岩田家のガラス芸術 BLOG 岩田の事

炎の贈り物 藤七・久利・糸子が織りなす岩田家のガラス芸術

「イワタルリ」 展  GEM ART

2011-06-02 14:17:05 | お知らせ
「イワタルリ」 展

イワタルリの宙吹きによる小さな器の展覧会です。
新作のぐいのみ・グラス、小さな花器や繊細な食器、カラフルなアクセサリー。
身近に使えるイワタルリの工芸作品が楽しく集っています。

どうぞお誘い合せ、ご来場下さい。

        

会場 GEM ART (ジェム アート) 
   〒107-0062 港区南青山6-1-6 パレス青山109 TEL:03-3400-1271
   根津美術館正門前

会期 2011年6月3日(金)~26日(日) 11:00~18:30



   GEM ART : www.gallerytom.co.jp

「岩田藤七 ガラス十話」 5 岡田三郎助先生

2011-06-02 12:15:23 | 藤七の言葉
ガラス十話」  岩田藤七       毎日新聞 昭和39年4月-5月に掲載 
                                
1 おいたち    2011/2/1掲載  
2 青年時代      2011/3/1掲載            
3 美校時代の交友  2011/4/1掲載          
4 建築       2011/5/2掲載              
5 岡田三郎助先生  2011/6/2掲載        
6 職人気質
7 和田三造先生
8 美の発見
9 物いわぬ師
10 道はけわしかった


「ガラス十話 5 岡田三郎助先生」

明治三十年に文部省は初めて海外に留学生を派遣した。
選ばれたのは岡田三郎助先生、時に四十八歳。その前年、第一回明治美術展に「夕日」
「渋谷の夕暮」「風雨」「春の野辺」など、 二十二点を出品、題名の示すように、
ほの暗いロマンに満ち、哀愁ただよう明治自然主義調の絵であった。

三十年五月に横浜を発たれて、三十五年一月ロンドンから帰国されるまでの四年余を、
パリのコラン氏に師事、コラン氏の別邸、フォントネーの一室に仮寓し、その庭園で
村娘を描かれ、後にアカデミー・ビチーに入学された。ホルバインの自画像の一枚の
模写に三年間を費やされた(このホルバイン模写は芸大の所有になったが、保存が悪く、
昨秋、高島屋での先生の遺作展には出品さえできない状態であったと聞く)。
「パリ在留中、ベルギー、南仏、イタリアなどに旅行し、これらの都の美術館に
所蔵される各国の古美術品を研究した」と「画人岡田三郎助」の本の中で、富永惣一、
隈元謙次郎両先生が書いている。察するに古美術とあるから、ずいぶんと工芸を鑑賞され
イタリア、ベルギーのガラスも見られたと推察する。一例をあげれば、明治三十三年の
パリ万国博覧会に噴水の背景になっていた、半透明のパットベールという新しい技法の
ガラス板は、各国が注目し、先生も自ら作者をたずねてノートをとってこられた。
この方法は岩城ガラスに伝えられた。同社勤務の小柴外次郎君は退社後、溶解窯を
用いないでほそぼそとその技法で今なお製作している。
ロンドンからの船中、山田三次郎氏と同室であった。山田氏は旭硝子の社長でベルギー、
英国のガラス工場は見せてもらえず、何もうるところなく傷心やる方なかったと先生は
話されていた。五十日の同室での航海中、必ずや両者間でガラスの話があったと推察される。

明治、大正ころの伊達跡の先生の画室には陶器や古裂地よりもガラス器のギヤマンの
収集が多く、いつも出窓に並べて鑑賞されていた。地震で大半が破損したが、ガラスへの
執着はたいへんなものであった。そんなとき、先生の前に私が現われていたわけで、
美校入学当初から「君は工芸の道を選べ」といわれた。「君ならやりとおせる」とムチを
打たれた。私のわがままを朝倉文夫先生もそうであったと同じように、通させ、聞き、
察し、押してくださった。ガラスの仕事の完成を両先生ともに見守り続けておられた。
町のガラス屋を尻目に、彼らから離れ、孤立して一人歩きできたのも、両先生の精神の
うしろ楯あってのことであった。

私が先生から紹介を受けて山田氏にお目にかかったのは麻布のお住まいである。
このころ買い入れたシーメンスの窯でつくった板ガラスが第一次大戦で大当たりし、
旭は三菱系列中の大会社となって、山田さんは工芸にはまったく関心がなかったので
やむなく深川三好町の岩城ガラスの研究室へ先生の紹介で通うことになった。
三好町からほど遠からぬところに深川八幡、不動堂があった。震災後の木場の掘割り
には、もはや小舟の渡しはなく、大きな鉄橋とかわった。震災で多くの死者を出したと
いうので、新しく橋となったが、以前のおもかげはさらになく、往来は広く、風情なく、
料亭、洲崎妓楼の「大八幡」の時計台もなくなっていた。しかし谷崎さんの小説「刺青」
に出ている料亭「平勢」はまだあったし、「宮川」の鰻屋では曼魚君が紺の筒袖で働き、
八幡境内の「初音」の鳥屋も繁盛していた。銀杏返しの年増の粋な女中さんが大勢いた。

岩城ガラスでは、賓客扱いで、ずいぶん勝手に資材を無駄にさせてくれた。
当主の岩城倉之助君の先代、滝次郎氏は房州は館山の人、三条公が明治初年に英国人と
イタリア人を招き設立した三田の東京ガラスで、英国人から技法を学び、職長までに
なって独立した人であった。しかし、時代が鹿鳴館時代であったから、シャンデリアと
切り子コップや鉢は作られたが、中吹きガラスは気がつかなかった。ガラスの大衆化を
はかって、文鎮にはすぐれたものを作られた。おもしろいのは、ガラスの屋根瓦や
当時流行した籘の下駄おもてをガラスで作り、小さいものでは碁石まで作った。
その他いずれも、世間には受けず、倉之助君にバトン・タッチし、日本郵船のかたい
仕事(信号レンズ)に乗りかえ、大成した。時に満州の風雲あやしく、さらに軍部の
仕事と手広くなったので私の仕事とは相容れず、私は堀切のバタヤへ落ちのびて、
バタヤの子供をかき集めて工芸ガラスを始めた。私の民芸風のガラスを最初に発見し、
注文したのは、少々おけちさんが玉にキズの最近の長島温泉社長、服部知祥氏である。
一個三十銭で、白粉入れ五千個の注文は岡田先生も喜び、私も自信を得た。

これが松坂屋のガラスの個展となり、高島屋の三十年の私のガラス展の動機となった。
川勝堅一、堀口大学、与謝野晶子、佐藤春夫、勅使河原蒼風、井上源之丞、岡部長景氏ら
に知られるようになった。