岩田家のガラス芸術 BLOG 岩田の事

炎の贈り物 藤七・久利・糸子が織りなす岩田家のガラス芸術

岩田藤七作 水指「雲水」  今月の作品No.19

2011-08-01 13:35:39 | 今月の作品
今月の作品                           2011年8月1日
No.19  岩田藤七作 水指「雲水」

制作年  1976年
サイズ  幅 22cm  奥行 22cm  高さ 12.5cm

乳白のふくよかな水指。




空に漂う流れる雲のように見えます。




内側から見ると流れ、色の奥行きが立体的に現れています。




取っ手は丸い金の玉、紫の蓋に映える美しさです。

撮影中村明彦

               
  

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「岩田藤七 ガラス十話」 7 和田三造先生

2011-08-01 12:17:47 | 藤七の言葉
「ガラス十話」  岩田藤七       毎日新聞 昭和39年4月-5月に掲載 
                                
1 おいたち    2011/2/1掲載  
2 青年時代      2011/3/1掲載            
3 美校時代の交友  2011/4/1掲載          
4 建築       2011/5/2掲載              
5 岡田三郎助先生  2011/6/2掲載        
6 職人気質     2011/7/1掲載
7 和田三造先生   2011/8/1掲載
8 美の発見
9 物いわぬ師
10 道はけわしかった


「ガラス十話 7 和田三造先生」

 体力、資材の消耗の多いガラス屋三十年の間には、戦争あったし、工員をかかえ、
毎日一トンの石炭を燃やすなど、ガラス作りの裏方にはいろいろなことがあった。
一品作家のひねもす下手な絵つけ、観念芸術派の工芸作家にはとても想像も及ばない
ことが、たくさんあった。色ガラスの工芸を知ってもらうために、大阪、京都、神戸、
金沢、仙台、札幌とドサ回りの個展をつづけ、興行師のように旅を重ねた。
あるときは、市井のコップ屋になりさがり、あるときは薬のアンプル屋に、また機銃
掃射の中を戸塚の国際航空会社へ接着剤の瓶を作りに行った。ひとときは和田三造画伯
とともに仕事をして、追いまくられたこともあった。帝展や日展を牙城と心得る作家群
の及びもつかない労苦を重ね重ねた。

和田先生とのつながりは、昭和三年の春からであった。その前年、帝展に銀製ルイ様式
の置時計を出品、東洋時計社長、吉田庄五郎君に知られて、時計全部のデザインを依頼
され、 和田先生と建築家の菅原栄造君と私とが、立体(付属装飾)、大理石、ガラス
と三部に分担することになった。会社案の大理石時計枠を、菅原君は定規でどんどん
直した。この会社に愛嬌者の職長で、浦田竹次郎君という、字は書けないが、誠実、
勤勉、黒の詰め襟、イガグリ頭のヒョウキン者がいた。「ちょっと先生、犬のこういう
ところを描いてくれませんか。馬を描いてください」というと即座に、当時流行のテリヤ
でもセパードでもなんでも和田先生は描いた。

ルブッセウエストミンスター置時計  水牛硝子置時計

あのころの福吉町の旧宅は文字どおりの陋宅で、いちばん先生らしくておもしろかった。
玄関の格子戸は引けないくらい傾き、ゆれる梯子(はしご)段、その上の物干しにセパード
が飼ってあった。階下には寺尾、大西君らの小倉袴の書生さんがぞろぞろしていた。
フランスの大道にあるというヒキガエルの置物に玉を投げ入れるゲームをやっていた。
柱にブルドッグがつないである。襖は穴だらけ、庭前から赤煉瓦の教会、市兵衛町の
森を右に、国会が見られた。妙な二階の渡り廊下を渡ると、女のお弟子さんの一室、
ロウケツやツヅレ織を蜂須賀とし子夫人、田村千恵さんという美女がやっておられた。
先生は「羽衣」と題されたその年の帝展出品作を、モデルなしで描いておられた。
そばにフランス木版のエピナルが参考においてあった。

さて、浦田君の注文どおり、馬乗りの人、ゴルフの姿と、なんでも先生は描けるはず、
先生は寝床に帳面をおかれて、思いついたらすぐ描きとめるといわれた。私もそれから
帳面を手放さない習慣をつけた。あるとき浦田君が私に、箱庭の家のような置時計を
作って、そばに金魚をおくから、ガラスの押し型を作ってくれといわれた。俗っぽい
アイデアで私は少々腹だたしくもあったが、いわれたとおりのものを作った。なんと
これが誇張していえば、飛ぶように売れた。それから私は大衆小説を大切に目を通す
ようになった。
この集まりは、戦争で統制となるまで十余年間続いて、東洋時計にたいへんプラスに
なった。私も同じ部屋で先生の仕事ぶりを拝見し、浦田君の金魚の時計では、ガラス工芸
の大衆化について教えられることが多かった。
きょうこのごろ、嫁の糸子が真っ赤な皿や花瓶を作って、私はむずむずすることが
ある。しかし、ああ、あれは“金魚の時計“だと悟るようになった。岩田ガラスも
なんと金魚臭が多きことよ。和田先生は、いまの岩田工芸ガラスを創立するときに、
創立発起人になって、それから取締役になっていただいている。

藤七スケッチ帖より
(能楽堂にて)(戦前) (工場風景)

さて私は戦後、コップ屋になり下がったが、生きるためと、工員をかかえているため
には仕方がない。いまはメートル法が実施されたからもっと種類が多いが、そのころ
コップは、これだけ種類があった。三寸、中タン、十オンス、八オンス、新八、新七、
旧八、旧七、旧六、中タル、中タル1合、中タル九勺、長七オンス、長八オンス、
長十オンス、新型八オンスと、ざっとこれだけ。洋酒の方はたいへんだからやめて
おく。一合入りのコップが八勺になり、六勺になって、見た目には変わりないが、
厚くなって底が上がって、コップとしては丈夫になった。だから、このごろの飲み屋の
価格表には、酒一杯六十五円と書いてある。一合とは書いてない。お隣は百円ですが、
手前どもは六十五円でという。からくりはお酒が悪いためでも、アルコール分が低い
ためでもない。容量が少ないのだ。

工芸ガラスを普及させるまでにはこんな仕事も二年つづけた。一品製作の工芸作家群よ、
君たちはこの三十年間に何を学び何を作ったか。しょせん工芸とは、量産と商品化と
私ははっきり割りきる心構えがしだいにできてきた。工場を持たない工芸作家は一種の
デザイナーに過ぎない。しょせん工芸とは、みんなのために作る仕事である。
地道な仕事だ。


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