岩田家のガラス芸術 BLOG 岩田の事

炎の贈り物 藤七・久利・糸子が織りなす岩田家のガラス芸術

Googleとyahoo ! で検索結果第一位獲得

2011-02-23 10:49:50 | お知らせ
GoogleとYahoo!で検索結果1位獲得

ホームページを開設した当初は「岩田ガラス」で検索しても、
10位以内にも入っていませんでしたが、
Google、Yahoo!ともに1位にランキングされるようになりました!

検索結果上位表示のための方策は「SEO」と呼ばれ、
通常は専門の会社に毎月相当な料金を支払い、ランキング上位を目指すそうです。

しかしわたくしどもは、
ホームページを制作していただいた中村さんのアドバイスにより、
お金をかけずに、わたくしども自身で出来る方法を地道に続け、
ついにランキング1位を獲得しました。

その方法とは・・・
Googleの創始者達が、検索エンジンというものを何故開発したのか?
に起因するそうですが、
わたしには技術的に難しいことなので、よく分かりません。

これからホームページを開設される方、
また検索結果の上位表示を目指される方は、
ホームページの制作も行っておられるATELIER 山雲海月の中村さんに
ご相談されてみてはいかがでしょうか?

中村明彦さん <cloudymoon@kimonoalohashirts.com>

ありがとうございます。中村さん!


岩田ガラス -藤七・久利の花器と茶器ー 展 開催中のお知らせ

2011-02-20 14:25:27 | お知らせ
岩田ガラス -藤七・久利の花器と茶器ー 3月6日(日)まで開催中!

1月8日から始まりました当展覧会も、あと2週間となりました。
藤七・久利の逸品の数々、大小100あまりの展観は、
今、ここでしかみられない
貴重な催しです。

ぜひ、お誘い合せ、ご来場下さい。


下記は展示中の久利作品です。



岩田久利作花器 制作年1986年 赤 径32cm  高さ64cm    黒 径31.5cm 高さ64.5cm 

久利の作品の中でも、最大級に大きく堂々たる作品です。
発色の困難な緋赤、扱いに技術を尽くした黒色。
色・形とともに久利の精魂と情熱が注がれた逸品です。


会 場  町田市立博物館 
      〒194-0032 東京都町田市本町田3562番地 TEL:042-726-1531

会 期  2011年1月8日(土)~3月6日(日) 9:00~16:30

休館日  毎週月曜日(祝日の場合は開館、翌日休日)

主 催  町田市立博物館 

     http://www.city.machida.tokyo.jp

さくらの小皿 春の贈り物!

2011-02-20 14:24:15 | お知らせ
陽の光が明るさを増し、いよいよ春到来。
ひと足早く、さくらの便りをお届けいたします。



春風に散りかかるひとひら・・・
やさしいおもてなしに最適です。


撮影 中村明彦

寸法 : 幅 7.5cm 長さ 9cm  高さ 1.5cm

ひとつずつ作っていますので、色合い・形がそれぞれ違います。


         

価格:1枚入り 1,500円   3枚入り 4,000円   5枚入り  6,500円(送料別)


お申し込み・お問い合わせは下記へお願いいたします。

Verrerie Kumap  ヴェルリー クマップ
Tel:03-3553-5810 Fax:03-3553-5809
E-mail:vk@iwataglassart.com

岩田藤七作 「花器 焔」  今月の作品 No.14

2011-02-01 14:47:30 | 今月の作品
今月の作品                           2011年2月1日
No.14  岩田藤七作 「花器 焔(ほむら)」

制作年  1975年
サイズ  幅 13.5cm  奥行 13.5cm  高さ 22cm

軽快な色彩・形の花器。




藤七が80才を越えてからの作品です。鮮やかな色調、軽やかな形。



  
白・オレンジ・赤の鮮やかさに黒が引き立ち、金箔が輝きを添えています。流れる色の美しさが圧巻です。



  
撮影中村明彦

中の泡ガラスが全体の白さを強調しています。
               
   岩田藤七の作家紹介と経歴はこちら


「今月の作品」は販売しております。  「花器 焔(ほむら)」  
お問い合わせは下記へお願いいたします。

Verrerie Kumap  ヴェルリー クマップ
Tel:03-3553-5810 Fax:03-3553-5809
E-mail:vk@iwataglassart.com

「岩田藤七 ガラス十話」  1 おいたち

2011-02-01 14:26:34 | 藤七の言葉
「ガラス十話」  岩田藤七       毎日新聞 昭和39年4月-5月に掲載 
                                 藤七70歳頃
私は美術家として、たいへん幸せであったと信じている。
岡田三郎助、朝倉文夫、和田三造、梅原龍三郎氏らの先生方に師事し、
いまも育てられている、明治に生まれ明治に育ったわが師は、封建性と
フランスの自由主義を混然と一体となし、西洋を咀嚼し、日本的な文化を
創造された。
技術以外の豊かな先生方の好みと生き方、物の見方、自然の見方、受けとり方など、
作家としていちばん大切なものを授けられ学んだ。
ガラスという新しい仕事に楽々と自信をもって取り組めたのも、
この蓄積の力の賜ものである。無形の大きな資本を授けて下さった。
なんという幸せなことであろう

1 おいたち     2011/2/1掲載  
2 青年時代             
3 美校時代の交友           
4 建築                
5 岡田三郎助先生          
6 職人気質
7 和田三造先生
8 美の発見
9 物いわぬ師
10 道はけわしかった



「ガラス十話 1 おいたち」

私は、十回にわたってこの稿をつづる。
私の愚かさも同時に批判されるであろう。耐えがたきことであるが、
もっとも尊敬していた朝倉先生の初七日の日に、ついに引き受けさせられた。
何一つお返ししていない、お世話になりっぱなしで、完璧な作品も未だに
お目にかけられない。この稿ではあの世の岡田、朝倉両先生に感謝し、
やっと芽を吹きはじめたガラス工芸を志す次代の作家への、心構えの一文として、
また産業工芸を重視して海外に目を向ける作家への一文として書く。
一家をあげよく働く息子夫妻、戦後よく協力してくれた工員へ感謝する。
窯も二基となった。アメリカのあるデパートとも契約のできた昨今、
あなたがたのしらなかったことをいいにくいがいわしてもらおう。
私はどのような両親を持ち、どのようにして中学を卒業し、十二年間美術学校に通い、
薩摩切り子以来、企てなかったガラス工芸へ向かったかを、少々いやらしいが、
二回稿をつづける。  

   父 先代藤七    母 いち    藤七 4歳

父は早く死に、無業でいた、いわゆる下町のしもたやであったことが、
何よりもガラス屋になるのに好都合であった。
明治三十三年の三月、私の八歳のとき、当時の町名、日本橋本石町二丁目十五番地、
いまの電車通りの本町角の室町ビルのところにあった土蔵造りの家で
父は枕頭で「人に負けるな」と一言、私にのこして胃ガンで死んだ。
家庭はちょっと複雑であったが、橋場に住む資産家の北岡文平氏が手ぎわよく整理し、
資産の一部を日本郵船の株券にして、この配当によって一人息子の私が十分に学業を
つづけられるような賢明な方法をとってくれた。
(北岡文平氏の令息は賀田組という靴屋をやって没落し、北岡華子は初期の女優
となった。久保田万太郎氏は新劇の女優として会ったことがあるといわれた。)
    
その後、女手では呉服問屋は苦労が多いので、従兄にあとを譲って、
ささやかな長屋を伯母の隣地に建て、私一人移り住んだ。
これがいまの牛込の住まい、明治四十四年である。
その後母もここへくることになった。母は慶応二年生まれ、
実家は日本橋の魚問屋、早く没落したが、氷の十分でないころの魚問屋は
まことに清潔で、てっとり早く、あきらめがよくて、気短かで、華美で、
女だから、けちんぼうで一文惜しみの百損というおどけたところもなくはなかった。
賭けごとがすきであった。ガラス屋向きの性格が多分に母にあった。
岩田の祖先は五両の資本で商人になったから、五両だけ遺せばよいなどと、
機嫌のよい日には、ずいぶん浪費もした。第一次大戦には日本郵船は十割、
二十割の配当があって、思わぬ金がはいったが、一文も使わなかった。
旅行は一度もしなかったというつつましいこともあった。

余談だが、黒田清輝、有島武郎、永井壮吉(荷風)らも日本郵船株主名簿で発見した。
牛込のこの家は不思議な家である。大正十二年の震災にもこんどの戦災にも、
なに一つ損害は受けないし、戦時中疎開さえもしなかった。
大きな、拾い物をたびたびした家と土地と資産である。
母の私にいった「五両だけ遺せばよい」が、そのまま私の心の奥底にある。
ガラス屋のようないまなお不安定の家業には、よい状態におかれていた。
父のいまわの「人に負けるな」の一言と、母の勇ましき精悍な魚河岸の根性に加えて、
岡田、朝倉、和田、梅原の顔がまぶたにうつり、心のささえとなって、
今なお私の若さは保たれる。

自分自身になんの執着も持ってないこと、ハダカになれること、清潔で華美で透明で
あること、これがガラス家業の第一条件――やっと昨今ガラスが身についてきた。
ガラスの技術は第二段である。ガラス自体になりきることが根本である。
おのずと人生観を変えねばならぬ。しがない家業である。
スリルの多い業種であるから、大資本家ではできない。
私の性格は早くもここへ目をつけた。しかも近代的感覚を十分もっている男子一生の
仕事として悔いなしと信じた。
ガラス屋で産をなくしたもの数知れず、行きづまったあげく自殺するものもあった。
お手のものの、亜砒酸を一なめすればことたりるからである。




岩田藤七の作家紹介と経歴はこちら