岩田家のガラス芸術 BLOG 岩田の事

炎の贈り物 藤七・久利・糸子が織りなす岩田家のガラス芸術

「岩田藤七 ガラス十話」  2 青年時代

2011-03-01 10:49:45 | 藤七の言葉
「ガラス十話」  岩田藤七       毎日新聞 昭和39年4月-5月に掲載 
                                
1 おいたち     2011/2/1掲載  
2 青年時代     2011/3/1掲載            
3 美校時代の交友           
4 建築                
5 岡田三郎助先生          
6 職人気質
7 和田三造先生
8 美の発見
9 物いわぬ師
10 道はけわしかった


「ガラス十話 2 青年時代」

 ここでは、私がどのようにして中学、美校で青年時代勉強し、
芸術を吸収し、身につけ、ガラスに興味をもちはじめたかを書かしてもらおう。

 まず、私は、日本橋の住まいの近くの常盤尋常高等小学校の高等三年から
(建築家の吉田五十八は私より一年先にこの小学校から開成中学へ行った。)
大手町の商工中学へ入学した。

    
 前列左 吉田五十八  後列右端 藤七

 すでに小学生のころから白旗橋畔の菊池塾へ漢文とお習字に通わされた。
これが幸いして、商工中学の書道の教員であった小山雲潭に目をかけられて、
永字八法と懸腕直筆を教えてくれて、ついに稲垣雲隣という、深川の八幡境内に
住む四条派の画家からツケ立てを習えと紹介してくれた。
三年生のとき、明治四十二年であった。電車は永代橋を渡って黒江町まで、
同じ下町でもこのへんまでくると風俗、家並みもガラリと変わって、
潮の生々しい香が、うきうきさした江戸の名残りがいたるところにあった。
木造の黒渋塗りの櫓が黒江町の右側、蛤町に建っていた。
小さな入江がこの下にあって、田舟のようなアサリ取りの小舟がもやっていた。
通りはばも狭く、門前仲町から不動様へかけて、小料理屋が続いていた。
はんてんや尻っぱしょり、股(もも)引き姿の男性、引き上げ帯、
銀杏返しの女性の行き来の激しさ、澄み渡った青空、白い浮雲、北斎、
広重そのままであった。
 毎日曜のツケ立てのおけいこなどは名のみで、早くやめて、
洲崎の土手から妓楼大八幡の時計台、遠くは房総半島をながめ、
あるときは掘割りの小さな渡し舟をいくつも渡って木場をさまよい、冬木弁天へ。
後年、荷風の「夢の女」「深川唄」「牡丹の客」「日和下駄」を読むときに役立った。
ときに堅川、横川までも足をのばした。
 これらの川岸に四角の煉瓦の煙突がいくつもあった。
その下で、火の玉がゆらゆらとゆれて、飛んで行く、不思議な光景をみた。
ガラス工場であったと知った。こんな小さな吹き場が幾軒も川岸からも、
往来からもみられたが、これが私の一生の職業になるとは夢にも思わなかった。
 さて私は、中学校卒業前後から溜池の白馬会研究所へ通った。
水色ペンキ二階建、いまの噴水があるあたりにあった。 
桜井知足という塾長といった風格の画学生に直され、直されたが、
なかなか上達はしない。森永のキャラメルが白と赤のペンキ塗りの
小さな工場内で作られていた。バラ売りで目方をかけて売っていた。
キャラメルを買ってはなめて演技座を見たり、田町の崖下で先代尾上梅幸さん
の標札をみたときは、入学のことなどすっかり忘れた。
先年、森永のモカの瓶のデザインを引き受けたおりに、営業部長の後藤さんに
この話をしたら、溜池でキャラメルを買った人は三、四人しかいないから
社長に話をしてくれといわれて、つい話に実がいって瓶のデザインは
図面ではダメですと、一枚の図面もみせないで幾十本となく実物を吹いて、
その中から、古風なハンドメードの味のあるものを選んだ。
ややともすると酒瓶が香水瓶に似かようのは、図面にたよるからである。
食用瓶と、化粧瓶の区別をつけておきたいものであるなどと話した。
この森永の本社のあたりが、明治初年のガラスの発祥地東京ガラスの
工場に当たるであろう。
話は、瓶にそれたが、ある日、この研究所で、岡田先生と親しくお話の機会を得た。
先生は「絵はほんの少数のすぐれた人が進む道であって、君は工芸を選びなさい」
といわれた。時に明治四十四年の秋であった。
そのころ先生は、図案科のデッサンを教えられていた。
先生の日常のお仕事も絵でなく、愛宕下の第一流の洋家具店で宮内省の仕事
などをしていた寺尾家具店のイス、テーブル、本棚などの図面を描いておられた。
先生の尊父は神奈川県知事、育ちのよい上に佐賀県生まれであったから、
一面葉隠武士的のけわしい気性があった。
愛情をこめて多くの弟子を養成されたが「三度注意して聞き入れないものは
弟子でない」と、私が四十歳ごろのときに本心をいわれて、
飛びあがるようにびっくりしたことがあった。
工芸家になれとすすめられたのも先生、ガラスをすすめられたのも先生、
陰に陽に、不肖私をかばい教えられ、帝展などで私のために苦境に立たれたのも、
一再ならず、ときの石丸優三幹事長、福原院長あてに出品ガラス板の陳列撤回の
申入れをして毎日(当時の東京日日新聞)美術記者、金子君がはなやかに
取材してくれた。これのためにかえって、世人はガラスに注意を向けることとなった。
明治四十五年春、東京美術学校の入学式を迎え、講堂での生徒主事の大村西崖先生の
訓辞は「生徒諸君、この学校には卒業というものはない。
免状をあてにしてはならない。一生、学生であれ」とさとされた。
さらに「この学校には、大きな釣鐘がたくさんある。
大きな撞木で力いっぱい撞いていろいろな音を聞いて学校を出なさい」といわれた。
この一言は、私のガラスの仕事に、私の一生に大きな影響を与えた。
これは、何を意味するのであろう。




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