1979年 セラミックス誌 No.12 に掲載された久利の言葉です。
「私のガラス-思想と芸術」 岩田久利
私はガラス屋の家に生れた。父は江戸ガラス以後、絶えていた日本における、
色ガラスによる宙吹きの技法で、ガラス工芸品を昭和の初めに創り始め、
美術工芸品の域まで達成させた岩田藤七である。江戸後期の薩摩ガラス、
江戸ガラスにしても、用を目的とした素晴らしい工芸ガラスであったが、
父は陶磁、漆、木、金属と同じく、ガラスをアートの素材として考え、
ガラスの美しさや特質を最高に生かした作品を作ってきたのであった。
しかしガラスは好きなときに、好きなだけ作れるような素材ではない。
一年中、窯の火を絶やさず溶解をしつづけなければならず、その燃料費や
原料代に見合うだけの仕事もしてゆかなければならないというように、
好きなものを自由に作るために、周辺の雑事と闘ってきたのであった。
私は昭和25年、東京芸術大学を出てすぐに、この工場経営の役目を引き継いだ。
当時はまだ原料はもちろん手に入れにくかったし、エネルギー源である石炭には
全く泣かされたものであった。そんな苦しい中にも、何とか工夫をしながら作りつづけ、
展覧会も毎年開催してきたのである。
その間、日本のガラス界は自動化が進み目覚ましい量産体制へと発展して
行った。と同時にガラスの素材自身も、より無色透明なものへと突き進み、
実にクリアな素材で、全自動の量産品を多量に作り出すに至った。
限りなく無色透明で脈理もないガラスは、昔からの人類の夢であったし、
実際それに到達したのであるが、何か今日ではそれが当然のようになり、
それだけでは美しいと思われなくなった。かえって人々は昔のガラスを
懐しむようになったり、ことさらに手造りを求めたり、地方色のある民芸風の
ガラスを愛好したりするようになった。人々がガラスの良さに気がついてくれた
のは結構なのだが、色ガラスや手造りのものでも、やはり最高の技術、
デザインのものをしっかりと知ってもらいたいと願う。
私は宙吹きによる技術で作品を作っている。私の工場は極く普通のガラスを
溶解しているが、同時に十数種類の色ガラスを溶かしている。色彩の多い作品を
作ることが多い。メインになる透明なガラスとすべての色ガラスは膨張係数が
合っていなければならないし、制作する時には最高のコンディションになって
いなければならない。ほんのひとしずく位しか使用しない場合でも、多量な
色ガラスを溶解しなければならないことも多々ある。メインの透明なガラスと
温度も合っていなければならない色ガラスを、同時にたくさん使うのは、
ぜいたくの限りかもしれないが、血みどろの工場経営をやりぬいた報酬なので
ある。
しかし、思ったようなガラスを作るにはこれだけではない。適当な技術者が
必要である。宙吹きガラスの職人は、数人が組になって仕事をする。いうなれば
分業なのである。各パートにエキスパートが必要である。作りたい方法の一番
上手なひとを使うのが最高である。厚いものがうまい人、薄いものの得意な人
など、職人もいろいろいる。そしてその上手な技術をもった人達に自分の思う
ような仕事をやってもらうには、長い年月が必要である。永く仕事をしている者が
必ずしも良いというわけではない。やはり「感」とか「間」とかいうものが大事で、
意気がぴったり合うようになるまでは相当な長い訓練の期間が必要である。
また、次々に新しいテクニックを開発して行くには、この職人達の技術の向上が
伴わなければならない。
私はデザインを考える場合、日本の文化、日本の美、日本のかたちというような
ものを本質的に追っている。伝承してきたものと創造していくものとが私の中で
こん然と溶け合いデザインとして湧き出してくる。私は個性ゆたかな日本のガラスを
作りたいと思っている。ガラスは世界共通の素材である。世界に通じるガラス
という言葉を使って世界の人々と語り合いたいと思う。
岩田久利の作家紹介と経歴はこちら
「私のガラス-思想と芸術」 岩田久利
私はガラス屋の家に生れた。父は江戸ガラス以後、絶えていた日本における、
色ガラスによる宙吹きの技法で、ガラス工芸品を昭和の初めに創り始め、
美術工芸品の域まで達成させた岩田藤七である。江戸後期の薩摩ガラス、
江戸ガラスにしても、用を目的とした素晴らしい工芸ガラスであったが、
父は陶磁、漆、木、金属と同じく、ガラスをアートの素材として考え、
ガラスの美しさや特質を最高に生かした作品を作ってきたのであった。
しかしガラスは好きなときに、好きなだけ作れるような素材ではない。
一年中、窯の火を絶やさず溶解をしつづけなければならず、その燃料費や
原料代に見合うだけの仕事もしてゆかなければならないというように、
好きなものを自由に作るために、周辺の雑事と闘ってきたのであった。
私は昭和25年、東京芸術大学を出てすぐに、この工場経営の役目を引き継いだ。
当時はまだ原料はもちろん手に入れにくかったし、エネルギー源である石炭には
全く泣かされたものであった。そんな苦しい中にも、何とか工夫をしながら作りつづけ、
展覧会も毎年開催してきたのである。
その間、日本のガラス界は自動化が進み目覚ましい量産体制へと発展して
行った。と同時にガラスの素材自身も、より無色透明なものへと突き進み、
実にクリアな素材で、全自動の量産品を多量に作り出すに至った。
限りなく無色透明で脈理もないガラスは、昔からの人類の夢であったし、
実際それに到達したのであるが、何か今日ではそれが当然のようになり、
それだけでは美しいと思われなくなった。かえって人々は昔のガラスを
懐しむようになったり、ことさらに手造りを求めたり、地方色のある民芸風の
ガラスを愛好したりするようになった。人々がガラスの良さに気がついてくれた
のは結構なのだが、色ガラスや手造りのものでも、やはり最高の技術、
デザインのものをしっかりと知ってもらいたいと願う。
私は宙吹きによる技術で作品を作っている。私の工場は極く普通のガラスを
溶解しているが、同時に十数種類の色ガラスを溶かしている。色彩の多い作品を
作ることが多い。メインになる透明なガラスとすべての色ガラスは膨張係数が
合っていなければならないし、制作する時には最高のコンディションになって
いなければならない。ほんのひとしずく位しか使用しない場合でも、多量な
色ガラスを溶解しなければならないことも多々ある。メインの透明なガラスと
温度も合っていなければならない色ガラスを、同時にたくさん使うのは、
ぜいたくの限りかもしれないが、血みどろの工場経営をやりぬいた報酬なので
ある。
しかし、思ったようなガラスを作るにはこれだけではない。適当な技術者が
必要である。宙吹きガラスの職人は、数人が組になって仕事をする。いうなれば
分業なのである。各パートにエキスパートが必要である。作りたい方法の一番
上手なひとを使うのが最高である。厚いものがうまい人、薄いものの得意な人
など、職人もいろいろいる。そしてその上手な技術をもった人達に自分の思う
ような仕事をやってもらうには、長い年月が必要である。永く仕事をしている者が
必ずしも良いというわけではない。やはり「感」とか「間」とかいうものが大事で、
意気がぴったり合うようになるまでは相当な長い訓練の期間が必要である。
また、次々に新しいテクニックを開発して行くには、この職人達の技術の向上が
伴わなければならない。
私はデザインを考える場合、日本の文化、日本の美、日本のかたちというような
ものを本質的に追っている。伝承してきたものと創造していくものとが私の中で
こん然と溶け合いデザインとして湧き出してくる。私は個性ゆたかな日本のガラスを
作りたいと思っている。ガラスは世界共通の素材である。世界に通じるガラス
という言葉を使って世界の人々と語り合いたいと思う。
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