岩田家のガラス芸術 BLOG 岩田の事

炎の贈り物 藤七・久利・糸子が織りなす岩田家のガラス芸術

岩田久利作 「砂色大壷」  今月の作品No.21

2011-10-01 15:29:17 | 今月の作品
今月の作品                           2011年10月1日
No.21  岩田久利作 「砂色大壷」

制作年  1993年
サイズ  幅 30cm  奥行 30cm  高さ 24.5cm

渋い砂色の大作。



砂色の濃淡が風に吹かれたような美しい文様を描きます。



中の乳白が表の表情を柔らかくしています。




細かな色の粉がサラサラと音を立てているようです。


撮影中村明彦

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「今月の作品」は販売しております。  「砂色大壷」 ¥1,800,000
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「岩田藤七 ガラス十話」   9 物いわぬ師

2011-10-01 15:08:19 | 藤七の言葉
「ガラス十話」  岩田藤七       毎日新聞 昭和39年4月-5月に掲載 
                                
1 おいたち    2011/2/1掲載  
2 青年時代      2011/3/1掲載            
3 美校時代の交友  2011/4/1掲載          
4 建築       2011/5/2掲載              
5 岡田三郎助先生  2011/6/2掲載        
6 職人気質     2011/7/1掲載
7 和田三造先生   2011/8/1掲載
8 美の発見     2011/9/1掲載
9 物いわぬ師    201/10/1掲載
10 道はけわしかった


「ガラス十話 9 物いわぬ師」


 戦争ですっかり、ガラス屋の徒弟制度もなくなり、親方といった、ならわし、
すべてのドンブリ勘定の風習もなくなった。しかし、なくなって困るものもできた。
それは企業整備の運用の不手際で、ガラスの石型屋と焼きつけ屋がなくなったことだ。
ともに江戸時代からの継承者であった。石型屋は回向院裏に、焼きつけ屋は錦糸町に
住んでいた。技術保存のむずかしい今となっては、マイナスである。

 私の工場もあぶなくなった。が、当時の商工省の技官、和泉和作さんが、ガラスの
宙吹きの重要性を主張してやっと残してくださった。和泉さんにはこんな逸話がある。
東条さんが例の坊主頭に黒ぶち眼鏡で省内を見回りにきたとき、平気でくわえたばこで
いたとの理由で逆鱗にふれて、譴責をくらったという。この根性が和泉さんにあったれば
こそである。工場は残されたものの、石炭ひとかけらも、ソーダ灰の半俵もくれなかった。
餓死状態に私はおかれた。しかし軍需品関係の組合員は軍服を着て、わが世の春で
あった。幸い堀切小菅町の工場は利根川支流のデルタ地帯で、この近くのバタヤ集落には
大地主もいない。小さなお百姓さんとお寺が多くて、世ばれなしたところであった。
しかし早くから私の工場には太い四インチのガス管を引いていたので、半年ぐらい
ガラスを溶かすには不自由しなかった。

 忘れもしない昭和二十年三月に大空襲があった。あくる日、水のしたたる着物や靴が
土手に干してあった。いわずとしれた、水死人から引きはがしたもの。鶴屋南北の芝居
を地でいったバタヤ、吉原のお職、楼主のなれのはてもいた。無法地帯であった。
虫に餌ありの諺どおり、この土地で工員を大切にし、その家族を守り、ガラス工芸の
根絶やしを防いだ。物質、食料、金銭調達のための妻の苦労はたいへんなものであった。
衣料はお米に替え、所有の家屋は売り払い、工場につぎこんだ。そんな苦労を少しも
顔に出さなかった。土地がら闇物資も多かったのでこの土地がたいへん気に入ってか、
久保田万太郎、当時の法務次官三宅正太郎の両先生、吉原のきれいどころが、たびたび
息ぬきにやってこられた。

昭和40年代藤七と妻邦子 自宅前にて 自宅座敷にて

 空襲でしだいに資材がなくなったが、海軍病院から注射管を引きうけた。ラムネ、サイダー瓶
を焼け跡から集めさせ、再生した。悪路の都内では運搬途中に管は半分にこわれる。
泣かされた。それから、立川飛行機の外山さんに呼ばれて「実は日本には軽金属は
なくなった。木製飛行機の計画はできたが、ノリを入れる容器がない。ノリ入れを作れ」
という注文がきた。幾千個も作ったが、終戦で役にたたなかった。つぎは進駐軍のコップ、
なれない仕事でたいへんな大赤字だった。東芝の放電管の試作もさせられたが、いまを
ときめく東芝も支払いに困り、株券で決済したことがある。こんなとき財産税、なんとか税の
取りたてが厳しく、差押え、競売もされた。長年集めた浮世絵もバラバラに手ばなした。
苦境を見て逃げ出す工員もあった。

 ガラスは、透明無色で明るくて純情で豪華で繊細、やり直しがきかなくて、どこかの
日本舞踊家に似て肌ざわりがよい。吾妻徳穂かな。冷たいようですぐあたたかくなる、
あたたかいかと思うとすぐ冷たくなる、気まぐれ者。無駄が多くて人手がいって、計算
ずくめでは動かない。こっちが笑うと、向こうも笑う。真夜中にガラスをながめると、
たしかにお互いに話しあっているようにみえる。ガラスは魔術師である。この魔女に
魅せられているから、私の苦労もしかたがない。が、いわゆる作家仲間に通じない、
いろいろな世界を教えてくれた。妻邦子もよく辛抱し、私を力づけた。

 「くに子夫人幼時の像」 中村岳稜画


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