岩田家のガラス芸術 BLOG 岩田の事

炎の贈り物 藤七・久利・糸子が織りなす岩田家のガラス芸術

岩田久利作 花器「黒百合」  今月の作品No.20

2011-09-01 09:00:52 | 今月の作品
今月の作品                           2011年9月1日
No.20  岩田久利作 花器「黒百合」

制作年  1985年
サイズ  幅 21cm  奥行 11cm  高さ 26.5cm

開いた花びらのよう曲線を描く花器。



色と透き通った部分の対比が大変効果的。


色の間のガラスは柔らかに外側へ開いています。



濃い色と金箔と透き通ったガラスのなめらかさ。

撮影中村明彦

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「岩田藤七 ガラス十話」 8 美の発見

2011-09-01 08:55:14 | 藤七の言葉
「ガラス十話」  岩田藤七       毎日新聞 昭和39年4月-5月に掲載 
                                
1 おいたち    2011/2/1掲載  
2 青年時代      2011/3/1掲載            
3 美校時代の交友  2011/4/1掲載          
4 建築       2011/5/2掲載              
5 岡田三郎助先生  2011/6/2掲載        
6 職人気質     2011/7/1掲載
7 和田三造先生   2011/8/1掲載
8 美の発見     2011/9/1掲載
9 物いわぬ師
10 道はけわしかった


「ガラス十話 8 美の発見」

 十話もすでに八回目となりました。毎回毎回、私の身の上話だの、絵描きさんだの、
美術学校のことだのと私情にもわたってくどくどと書きました。これも明治という
よき時代をいいたかった、思い出したかったからです。いわば前奏曲、今回はいいたい
ことをいって、書かしてください。

幾百万という読者の中には、ガラス屋さんもいられるでしょう。たしかに、ガラス屋は
二代と続かない。板ガラスと瓶、電球、レンズ、信号機は別として、大きくなれない
業種です。あぶら汗したたる重労働です。明治の時代にはランプ、電球、瓶、コップ類
の実用品でたいへん生活に貢献をしました。いや、ビーカー、アンプルなどと医療器、
科学用品、ジョッキ、魔法瓶、赤や瑠璃の鉢にコップ、インクスタンド、最近では
ネオン管や放電管があります。これは東芝のような大資本下でなければできない仕事
です。その他もろもろの小さな玩具、ボタンもネックレスもつくりました。
が、ガラスの本質を見きわめて、その中から近代の美しさを発見するという大切なこと
をガラス屋は忘れていました。目を内側にのみ向けてお互いに競争し、せり合い、
問屋にひどい搾取をされ、ちっともガラスの価値を、自分を高くしようとしなかった。
太るのは問屋ばかりでした。

なぜ日本のガラスを作り、日本の新しい感覚のガラスを作ろうとしなかったの
でしょうか。私は、たしかに岩城倉之助君にガラスの扱いを教えてもらいました。
が、その他のガラス屋さんから、真似はされても、何一つ学びとろうとはしなかったと
公言をいたします。ガラス屋さんから、私は素人ガラスといわれてきました。しかし、
そちらこそ素人だと心の中で思っていました。第二話で書きました、大村西崖という
密教学者のいわれた「大きな鐘を力いっぱい撞いて、声を聞け」 ―あの言葉です。
私の身近におられた岡田、和田の両先生は、ガラスへの導きとはなりました。青空だの
路徬の石や古いもの、新しいものをみんなガラスに置きかえて、近代的な魅力ある
美しさの発見のために苦しみました。ガラス屋さんとおつき合いしないのは、宴会に
つきものの勝負事、コイコイだのマージャン、碁も、将棋もなんにも私にはできない
からです。一、二度箱根へ組合の会合で旅行して困りました。私自身、身ぐるみ
ガラスに投げこんで、のるかそるか、勝つか負けるか一生をかけてます。これだけで
勝負事はたくさんです。こんなことを書いているとだんだん興奮してきます。

興奮と衝撃の恐ろしさは死期を早めるという例をみました。それは四月十八日に
亡くなられた彫刻家の朝倉文夫先生です。私には恩師でした。乾隆ガラスの美しさを
教えてくださいました。私の心をささえ、つねに元気づけてくださいました。
こんな純粋な先生はないと思います。先月、自分に利害のない作家を、一人は院賞に
一人は恩賜賞に推薦されましたが、ある理由で審議する以前に会議で取り下げました。
これは明らかに公明なるべき選挙の自由を欠いた行為だと思います。先生のショックは
大きく、白血病はますます進行して十八日に死去、二十四日に告別式が行われました。
そのとき、日展の理事長、辻さんのこんな弔詞がありました。
・・・・・ときにあなたの高邁にして深遠な理想が日展運営の現実と背馳(はいち)すること
もありましたが、秋になって日展が開かれると毎回あなたの姿を・・・・・いま、こつ然
としてあなたを失ったことは、まことに痛根の極みであります。私どもはいまあなた
亡きあと、幾多のあなたの理想を思い浮かべ、純粋なる芸術進展のため信念をもって、
邁進したいと思います・・・・・(抜粋)

 朝倉文夫師

これは、どういうことの意味なのでしょうか。亡くなったいま、やっと朝倉先生の
高邁で深遠な純粋さがわかりました、あなたの理想を実行しますと、先生の遺骨前で
の誓いと思います。それならもう少し早く気がつけば、あんな純粋な先生を興奮させず
にすみました。

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