は社会改良運動に尽くした。
 大正8年死亡 83歳。 あぞのに分骨堂がある。

板垣は角刀道振興にも力を尽くし、国技館の名付け親とも
   言われるほどで、記念角刀興行をし、純益15,797円
   が寄贈され、またそれ以外に募金が33,000円に上り
   大正13年銅像が建設されたが、戦時中供出された。

     除 幕: 昭和31年5月11日
     題 字: 板垣退助先生像
     規 模: 本体~2,2 ㍍  台座~4,205 ㍍
           総高~6,405 ㍍
                      事業費: 250万円

 

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土佐の銅像と 津江美和さんの写真

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「鏡川早朝ウォーキング」のポストカード・・・その3  鏡川に雪が積もる

2011-02-17 | 2011年2月~の記事

「鏡川早朝ウォーキング」のポストカード・・・その3  鏡川に雪が積もる

龍馬も泳いだ鏡川  撮影12月 鏡川写楽の会  水田 豊さん撮影

 

「鏡川早朝ウォーキング」見所・名所・史跡案内

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羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界3

2011-02-17 | 2011年2月~の記事

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界3

 

10~司牡丹 酒蔵

 長大な酒蔵は、長さ85mで国内でも有数の長さを誇る。
 建築は天保9年(1839)で、東西2棟を繋いだものである。
 東棟は「黒金屋本家」、西棟は「黒金屋出店」であった。
 幕末の頃は、上町周辺で9軒も(「黒金屋本家」「出店」
 「岩屋」「入吉屋」「生金屋」「西秤屋」「吉田屋」「岸屋」
 「高橋屋」)造り酒屋があったが、やがて淘汰され、
 大正7年には3軒になり、竹村本家・竹村出店・浜口家が
 合併して「佐川醸造」を設立した。
 その後、「司牡丹」に発展した。

 

07~町の駅、観光案内所

 この建物は武村本家の貸家棟であり、三軒長屋
 (東棟・中棟・西棟)の形式を留めた古い建物である。
 東棟は当初、納屋として建築されたが、後に住宅として
 改築。中棟はかっては味噌蔵であったものを、終戦後、
 住宅に改造後に、納屋として建築。
 西棟は大正期頃までは、高陽銀行(現四国銀行)
 佐川支店として使用されていた。
 現在は、中央の家を、町の駅として観光案内や、
 おみやげの販売もしています。
      ~一寸一服いかがでしょう~

 

 

羽迫博己さんの、町屋あれこれ

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2月20日、「守ろう仁淀川!!エコカーニバルin土佐市」 の開催です

2011-02-17 | 2011年2月~の記事

高知県仁淀川町駐在の県・地域支援企画員の西森です。
今週末のイベント情報をお知らせします。

このイベントは、リサイクル活動で創出した資金が、仁淀川清流保全活動
に活用されることで、自分たちにも参加できるエコ活動があることに気づ
いてもらう、住民参加型のイベントです。(オープンなイベントです)

多くの皆さんのご来場をお待ちしていますので、お気軽にお越しください。

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「守ろう仁淀川!!エコカーニバルin土佐市」 の開催

日時:平成23年2月20日(日)10時から15時
   ※雨天の場合は2月27日(日)
場所:土佐市「ホームセンターリッチ土佐店」西駐車場(土佐市高岡町甲725-1)



このイベントに向けて回収した着なくなった服のリサイクル販売や、主催者エコネコ
加盟団体が実施している環境保全活動のPR・体験などのイベントが開催されます。
服のリサイクル販売による売上金は、高知県が昨年3月に策定した第2次仁淀川清流
保全計画の取組みを実践する経費に活用されます。
(※本事業は、高知県豊かな環境づくり総合支援事業の補助で実施します。)

☆詳しくはチラシをご参照ください。

イベント内容
   ◇リサイクル衣類販売
 (子供服、Tシャツ、ジーンズその他たくさんの服が並びます。)
販売はチケット5枚(衣類5点分)を、前売200円、当日300円です。
前売券は、サンプラザ各店サービスカウンターにて販売しています。

   ◇各種コーナー
    ・電車のしくみをまなぼう
    ・環境啓発コーナー
    ・楽しい木工教室
    ・エコ工作体験
    ・廃油石鹸づくり体験と販売
    ・楽しくエコを学べるトラック「えこまなぶ」
    ・マグロ販売
    ・老舗鍛冶屋の刃物研ぎ(研いで欲しい刃物をお持ちください)
    ・余り布でエコバック・雑巾づくり
    ・リサイクル商品販売
    ・どんぐりの木・花の苗の無料配布
    ・新聞エコバックをつくろう
    ・竹を使って輪投げしよう
    ・手づくりクッキー販売
    ・仁淀川環境PR、その他地場産品販売

     ◇ステージ
    ・スガジャズダンススタジオ「レインボーチルドレン」
    ・上東パンの学校「スティールパン演奏」

<主催・お問い合わせ先>
エコネコ事務局(株式会社暮らしの情報社 名取弘史)
TEL088-873-5066

こちらでもPRしています♪(ブログ)
http://ameblo.jp/sup2410/entry-10795471241.html


■エコネコとは
地球温暖化防止や清流保全のため、事業者や各種団体などがネット
ワークを構築し、県民一人一人に、環境保全への関心を高めてもら
うための活動を企画・提案・実施していく為に昨年10月に結成さ
れました任意団体です。
参加団体(企業)は、(株)暮らしの情報社、(株)サンプラザ
高知大学環境サークルESWIQ、土佐電気鉄道(株)、積和建設四国(株)、
学研教室高知事務局、によど自然素材等活用研究会、高知ファンクラブなど。

以上、お気軽にお越しください~♪

************************************************
高知県 産業振興推進部 地域づくり支援課
地域支援企画員(仁淀川町駐在)
Name: 西森文明(ニシモリフミアキ)
Add:fumiaki_nishimori@ken4.pref.kochi.lg.jp
Tel: 0889-20-2072   携帯 090-7780-8073
〒781-1501 仁淀川町大崎214 仁淀川町基幹集落センター
私のツイッターはこちら↓
http://twitter.com/nishimori69
私のブログはこちら↓
http://ameblo.jp/sup2410/
************************************************
仁淀川町PR 特色あるサイト!ぜひアクセスを!
■仁淀川町役場(行政・観光総合案内)
 http://www.town.niyodogawa.kochi.jp/
■武田勝頼土佐の会(伝説歴史ミステリー)
 http://katsuyoritosa.web.fc2.com/
■によど自然素材等活用研究会(エコ・地域づくり)
 http://www.2410riv.jp/
■山村自然楽校「しもなの郷」(自然体験型宿泊施設)
 http://www14.plala.or.jp/shimona23/index.html
■中津渓谷「ゆの森」(渓谷と温泉そして、フレンチ)
 http://www.yunomori.jp/
■安居渓谷「宝来荘」(紅葉、滝の渓谷美!バンガロー)
 http://www11.ocn.ne.jp/~horaiso/
■秋葉の宿「仁淀川町観光センター」(湖水の眺め最高!)
 http://www2.ocn.ne.jp/~niyodo/
■池川茶業組合(農林水産大臣賞受賞のおいしい新茶!)
 http://ikegawacha.jp/
■木と人交流館「木どり家」(安価に木工づくり)
 http://www5.ocn.ne.jp/~kidoriya/index.html
■田舎のコンビニ「おしおか」(お弁当もやっています!)
 http://oshioka.web.fc2.com/
■(有)土佐自然工場(イタドリキムチはいかが?)
 http://www.tosako.com/
さらにリンクは増えていくかもしれません。
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根木さんの「鏡川ML」 その7 鏡川・お米の価値

2011-02-17 | 2011年2月~の記事

根木さんの「鏡川ML」 その7 鏡川・お米の価値

たからちゃんネットの皆さん、おはようございます。

 ●高知駅前や桂浜に「土佐勤王党の3人像」を並べることについて、

 このネットや、高知新聞で議論が、湧き起っていますね。
 ひとつ気にかかるのは、銅像という「芸術様式」を我々県民が、理解して
 いるかどうかです。生野さんは、「製作者」であるので、よくわかって
 おられますね。
  「原点」は、司馬さんのメッセージに込められていると思います。
 そのメッセージを以下、再度登場させました。
 
 <司馬さんが、昭和63年に銅像建設物故者追悼会に寄せたメッセージから抜粋>
 
  銅像の竜馬さん、おめでとう。
  あなたは、この場所を気に入っておられるようですね。
  私もここが大好きです。世界じゅうで、あなたが立つ場所はここしかないのでは
  ないかと、私はここに来るたびに思うのです。
 
  あなたもご存知のように、銅像という芸術様式は、ヨーロッパで興って完成しました。
  銅像の出来具合以上に、銅像がおかれる空間が大切なのです。その点日本の銅像は、
  ほとんどが、所を得ていないのです。
 
  観光ガイドをしている中で、お客さんから、言われるのが、
 高知の「石碑」の多さです。統計的なものを調べては、いないですが、
 言われてみれば、どこかしこ、あります。
 きっと、「銅像や石碑などの記念物」の好きな県民性なのでしょう。
 個人や民間で「記念物」を作るのは、とやかく言うものでは、
 ありませんが、県や市町村が、「記念物」を作るときには、
 「熟慮と相談」をしてもらいたいものです。
 水木さんや北村さん、下司さんたちのご意見のように「税金」を
 使うわけですから。
 
その7 鏡川・お米の価値
   :このような「地域通貨」が、ありました
 
 お米の現物支給(高知県産米)を別の視点(地震時の非常食)から、
考えてみました。
 
<その5鏡川・年収300万と3人扶持切米5石の抜粋> 
 
  最近、「龍馬研究会」の会報の発送作業を行いました。
  その中で、「お米」で”支払い”のはなしが、出ました。
   龍馬の時代のように、お米で代価を支払う、これって、
 おもしろいじゃない?
 高知で取れたお米を「支給」すれば、高知県からお金が、出て行かないし、
 県内産のお米の消費につながるし、お金も循環、これこそ「地産地消」。
  『全部、「お米」の給料をもらっても、困るけれども、一部なら、
 いいんじゃない!』、の結論になりました。
  ・・・。
  【余談】坂本家の年収
 
    県職龍馬くんの遠戚:坂本(龍馬)家の領地高は、
   161石8斗4升。
   高知もしくは、その近辺に居住した郷士82人の平均は、50石程度。
   武市半平太は、51石Ⅰ斗8升7合、岡田以蔵20石6斗4升7合。
 
 
● 観光ガイドで聞かれるのが、坂本家の年収を「現在のお金」に直せば、
いくらになりますか?、です。
 
 お米や、一両が、現在のお金に直せば、いくらか?、は「基準」になるものによって、
 相当、違ってきます。
 ある人は、「一杯のそばの値段」、ある人は、「大工さんの手間賃」を基準に
 算出したりしています。
 これも、単なる「目安」にすぎないと私は、思います。第一、「物の価値」が、
 現在とは、違います。
 現在の百円ショップで売っている「竹のザル」と当時の竹のザルは、物の「値打ち」が、
 違います。
 観光ガイドでは、「一杯のそばの基準」をもとにした算出を使ったりもしますが、
 それよりも、上記の半平太や以蔵の石高をもとにしたはなしをすることが、
 多いです。
 『以蔵は、20石ほどですが、そんなに「貧乏」でもなく、ゼイタクは、
 できなかったが、ふつうの生活が、できたそうです。』ってなガイドです。
 
 
さて、お米通貨(現物支給)ですが、別の観点からの「提案」です。
 お米の価値:<お米は、優れた食品で、非常食に最適>
 
  皆さんのお家では、「お米の在庫」は、どれほどありますか。
 我が家では、1年に2度、1年分を「一括購入」します。
 高知市の自宅では、保管に困るので、安芸市の実家にほとんどを置いています。
 少し、遠方での保管ですが、「非常の際」の「備蓄」のつもりです。
 
 ●お米って、なんだろう?:日本の米(富山和子著、中公新書)より。
 
   第一に、栄養価が高く、栄養のバランスにおいても優れ、
   第2に、生産性の高い作物であり、
   第3に、長時間の保存に耐え、そして、
   第4に、おいしかった。
   ・・・日本人が、米を主食としてくることができたのも、また米を
   基本通貨とし給料の役割、貨幣の役割、金の役割を担わせてくることが
   できたのも、そんな国が世界には他になく、またそんな時代をつい最近
   まで続けてくることができたのも、「根底には「米さえ食っていれば」という
   「命の根源」への絶大な信頼があったからにほかならない。それこそは、
   その栄養価の裏打ちがあればこそであったろう。
   ・・・。(P・19)
 
 お米について、関心をもっていただければ、幸いです。

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界1

2011-02-15 | 2011年2月~の記事

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界1

 

01~町並み模型館
 
 ここには佐川町の上町周辺の古民家を、
 1/20に縮小した模型を展示しています。
 建物の外観、庭は勿論のこと、内部の障子や
 ふすま・掛軸・欄干にまで細かく再現しています。
 なお、模型の説明を(土・日のみ、佐川くろがね会
 )解り易く、ガイドいたします。
 プロの大工気分で、見学し、古民家の造り方と、
 構造、生活様式をご堪能ください。
 さらに、昔の職人の技が随所で見学できます。

 古民家は全国どこででも見られますが、
 ここでの時間と空間は、あなたにきっと大きな
 満足感、心のお土産を与えられるものと、
 信じています。

 

 

 

羽迫博己さんの、町屋あれこれ

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根木さんの「鏡川ML」 その4 鏡川:高知県って、どんなところ?

2011-02-15 | 2011年2月~の記事
鏡川MLの皆さん、おはようございます。
 
  ”変なオンちゃん”から始まった「鏡川シリーズ」、これからも
 随時、書き連ねて、行きたいと思います。
  いろいろな私のボランテイア活動や、私生活の中での体験をふまえた
 内容を、中味に展開する予定です。
 
  読んでいただければ、幸いです。
 
 2月13日の第2回鏡川早朝ウオーキングで出会った、「犬」を連れて、参加の方と少しおはなしをしました。
(坂本耕平さんが、「高知フアンクラブ」にアップして、くれた方です。)
 18才から東京に出られ、2年ほど前に高知に戻られたそうです。
推定ですが、40年以上県外生活をおくられたのでしょう。
高知へ戻って、改めて、高知をながめると魅力あるところだと思うそうです。
 
 
 <さて、 皆さんにとって高知県は、どんなところでしょうか。>
 
★高知県って、どんなところ?
 
 もう、10年くらい前ですが、娘が東京の大学に進学したときに
一番困った質問が、「高知県って、どんなところ?」、だったそうです。
 
 高知で育てば、ある程度、高知県のことは、知っています。
少し知っていても、相手に伝わるように「語れる」かは、別の事です。
高知について、語れる”域”、でなかったということです。
 
 先日、観光ガイドの同期仲間と今後の観光ガイドの役割や、方向性について、
話し合いを持ちました。
その中で、高知県のこどもたち(~高校生・大学生)って、高知県のことを
どれだけ知っているんだろうね、が話題になりました。
 
観光ガイドの皆さんから・・・
  
  
 郷土・高知県のことを何も知らないで、県外に出たり・社会に出ているんじゃ
ないだろうか。
「森」の関係でいえば、「森の出前授業」などのカタチでこどもたちに
森林の機能、植物のこと、いきもののこと、などを学校などに出向き
こどもたちに伝えています。
 でも、高知県の歴史のこと、人物のこと、遺跡、のことなどは、こどもたちに
誰かが、伝えているんだろうか?
こどもたちにこのことを伝える大きな役割を担っているのが、観光ガイドでは、
ないだろうか?
高知県外へ、出るにしても残るにしても、高知県に「誇り」を持ってもらいたいね。
  
  
         ・・・こんな、話になりました。
 
 「龍馬の生まれた町記念館」などにこどもたちが、来館して、また、
地域に出向いての「ガイド」も、実際は、行われており、協力もしております。
 でも、郷土を知り・誇りを持ってもらうために、観光ボランテイアガイド協会で、
もっと積極的に取り組む姿勢が、いるね、の話です。
 

 


2月13日の「鏡川早朝ウォーキング」、盛況でした!(その2)

2011-02-15 | 2011年2月~の記事

2月13日の「鏡川早朝ウォーキング」、6時30分みどりの広場に、約50人が参加されて、盛況でした!(その2)

月の瀬橋の上からは、北山に雪が降っている風景がきれいに見えました。ここからは高知城がきれいに見えたり、鏡川の流れが楽しめるスポットとして橋の中央まで来て、折り返しています。

この朝もきれいな高知城を望む事ができました。 

 

 こども達も何人か参加していました。この二人は、第四小学校の4年生です!と元気に応えてくれました。

4月のお楽しみオプションコースは、この桜並木です。今から満開の桜の下を、皆とだべりながら歩く楽しみを想像しました。

 

今朝の案内役は、「鏡川早朝ウォーキング」ファンクラブの嶋本事務局長(土佐観光ガイドボランティア )です。歩きながら、随所でスポット的に史跡案内を入れて、参加者を楽しませてくれていました。

「鏡川早朝ウォーキング」見所・名所・史跡案内

”地域の宝”を楽しみながら知る事を通して、大切にされたり、誇りに思ってもらえる雰囲気も盛り上がってくるのでは・・・

 

 

 

 

 肩に蛍光ベルトを掛けて参加されていました。暗い中でのウォーキングやジョギングなどの際は、事故防止のためにこのような取り組みがあったら良いね・・・と、推薦の記念写真を一枚!

 犬を連れた方が、途中から合流される場面もありました。わしらーはこの川で泳いで育った・・・など、昔の鏡川の話を聞かせていただきながら歩きました。

 

 

HN:鏡川 さんの記事

鏡川早朝ウォーキング ファンクラブ 

「鏡川早朝ウォーキング」見所・名所・史跡案内

「鏡川早朝ウォーキング」 に関するページ

第1回 鏡川こども祭 目次

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鏡川流域の情報交流会 に関するページ


羽迫博己さんの、土佐人の銅像19・・・岩崎弥太郎

2011-02-14 | 2011年2月~の記事

羽迫博己さんの、土佐人の銅像19・・・岩崎弥太郎

 

 

岩崎弥太郎先生

天保5年(1834)12月11日、安芸郡井ノ口の地下浪人・
   岩崎弥次郎の長男として生れた。
 少年時代から勉学に励み、三奇童の一人と称された。
 安政元年(1854)江戸に出て、翌年幕府直轄の学校
   「昌平校」の儒官あさかごんさいの元に入門した。

 しかし、父が投獄された知らせを受けて帰国、
   父の訴訟事件をめぐって役人を誹謗したとして、
    彼も一時牢につながれた。

 安政4年出獄後、高知城下鴨田村に住み、吉田東洋の
    門下生になる。
 6年以来、なかずとばずの時期があるが、慶応2年
   (1866)後藤象二郎らによって藩直営の商館・開成館
   が設立され、翌3年、弥太郎は長崎の出先機関
    「土佐商会」の主任として活躍することになった。

 長崎では坂本龍馬や薩摩の五代友厚などとの接触を通じて
   広い視野、自由な発想を注ぎ込まれたことが、その後の
    弥太郎の生き方に大きな影響を与えたと見られている。
 同年郷土から新留守居組に異例の昇進を果たし、明治2年
   (1869)大阪土佐商会主任となって大阪に出て、
   戊辰戦争に伴う軍用金の調達に外国貿易を活用して
    成果を挙げ、四党官権小参事に出世した。

 以後、弥太郎は大阪土佐商会から衣替えした土佐開成社の
   経営に当たる一方、半官半民の「九十九商会」を興した。
 そして譲り受けた藩船に岩崎家の紋所三階菱と、山内家の
   三つ葉柏を組み合わせて作った三菱の紋を付けて、
    東京大阪間の回送運輸業を開始した。

 

廃藩置県後は藩機能を脱却して「三ッ川商会」と改称、
   明治6年にはさらに「三菱商会」と改めて、
    三菱財閥の原型を確立した。
明治7年の佐賀の乱、台湾出兵、10年の西南の役に
   あたって、三菱は軍事輸送を一手に引き受け、また、
   外国汽船を駆逐するという国策に乗って、政府船舶
   の無償払い下げや補助金などの手厚い保護を受け
    海運界に揺ぎ無い地位を確立した。
 しかし、明治11年後ろ盾となった大久保利通が暗殺され、
   同14年政変で大隈重信派が排撃されると、三菱の
   独占を切り崩すため、政府主導で発足した共同運輸
   会社との激しい競争に晒されることになった。
 競争の激化から、政府は共倒れを心配して妥協を勧告、
   明治18年9月、両社は合併して
   「日本郵船会社」が発足するが弥太郎はそれを
    待たずして、同年2月7日病死した。 52歳。

       除 幕: 昭和61年7月12日
       題 字: 岩崎弥太郎先生  字 手島右卿
       規 模: 本体~3,3 ㍍  台座~2,64 ㍍
             総高~5,94 ㍍
                       事業費: 4,100万円

 

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土佐の銅像と 津江美和さんの写真

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羽迫博己さんの、町屋あれこれ・・・倉敷掲示板・インターネット情報~素材と人口 その2

2011-02-14 | 2011年2月~の記事

羽迫博己さんの、町屋あれこれ・・・倉敷掲示板・インターネット情報~素材と人口 その2

 

 

 

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根木さんの「鏡川ML」 その6 鏡川<変なオンちゃんの定義>

2011-02-14 | 2011年2月~の記事
根木さんの「鏡川ML」 その6 鏡川<変なオンちゃんの定義>
 
竹内さん、こんばんは。
 
  私も、竹内さん同様、土佐勤王党・党員3人を並べることについては、
 反対です。
  理由は、このネットで書いたように、「銅像は、置かれる空間が、大切
 と言う、司馬遼太郎さんの考えに、賛同するからです。
  一同に並べればいいと言うのは、観光のみの都合であって、銅像は、
 「芸術作品」であることを、全然考えて、ないのでしょう。
 
  高知県も”龍馬伝”で観光振興をはかる為に、「観光コンサルタント」を
 何人か、雇っていますね。
  当の観光コンサルタントの「考え」は、どうなんでしょうね。
 どんな風に考えているか、聞いてみたいものですね。
 
  高知駅前と桂浜に、「3体像」を並べることについて、ある女性から、
 こんなことを言われました。
 
  『高知って、お金が、ないって、いいながら、3体像を並べるお金は、
  どこから、出るんだろうね。
  お金が、有り余っているわけでないのに、もっと有効な使い道を
  考えてほしい。』
 
 
 
 ★その6 鏡川<変なオンちゃんの定義>
 
  高知県観光振興のため・土佐勤王党結成150年、・・・・だから、
 単純に「3体像」を並べる発想が、生まれたのでしょうか。
 
  これが、家庭の課題であれば、「そのお金、そんなことに使っていいの?」
 変なオンちゃんは、「美学」を持っています。
 
   『けんどねや、ちょっと待てよ。
    なりふり構わないようなみっともないことじゃ、ないろうね。』
 
  「土佐人」って、なんだろう、と考えたことがあります。
 私の定義では、土佐人を一言で、「表現」すると、「けんどねや精神を持った人」、
 となります。
 
  変なオンちゃんは、特有の「美学」を持っています。
 美学が、あるから、オンちゃんの存在が、「輝く」のです。
 変なオンちゃんは、皆、この美学に裏付けられた「けんどねや」精神に
 満ちています。
 
 
 ●この前に、変なオンちゃんの例であげた「西山 小鷹」は、実在の人物です。
 高知県人名事典から、彼の紹介を、以下します。
 
   【西山小鷹(しょうよう)】
    1859年~1928年。近代の漢詩人、名、麓。号、小鷹。
   安政6年6月13日、土佐藩士・西山禎吉直保の長男として生まれる。
   明治3年(1870)9月父を失い、以来母とともに小高坂村(高知市)
   西町52番屋敷の叔父・丸岡莞爾の家に寄寓(丸岡は同年上京)。
   小鷹という号は、小高坂をもじったものか。
 
    青年時代を迎えても就職せず、友人の横山又吉、山崎久典らの家を回っては
   徒食を続けた。弊衣破帽、いつのころか葬式の旗持ちをする人と知られたが、
   いかに貧窮しても権威にへつらわず、人の物は鼻紙1枚も盗まぬことを浪人の
   倫理とした。
 
    漢詩は、竹内峴南の南海吟社に属し、峴南に次ぐ技量の持ち主として
   称揚された。
   晩年は、長生をもてあましていたが、孫の言によれば昭和3年10月11日、
   高知市永国寺丁11番屋敷で死去したという。70才。
   墓は、高知市小高坂丹中山南下。墓表「奇詩人西山小鷹碣(けつ)」。
 

2月13日の「鏡川早朝ウォーキング」、盛況でした!(その1)

2011-02-14 | 2011年2月~の記事

2月13日の「鏡川早朝ウォーキング」、6時30分みどりの広場に、約50人が参加されて、盛況でした!

2月13日の日の出は、6時53分・・・6時30分に集合されたときはこんな状況でした。
神田の中村さんが、ビンにろうそくを灯して持参していただき、周りで"ミニ井戸端会議"の花が咲いていました。

来月の「鏡川早朝ウォーキング」予定日、3月13日の日の出は、6時20分・・・となっています。

 

松尾徹人代表(高知市観光協会会長)も参加され、朝のご挨拶をしていただきました。

2月13日のオプションコースは、テーマは水鳥、「水鳥の観察」写真も撮ろう!案内役の「鏡川写楽の会」会長の水田副代表から、簡単な紹介を受けて・・・出発です。

 

 

 

日の出が近い、東の空をバックに、防寒対策もしっかりの一同が出発進行です。

犬さんもいっしょに!犬を連れて散歩している仲間の参加も呼びかけてください・・・とお願いしました。

 

月の瀬橋の下で、ラジオ体操をされているお仲間さんもありました。

月の瀬橋の上からは、北山に雪が降っている風景がきれいに見えました。

手前に大きく写っている方、前回に続いて今朝も参加された、旧鏡村の村長をされていた川村貞夫市議です。鏡川上流域の代表して「鏡川こども祭」の副実行委員長の一人としても大変お世話になりました。

 

松尾徹人代表(高知市観光協会会長)は日程が詰まっていて、この記念のスナップ写真を撮った後、次の予定箇所へ移動されました。

 

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早朝ウォーキング」のポストカード・・・その1、月の瀬橋から見る高知城

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早朝ウォーキング」のポストカード・・・その1、月の瀬橋から見る高知城

雪の高知城  撮影12月 鏡川写楽の会  水田 豊さん撮影

 

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