岩田家のガラス芸術 BLOG 岩田の事

炎の贈り物 藤七・久利・糸子が織りなす岩田家のガラス芸術

彩りのガラス 「秋の秀作展」

2011-11-01 09:00:00 | お知らせ
彩りのガラス「秋の秀作展



清爽な秋、鑑賞の味わい深い季節となりました。
お蔭様で、本年11月、ホームページを開設して二年を迎えます。
今回は毎月掲載していた「今月の品」を中心に展観し、
特別価格にて販売いたします。是非ホームページと併せてご高覧下さい。




会場 ヴェルリー クマップ 
      〒104-0041 東京都中央区新富2-4-14 新富田所ビル4F
            TEL:03-3553-5810
    
     ご来場の節はご一報下さい。


会期 2011年10月24日(月)~11月18日(金) 11:00~18:00

    
    ヴェルリークマップ  岩田家のガラスアート 

岩田糸子作 「彩色花器」  今月の作品No.22

2011-11-01 08:57:03 | 今月の作品
今月の作品                           2011年11月1日
No.22  岩田糸子作 「彩色花器」

制作年  1995年
サイズ  幅 29.5cm  奥行 29cm  高さ 23cm

迫力ある大作。



黒・茶・赤・白の斑が勢い良く流れます。




大きく白く巻かれた口元。




色が生き生きと配され、風景を見ているようです。



撮影中村明彦

岩田糸子の作家紹介と経歴はこちら

「今月の作品」は販売しております。  「彩色花器」 ¥350,000
お問い合わせは下記へお願いいたします。

Verrerie Kumap  ヴェルリー クマップ
Tel:03-3553-5810 Fax:03-3553-5809
E-mail:vk@iwataglassart.com

岩田藤七 ガラス十話   10 道はけわしかった

2011-11-01 08:56:57 | 藤七の言葉
「ガラス十話」  岩田藤七       毎日新聞 昭和39年4月-5月に掲載 
                                
1 おいたち    2011/2/1掲載  
2 青年時代      2011/3/1掲載            
3 美校時代の交友  2011/4/1掲載          
4 建築       2011/5/2掲載              
5 岡田三郎助先生  2011/6/2掲載        
6 職人気質     2011/7/1掲載
7 和田三造先生   2011/8/1掲載
8 美の発見     2011/9/1掲載
9 物いわぬ師    2011/10/1掲載
10 道はけわしかった 2011/11/1掲載


「ガラスの十話 10 道はけわしかった」

 千利休が茶の湯にガラスを用いなかったから、ガラスは骨董にもならないし、
粗末にされ、安ものとよくいわれる。もし当時、使われていたら、ずいぶんあれこれと
厄介なことだろう。

 戦前の初夏のある夕に、私と妻の二人がおよばれを受けた。その家のご夫人は、
白のドレスで迎えられた。夕食は洋食。食後、ややしばらくして、大丸まげに早がわり
されて広間に案内された。茶の湯を楽しむわけである。いつの間に集められたか、
水さし、茶碗、鉢、その他全部が私のガラス製品である。ガラスを大広間で見たのは
これがはじめてである。おりから馬込の畑から吹き上げる風にやっと落ち着き、
自作ながらお見立て感服、とアッといわせたのは、毎日新聞編集局長の狩野さんの夫人
であった。それから二十数年たって、どうやら水さしには、すがすがしくて清潔な
ガラスが使われるようになった。砂糖壷や、アルコールづけの瓶を思い出してはだれも
使うまいのに、狩野きわ子夫人は茶道へガラスをとり入れた最初の発見者である。

 水指「こぼれ梅」1966年   黄瑠璃茶碗 1965年


 日本では、いまだに、ガラスの仕事をした確かな窯跡が発見されていない(出雲で
発見されたという説もあるにはあるが)。まして、いつ、だれがどんなことをしたかも、
その人もわからず、ただ、眼鏡屋の生島藤七が江戸初期に長崎でガラスを学び、
江戸ガラスを作ったという、ただそれしかしられていない。天正のころ、櫓時計が作られ、
そのおおいに、泡だらけのガラスが使用されているから、徳川初期には作られていた
証拠になろう。

 仏像の目は玉眼つまり水晶という人もある。それなら、どうして東大寺の仁王の目の
水晶をどこから持ってきてみがいたのであろう。藤原、鎌倉と、足利、徳川までいれれば、
仏像と玉眼の数はとうてい数えきれない。水晶を球面にするには、今日の研磨技術を
もってしても容易な仕事ではない。玉眼の研究以外に日本のガラスの発生の起源を知る
方法はない。私はかつて、大阪府下の信太村へ、ネックレス、トンボ玉の製法を見に
行った。少量のガラスならばこの村のように、長石の溶解方法でもできると知った。
それは鉛を溶解して長石を入れて仕上げる方法である。寛政年間に発行された徳川時代の
工業百科全書ともいえる「こうげい袋」には、染織、獣皮などとともにガラスの製法が
絵入りで記載されている。

 アメリカ政府は最近、日本のガラスの起源と現状に注意しはじめ、ドロシー・ブレイヤー
女史を日本に派遣して専攻させている。長崎、大阪、仙台と伝説として伝わるガラスの
発生地をつぶさに回り、滞在五年後、一度帰国、その後再三来日して研究している。
東京国立博物館の美術課長、岡田譲氏は、日本のガラスの権威であるが、この点に関して、
はっきりといわれない。いまだに不明である。陶工とくらべ、なんと日本のガラス工の
あわれたることか。この三月に白木屋で開かれた歌麿展には、コップ片手の美人錦絵が
あった。あのコップは舶来だろうか、日本製であろうか。たしかにあのころ、
徳利と杯は江戸にあった。

 薩摩切り子の収集では、なくなられた朝倉文男先生のそれは随一のものである。
薩摩切り子は文献も島津家にあり、製作場も明らかにされている。日本のガラス工芸史は、
ここから正確に書かれると思う。明治中期以後から作られた氷コップ、氷碗には、
口紅のぼかし、瑠璃ぼかし、あぶりだしオパールの西洋の技法が日本化されているが、
これは高く評価してよいと思う。この四、五年来、工芸ガラスは急激に発展してきた。
各務鉱三君は、クリスタルに目をつけて製品化した。しかし、セミクリスタルといって、
ニセものを大きな会社でつくっては各務君も浮かぶ瀬もない。

 アメリカ(スチウベン、ランベルト)、スウェーデン(オルコース、コスター)、
フランス(ラリック、パカラ、ドーム)、イタリア(ベルニー、フォンタナ)、 
メキシコに最近は日本も加わってきた。世界中、これだけしか工芸ガラスを作る国はない。
思えばけわしい道であった。誇張ではない。私の後援者だった元高島屋支配人の
川勝堅一さんが私の苦難をいちばん知っている。梅原龍三朗先生は「作家は馬鹿がいい」
と私にいってくださる。いわゆるお利口者ではできないのがガラス工芸作家である。

 恩師岡田先生は、借財がないと稼ぐ張り合いがないといわれ、 亡くなられるまで画商
青樹社の鈴木理一郎君(後タマ自動車社長)から借財されていた。私はどういうものか
波乱がないとファイトが湧いてこない。芸術院会員になってからも、工芸界に産業工芸の
新風を吹き込み波乱を起こしたかった。

        作品と  1967年頃

 ある年、日本の代表的な工芸作品を買い上げたいと、ソ連のエルミタ―ジの美術館から
交渉があったのを幸い、工芸家の作品以外に花嫁衣裳、川島、龍村の織物をわずか五百万円
ほど買い上げたら、社会党の高津正道代議士がひどく曲解して、デパートから手数料を
とったと不当な難ぐせをつけ、文教委員会の論戦にまで発展させた。結局は茶番劇に
終わったが、私は同君を名誉毀損で訴えた。ソ連に正しい日本の工芸品を買わせ、国内では
安くて誰にも親しめる工芸品を作らそうとしたのが、何がいけないのだ。それをボス的
行為だとひどくきめつけられ「世の中をさわがせた」というわけで、帝展から去れという
処断を、辻さんから受けた。私はこれを機会に帝展から去った。そして、息子夫婦と
ともに一本立ち、岩田ガラスの一層の強化を計って、ガラスの大衆化にさらに精進する
ことになった。

 妻・邦子と    久利・糸子・マリ・ルリ   1961年頃

 なお、芸術院会員にして、労働組合と交渉し、もまれているのは私一人であろう。
ガラス工芸の道に生きるものは、孤高を持してばかりはいられない。工場があるからには、
工員があり、彼らの生活がある。最も健全な労働組合の発達を願って、仕事をするときは、
組合員と同じに私自身も朝八時から働いているのだ。しょせん、部外者では理解できない
ことが、ガラスの仕事にはいっぱいある。


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