高知ファンクラブ

“高知をもっと元気にする”ボランティア集団、「高知ファンクラブ」のブログです。

羽迫博己さんの、土佐人の銅像19・・・岩崎弥太郎

2011-02-14 | 2011年2月~の記事

羽迫博己さんの、土佐人の銅像19・・・岩崎弥太郎

 

 

岩崎弥太郎先生

天保5年(1834)12月11日、安芸郡井ノ口の地下浪人・
   岩崎弥次郎の長男として生れた。
 少年時代から勉学に励み、三奇童の一人と称された。
 安政元年(1854)江戸に出て、翌年幕府直轄の学校
   「昌平校」の儒官あさかごんさいの元に入門した。

 しかし、父が投獄された知らせを受けて帰国、
   父の訴訟事件をめぐって役人を誹謗したとして、
    彼も一時牢につながれた。

 安政4年出獄後、高知城下鴨田村に住み、吉田東洋の
    門下生になる。
 6年以来、なかずとばずの時期があるが、慶応2年
   (1866)後藤象二郎らによって藩直営の商館・開成館
   が設立され、翌3年、弥太郎は長崎の出先機関
    「土佐商会」の主任として活躍することになった。

 長崎では坂本龍馬や薩摩の五代友厚などとの接触を通じて
   広い視野、自由な発想を注ぎ込まれたことが、その後の
    弥太郎の生き方に大きな影響を与えたと見られている。
 同年郷土から新留守居組に異例の昇進を果たし、明治2年
   (1869)大阪土佐商会主任となって大阪に出て、
   戊辰戦争に伴う軍用金の調達に外国貿易を活用して
    成果を挙げ、四党官権小参事に出世した。

 以後、弥太郎は大阪土佐商会から衣替えした土佐開成社の
   経営に当たる一方、半官半民の「九十九商会」を興した。
 そして譲り受けた藩船に岩崎家の紋所三階菱と、山内家の
   三つ葉柏を組み合わせて作った三菱の紋を付けて、
    東京大阪間の回送運輸業を開始した。

 

廃藩置県後は藩機能を脱却して「三ッ川商会」と改称、
   明治6年にはさらに「三菱商会」と改めて、
    三菱財閥の原型を確立した。
明治7年の佐賀の乱、台湾出兵、10年の西南の役に
   あたって、三菱は軍事輸送を一手に引き受け、また、
   外国汽船を駆逐するという国策に乗って、政府船舶
   の無償払い下げや補助金などの手厚い保護を受け
    海運界に揺ぎ無い地位を確立した。
 しかし、明治11年後ろ盾となった大久保利通が暗殺され、
   同14年政変で大隈重信派が排撃されると、三菱の
   独占を切り崩すため、政府主導で発足した共同運輸
   会社との激しい競争に晒されることになった。
 競争の激化から、政府は共倒れを心配して妥協を勧告、
   明治18年9月、両社は合併して
   「日本郵船会社」が発足するが弥太郎はそれを
    待たずして、同年2月7日病死した。 52歳。

       除 幕: 昭和61年7月12日
       題 字: 岩崎弥太郎先生  字 手島右卿
       規 模: 本体~3,3 ㍍  台座~2,64 ㍍
             総高~5,94 ㍍
                       事業費: 4,100万円

 

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羽迫博己さんの、町屋あれこれ・・・倉敷掲示板・インターネット情報~素材と人口 その2

2011-02-14 | 2011年2月~の記事

羽迫博己さんの、町屋あれこれ・・・倉敷掲示板・インターネット情報~素材と人口 その2

 

 

 

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根木さんの「鏡川ML」 その6 鏡川<変なオンちゃんの定義>

2011-02-14 | 2011年2月~の記事
根木さんの「鏡川ML」 その6 鏡川<変なオンちゃんの定義>
 
竹内さん、こんばんは。
 
  私も、竹内さん同様、土佐勤王党・党員3人を並べることについては、
 反対です。
  理由は、このネットで書いたように、「銅像は、置かれる空間が、大切
 と言う、司馬遼太郎さんの考えに、賛同するからです。
  一同に並べればいいと言うのは、観光のみの都合であって、銅像は、
 「芸術作品」であることを、全然考えて、ないのでしょう。
 
  高知県も”龍馬伝”で観光振興をはかる為に、「観光コンサルタント」を
 何人か、雇っていますね。
  当の観光コンサルタントの「考え」は、どうなんでしょうね。
 どんな風に考えているか、聞いてみたいものですね。
 
  高知駅前と桂浜に、「3体像」を並べることについて、ある女性から、
 こんなことを言われました。
 
  『高知って、お金が、ないって、いいながら、3体像を並べるお金は、
  どこから、出るんだろうね。
  お金が、有り余っているわけでないのに、もっと有効な使い道を
  考えてほしい。』
 
 
 
 ★その6 鏡川<変なオンちゃんの定義>
 
  高知県観光振興のため・土佐勤王党結成150年、・・・・だから、
 単純に「3体像」を並べる発想が、生まれたのでしょうか。
 
  これが、家庭の課題であれば、「そのお金、そんなことに使っていいの?」
 変なオンちゃんは、「美学」を持っています。
 
   『けんどねや、ちょっと待てよ。
    なりふり構わないようなみっともないことじゃ、ないろうね。』
 
  「土佐人」って、なんだろう、と考えたことがあります。
 私の定義では、土佐人を一言で、「表現」すると、「けんどねや精神を持った人」、
 となります。
 
  変なオンちゃんは、特有の「美学」を持っています。
 美学が、あるから、オンちゃんの存在が、「輝く」のです。
 変なオンちゃんは、皆、この美学に裏付けられた「けんどねや」精神に
 満ちています。
 
 
 ●この前に、変なオンちゃんの例であげた「西山 小鷹」は、実在の人物です。
 高知県人名事典から、彼の紹介を、以下します。
 
   【西山小鷹(しょうよう)】
    1859年~1928年。近代の漢詩人、名、麓。号、小鷹。
   安政6年6月13日、土佐藩士・西山禎吉直保の長男として生まれる。
   明治3年(1870)9月父を失い、以来母とともに小高坂村(高知市)
   西町52番屋敷の叔父・丸岡莞爾の家に寄寓(丸岡は同年上京)。
   小鷹という号は、小高坂をもじったものか。
 
    青年時代を迎えても就職せず、友人の横山又吉、山崎久典らの家を回っては
   徒食を続けた。弊衣破帽、いつのころか葬式の旗持ちをする人と知られたが、
   いかに貧窮しても権威にへつらわず、人の物は鼻紙1枚も盗まぬことを浪人の
   倫理とした。
 
    漢詩は、竹内峴南の南海吟社に属し、峴南に次ぐ技量の持ち主として
   称揚された。
   晩年は、長生をもてあましていたが、孫の言によれば昭和3年10月11日、
   高知市永国寺丁11番屋敷で死去したという。70才。
   墓は、高知市小高坂丹中山南下。墓表「奇詩人西山小鷹碣(けつ)」。
 

2月13日の「鏡川早朝ウォーキング」、盛況でした!(その1)

2011-02-14 | 2011年2月~の記事

2月13日の「鏡川早朝ウォーキング」、6時30分みどりの広場に、約50人が参加されて、盛況でした!

2月13日の日の出は、6時53分・・・6時30分に集合されたときはこんな状況でした。
神田の中村さんが、ビンにろうそくを灯して持参していただき、周りで"ミニ井戸端会議"の花が咲いていました。

来月の「鏡川早朝ウォーキング」予定日、3月13日の日の出は、6時20分・・・となっています。

 

松尾徹人代表(高知市観光協会会長)も参加され、朝のご挨拶をしていただきました。

2月13日のオプションコースは、テーマは水鳥、「水鳥の観察」写真も撮ろう!案内役の「鏡川写楽の会」会長の水田副代表から、簡単な紹介を受けて・・・出発です。

 

 

 

日の出が近い、東の空をバックに、防寒対策もしっかりの一同が出発進行です。

犬さんもいっしょに!犬を連れて散歩している仲間の参加も呼びかけてください・・・とお願いしました。

 

月の瀬橋の下で、ラジオ体操をされているお仲間さんもありました。

月の瀬橋の上からは、北山に雪が降っている風景がきれいに見えました。

手前に大きく写っている方、前回に続いて今朝も参加された、旧鏡村の村長をされていた川村貞夫市議です。鏡川上流域の代表して「鏡川こども祭」の副実行委員長の一人としても大変お世話になりました。

 

松尾徹人代表(高知市観光協会会長)は日程が詰まっていて、この記念のスナップ写真を撮った後、次の予定箇所へ移動されました。

 

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