岩田家のガラス芸術 BLOG 岩田の事

炎の贈り物 藤七・久利・糸子が織りなす岩田家のガラス芸術

「岩田藤七 ガラス十話」 3 美校時代の交友

2011-03-31 17:51:29 | 藤七の言葉
「ガラス十話」  岩田藤七       毎日新聞 昭和39年4月-5月に掲載 
                                
1 おいたち    2011/2/1掲載  
2 青年時代      2011/3/1掲載            
3 美校時代の交友  2011/4/1掲載          
4 建築                
5 岡田三郎助先生          
6 職人気質
7 和田三造先生
8 美の発見
9 物いわぬ師
10 道はけわしかった


「ガラス十話 3 美校時代の交友」

鐘を撞木で力いっぱい撞くとは、なにを意味するのか、
と大槻如電の弟子に当たる者に聞きに行ったら、師匠の謦咳(けいがい)に
親しく接することであり、卑屈さのない内弟子、遠慮なく師匠にふれ合う
歌舞伎独特の用言だと教えられた。

       美校時代の藤七

やがて私は、夜となく昼となく伊達跡の岡田先生画室へ通い出した。
もちろん、金工の最後の名工、海野勝、平田重幸(ともに帝室技芸員であった)
の細工場をたずね、仕事ぶりを拝見させていただき、両家とも十余人の弟子を
擁されていることを知った。
国粋保存論者であった漆芸家、六角紫水の白山下の私邸には、自動車の塗装室もあって、
蒔絵の石膏によって量産も実行されつつあるのを知った。
入学当初の大村先生の訓辞を忠実に私は実行して、美校在学十二年という最長
レコードをつくって卒業を延ばした。

現在の私のガラスに金を入れたり、線や色のぼかし、ガラスを延ばしたりする工夫、
工具の工夫は金工、蒔絵の技法で学んだ応用である。学んだことはそればかりでない。
工芸家としては工作場を設けて弟子あるいは工員の必要性をつぶさに感じとった。
だんだんと現在の工場の基礎を作りはじめたのは、昭和三年ごろのことである。

さて美校の同級中で佐伯祐三は、朝の登校前にノート半分くらい町をスケッチ、
午後は朝倉塾で彫塑をやるという勉強ぶりであった。
私は午後建畠アトリエで彫刻をやり、ときに岡田三郎助先生の主宰する本郷研究所へ通った。
この洋風建物は鹿島清兵衛と新橋の名妓「ぽんた」の経営する写真館跡であった。
同じ岡田教室にいた伊藤熹朔は浅草のオペラ館へ毎日通っていた。その頃のオペラ館は、
帝劇から分かれた原信子、田谷力三、清水金太郎氏らが、ボッカチオ、カルメン、椿姫、
リゴレット、アイーダなどの歌劇を本格的に上演して、私どもを熱狂させていた。
熹朔君はずいぶんここで勉強して、今日の基礎を築いた。


      藤七(左)と伊藤喜朔(右)

これより前、私は文学青年でもあったので、荷風はもちろん、白秋の詩、
木下杢太郎の南蛮ものを読み「南蛮寺門前」などという新劇も見て回って、
しだいに私は南蛮趣味に向かって行った。
やがて日蔭町の村幸の錦絵店へ行くようになった。十円も出せば長崎版の黒船や
金で縁をとったギヤマンのコップが求められたというありがたい時代であった。
たしかにあれは、出島で用いられた遠眼鏡であったであろう。
漆皮の太い筒が三段にのびる。破損していたのを、学校で直して得意であった。
動かない櫓時計を買っては歯車をたたいて、延ばして動くように直し、
ガラスのちょっとしたカケは漆のサビで直した。こんなことがこの店の名物になった。
岡田先生も荷風先生も先代の左団次もこの店へこられた。

この店の上客は永見徳太郎や横浜馬車道の風月堂主人、米津武三郎君であった。
米津さんの別宅は大礒にあった。松林を背景にして四足門、ゆるやかな屋根、濡縁と、
小さくはあったが藤原絵巻そのままだった。私はたびたび米津さんの家へ招かれた。
いつも風月堂の自前の洋食であったが、クリームをかけた野菜やスパゲティは
当時としては珍しかった。古風な切り子の鉢や皿に盛られて出されたときには、
床の鎧櫃や冑や短繋などにはよくガラスが調和して、すべてを新鮮にして見せた。
いまの丸ノ内ホテルのバーのような異国趣味であった。
前田青邨先生と初めてこの家でお目にかかった。その数年後、インテリで下町好みの
米津さんは行方不明となった。
米津さんは下町の旦那というものの最後の人であった。米津さんの最後は北鎌倉の
好々亭にかくれて雇われて、そこでなくなったと前田先生からうかがった。
切り子鉢に野菜が盛られると、米津さんが今でも思いしのばれる。

中学校の同窓の林忠雄が銀座尾張町コックドールのところでフタバヤという店を
開店した。高級な美術品ともいうべき雑貨、ドーム、新しいガラス、ペルシアのラッグ、
陶器、セーブル焼の動物彫刻、スペインの家具、皮、最後にはゴンドラまで輸入した。
一時フタバヤ・ムードを銀座に作った。
画商デルスニスは黒田鵬心、田辺孝二君と共同してベルナール、シニャック、
モローの装飾的理念の絵画と、ロダンの彫刻、椅子、テーブル、ドームのガラス類の
大規模の展観を、上野美術館で開催した。塩原又策氏や骨董商の山澄力蔵氏が背景だった。
私をして切り子以外にこんなにもやわらかい、近代的なガラスもあるものかと、
これまでのガラスの観念を変えさした。切り子もそこでは光りかがやきはしない。
えぐりたったような荒々しい面であった。色も、瑠璃や赤でなくて煉瓦のような赤色で
あった。フタバヤもデルスニスもともに震災後の洋風化に働きかけた力は大きかった。

私はこのころ、浜町山澄骨董店で、美術愛好家として有名であった今村繁三さんに
初めてお目にかかり、仕事の上でたいへんよかった。
今村さんは橘ガラスという食器のガラス工場を三菱財閥をバックに経営されていた。



岩田藤七の作家紹介と経歴はこちら

岩田藤七作 「鉄色切子鉢」 今月の作品 No.15

2011-03-01 17:13:46 | 今月の作品
今月の作品                           2011年3月1日
No.15  岩田藤七作 「鉄色切子鉢」

制作年  1976年
サイズ  幅 15.5cm  奥行 15.5cm  高さ 8cm

深い緑色、鉄色の鉢です。


jpg
素材のソーダガラスは大変硬く、カットは難しいので、
珍しい作品です。




全体に丸みを帯びたカットで、六角の角の透明がポイントになっています。



撮影中村明彦

透明と色の境、美しい曲線です。
               
  

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「岩田藤七 ガラス十話」  2 青年時代

2011-03-01 10:49:45 | 藤七の言葉
「ガラス十話」  岩田藤七       毎日新聞 昭和39年4月-5月に掲載 
                                
1 おいたち     2011/2/1掲載  
2 青年時代     2011/3/1掲載            
3 美校時代の交友           
4 建築                
5 岡田三郎助先生          
6 職人気質
7 和田三造先生
8 美の発見
9 物いわぬ師
10 道はけわしかった


「ガラス十話 2 青年時代」

 ここでは、私がどのようにして中学、美校で青年時代勉強し、
芸術を吸収し、身につけ、ガラスに興味をもちはじめたかを書かしてもらおう。

 まず、私は、日本橋の住まいの近くの常盤尋常高等小学校の高等三年から
(建築家の吉田五十八は私より一年先にこの小学校から開成中学へ行った。)
大手町の商工中学へ入学した。

    
 前列左 吉田五十八  後列右端 藤七

 すでに小学生のころから白旗橋畔の菊池塾へ漢文とお習字に通わされた。
これが幸いして、商工中学の書道の教員であった小山雲潭に目をかけられて、
永字八法と懸腕直筆を教えてくれて、ついに稲垣雲隣という、深川の八幡境内に
住む四条派の画家からツケ立てを習えと紹介してくれた。
三年生のとき、明治四十二年であった。電車は永代橋を渡って黒江町まで、
同じ下町でもこのへんまでくると風俗、家並みもガラリと変わって、
潮の生々しい香が、うきうきさした江戸の名残りがいたるところにあった。
木造の黒渋塗りの櫓が黒江町の右側、蛤町に建っていた。
小さな入江がこの下にあって、田舟のようなアサリ取りの小舟がもやっていた。
通りはばも狭く、門前仲町から不動様へかけて、小料理屋が続いていた。
はんてんや尻っぱしょり、股(もも)引き姿の男性、引き上げ帯、
銀杏返しの女性の行き来の激しさ、澄み渡った青空、白い浮雲、北斎、
広重そのままであった。
 毎日曜のツケ立てのおけいこなどは名のみで、早くやめて、
洲崎の土手から妓楼大八幡の時計台、遠くは房総半島をながめ、
あるときは掘割りの小さな渡し舟をいくつも渡って木場をさまよい、冬木弁天へ。
後年、荷風の「夢の女」「深川唄」「牡丹の客」「日和下駄」を読むときに役立った。
ときに堅川、横川までも足をのばした。
 これらの川岸に四角の煉瓦の煙突がいくつもあった。
その下で、火の玉がゆらゆらとゆれて、飛んで行く、不思議な光景をみた。
ガラス工場であったと知った。こんな小さな吹き場が幾軒も川岸からも、
往来からもみられたが、これが私の一生の職業になるとは夢にも思わなかった。
 さて私は、中学校卒業前後から溜池の白馬会研究所へ通った。
水色ペンキ二階建、いまの噴水があるあたりにあった。 
桜井知足という塾長といった風格の画学生に直され、直されたが、
なかなか上達はしない。森永のキャラメルが白と赤のペンキ塗りの
小さな工場内で作られていた。バラ売りで目方をかけて売っていた。
キャラメルを買ってはなめて演技座を見たり、田町の崖下で先代尾上梅幸さん
の標札をみたときは、入学のことなどすっかり忘れた。
先年、森永のモカの瓶のデザインを引き受けたおりに、営業部長の後藤さんに
この話をしたら、溜池でキャラメルを買った人は三、四人しかいないから
社長に話をしてくれといわれて、つい話に実がいって瓶のデザインは
図面ではダメですと、一枚の図面もみせないで幾十本となく実物を吹いて、
その中から、古風なハンドメードの味のあるものを選んだ。
ややともすると酒瓶が香水瓶に似かようのは、図面にたよるからである。
食用瓶と、化粧瓶の区別をつけておきたいものであるなどと話した。
この森永の本社のあたりが、明治初年のガラスの発祥地東京ガラスの
工場に当たるであろう。
話は、瓶にそれたが、ある日、この研究所で、岡田先生と親しくお話の機会を得た。
先生は「絵はほんの少数のすぐれた人が進む道であって、君は工芸を選びなさい」
といわれた。時に明治四十四年の秋であった。
そのころ先生は、図案科のデッサンを教えられていた。
先生の日常のお仕事も絵でなく、愛宕下の第一流の洋家具店で宮内省の仕事
などをしていた寺尾家具店のイス、テーブル、本棚などの図面を描いておられた。
先生の尊父は神奈川県知事、育ちのよい上に佐賀県生まれであったから、
一面葉隠武士的のけわしい気性があった。
愛情をこめて多くの弟子を養成されたが「三度注意して聞き入れないものは
弟子でない」と、私が四十歳ごろのときに本心をいわれて、
飛びあがるようにびっくりしたことがあった。
工芸家になれとすすめられたのも先生、ガラスをすすめられたのも先生、
陰に陽に、不肖私をかばい教えられ、帝展などで私のために苦境に立たれたのも、
一再ならず、ときの石丸優三幹事長、福原院長あてに出品ガラス板の陳列撤回の
申入れをして毎日(当時の東京日日新聞)美術記者、金子君がはなやかに
取材してくれた。これのためにかえって、世人はガラスに注意を向けることとなった。
明治四十五年春、東京美術学校の入学式を迎え、講堂での生徒主事の大村西崖先生の
訓辞は「生徒諸君、この学校には卒業というものはない。
免状をあてにしてはならない。一生、学生であれ」とさとされた。
さらに「この学校には、大きな釣鐘がたくさんある。
大きな撞木で力いっぱい撞いていろいろな音を聞いて学校を出なさい」といわれた。
この一言は、私のガラスの仕事に、私の一生に大きな影響を与えた。
これは、何を意味するのであろう。




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