高知ファンクラブ

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鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 ・・・戦友を失いました

2011-02-19 | 2011年2月~の記事

戦友を失いました            情報プラットフォーム、No.281、2月号、2011

 


訃報に接したのは21世紀に入った直後である。越田豊先生を失ってから10年。
「鈴木先生、”バカ”の口癖は止めた方が良いです。」に「越田先生の”アホ と
ちゃいまっか”はきついです。」とやり返したことを思い出す。2001年3月21日の
一期生の卒業式に先立ち行われた追悼式で鈴木(当時副学 長)が読み上げたもの
を、越田先生を偲びながら採録したい。(Flying Fish(高知工科大学NEWS
LETTER)、No.14(2001,3)に掲載)


         ----追悼 越田 豊 副学長----


 戦友を失いました。高知工科大学を創るという戦場での戦いは熾烈でした。戦
いの相手は誰の心の中にでもある「固定観念」でした。どこに潜んでい るか分
からない相手です。この戦いは8年前に始まりました。副学長として共に、何時
も戦いの先頭を走っていたように思います。

 危篤と伺って駆けつけた1月28日の日曜日。先生の手を握りながら「しっかり
せよと、抱き起こし」の戦友の歌を思い出していました。しかし、友 は顔を上
げてくれません。手の温もりだけが伝わってきました。

 2月2日の告別式の帰り、「戦い済んで、日は落ちて」と心で歌い、涙しながら
伊丹からの高知便に乗りました。もうすぐ大学が出来て4年。そこま で近づいて
きた卒業式。第一期生を送り出す今日このときに、ここにいる卒業生の晴れ姿を
見ることなく、あの世へ旅立たねばならなかったことは大変 な心残りだったで
あろうと推察いたします。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 私の不平や愚痴を黙って聞いてくれた先生、持って行きようのない憤りをたし
なめてくれた先生でした。関西弁特有の穏やかな調子であっても、厳し い内容
を盛り込んだ先生の語り口が懐かしく思い出されます。

 何時だったかはっきりと覚えておりませんが、京都の鱧料理をご馳走になった
ことがあります。これは私の魚だよと言って居られました。豊の魚を 「ハモ」
と呼ぶことを知りませんでした。その時、この次は私が私の魚で奢らせてくださ
いと申し上げました。「スズキ」のフランス料理のつもりで機 会を探していた
のですが、借りになってしまいました。

 「何故、生き物は雄と雌があるのですか」、「その必要性は」、「生物にとっ
てどんな利得があるのですか」と質問したことがあります。これを読ん で下さ
いと渡された本、お返しできずにお借りしたままになっています。新潮選書「な
ぜオスとメスがあるのか」です。先生の思い出、先生の記念とし たいと思いま
す。また読み返してみると、さらに疑問が出てきます。でも、それをぶつける人
はもうこの世にはいません。

 高知工科大学を離れ、お互いに歳を重ねた5年後、10年後に、久しぶりにお会
いして、あのときは大変でしたね、今だから言えるけどこんなだった よ、と
いった会話を先生としている情景を夢に描いていました。残念で、残念でなりま
せん。誰よりも学生が好きで、学生諸君の身になって考える先生 でした。今日
の卒業生のことを最も気に掛けておられた先生でした。先生の情熱や思いは、本
学の学生・卒業生・教職員全員に、永遠に受け継がれてゆ くことでしょう。先
生、これまでありがとうございました。そして、お疲れさまでした。ここに謹ん
で越田先生のご冥福をお祈り申し上げます。

 

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鈴木朝夫   s-tomoo@diary.ocn.ne.jp

高知県香美郡土佐山田町植718   Tel 0887-52-5154

 

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羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界5

2011-02-19 | 2011年2月~の記事

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界5

 

09~竹村家住宅  国指定重要文化財

 東の店舗部分は230年、西の客間は170年前のもの。
 幕府の巡検使を迎えた程の格式の高い住宅で、
 高知城「懐徳館」と同様の貼り付け壁(和紙貼り付け)。
 付け書院の花頭窓は、土佐でしか見られない特徴である。
 東棟(店舗・屋号を黒金屋)、中棟(住居)、西棟(客間)の
 三棟からなっている。
 入口は西と東の2ヵ所で、西門は巡検使や高官を迎える
 正門で、東門は家人の入口である。

09~竹村分家(マル久呉服店)

 分家の初代は、安右衛門守信で安政6年(1777)に
 本家より分家する。屋号を「 久 」を掲げた
 建築は、文政11年(1828)に、そして明治5年に改修。
 当初は質屋を営み、次第に発展して呉服商となる。
 三代目安七守本のころ、土佐国西部では唯一の
 絹織物商として繁盛した。
 この安七が店舗と住居を別棟として
 連続させた家を新築している。

 

羽迫博己さんの、町屋あれこれ

羽迫博己さんの、町屋あれこれ・・・いの町編

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