岩田家のガラス芸術 BLOG 岩田の事

炎の贈り物 藤七・久利・糸子が織りなす岩田家のガラス芸術

岩田藤七 ガラス十話   10 道はけわしかった

2011-11-01 08:56:57 | 藤七の言葉
「ガラス十話」  岩田藤七       毎日新聞 昭和39年4月-5月に掲載 
                                
1 おいたち    2011/2/1掲載  
2 青年時代      2011/3/1掲載            
3 美校時代の交友  2011/4/1掲載          
4 建築       2011/5/2掲載              
5 岡田三郎助先生  2011/6/2掲載        
6 職人気質     2011/7/1掲載
7 和田三造先生   2011/8/1掲載
8 美の発見     2011/9/1掲載
9 物いわぬ師    2011/10/1掲載
10 道はけわしかった 2011/11/1掲載


「ガラスの十話 10 道はけわしかった」

 千利休が茶の湯にガラスを用いなかったから、ガラスは骨董にもならないし、
粗末にされ、安ものとよくいわれる。もし当時、使われていたら、ずいぶんあれこれと
厄介なことだろう。

 戦前の初夏のある夕に、私と妻の二人がおよばれを受けた。その家のご夫人は、
白のドレスで迎えられた。夕食は洋食。食後、ややしばらくして、大丸まげに早がわり
されて広間に案内された。茶の湯を楽しむわけである。いつの間に集められたか、
水さし、茶碗、鉢、その他全部が私のガラス製品である。ガラスを大広間で見たのは
これがはじめてである。おりから馬込の畑から吹き上げる風にやっと落ち着き、
自作ながらお見立て感服、とアッといわせたのは、毎日新聞編集局長の狩野さんの夫人
であった。それから二十数年たって、どうやら水さしには、すがすがしくて清潔な
ガラスが使われるようになった。砂糖壷や、アルコールづけの瓶を思い出してはだれも
使うまいのに、狩野きわ子夫人は茶道へガラスをとり入れた最初の発見者である。

 水指「こぼれ梅」1966年   黄瑠璃茶碗 1965年


 日本では、いまだに、ガラスの仕事をした確かな窯跡が発見されていない(出雲で
発見されたという説もあるにはあるが)。まして、いつ、だれがどんなことをしたかも、
その人もわからず、ただ、眼鏡屋の生島藤七が江戸初期に長崎でガラスを学び、
江戸ガラスを作ったという、ただそれしかしられていない。天正のころ、櫓時計が作られ、
そのおおいに、泡だらけのガラスが使用されているから、徳川初期には作られていた
証拠になろう。

 仏像の目は玉眼つまり水晶という人もある。それなら、どうして東大寺の仁王の目の
水晶をどこから持ってきてみがいたのであろう。藤原、鎌倉と、足利、徳川までいれれば、
仏像と玉眼の数はとうてい数えきれない。水晶を球面にするには、今日の研磨技術を
もってしても容易な仕事ではない。玉眼の研究以外に日本のガラスの発生の起源を知る
方法はない。私はかつて、大阪府下の信太村へ、ネックレス、トンボ玉の製法を見に
行った。少量のガラスならばこの村のように、長石の溶解方法でもできると知った。
それは鉛を溶解して長石を入れて仕上げる方法である。寛政年間に発行された徳川時代の
工業百科全書ともいえる「こうげい袋」には、染織、獣皮などとともにガラスの製法が
絵入りで記載されている。

 アメリカ政府は最近、日本のガラスの起源と現状に注意しはじめ、ドロシー・ブレイヤー
女史を日本に派遣して専攻させている。長崎、大阪、仙台と伝説として伝わるガラスの
発生地をつぶさに回り、滞在五年後、一度帰国、その後再三来日して研究している。
東京国立博物館の美術課長、岡田譲氏は、日本のガラスの権威であるが、この点に関して、
はっきりといわれない。いまだに不明である。陶工とくらべ、なんと日本のガラス工の
あわれたることか。この三月に白木屋で開かれた歌麿展には、コップ片手の美人錦絵が
あった。あのコップは舶来だろうか、日本製であろうか。たしかにあのころ、
徳利と杯は江戸にあった。

 薩摩切り子の収集では、なくなられた朝倉文男先生のそれは随一のものである。
薩摩切り子は文献も島津家にあり、製作場も明らかにされている。日本のガラス工芸史は、
ここから正確に書かれると思う。明治中期以後から作られた氷コップ、氷碗には、
口紅のぼかし、瑠璃ぼかし、あぶりだしオパールの西洋の技法が日本化されているが、
これは高く評価してよいと思う。この四、五年来、工芸ガラスは急激に発展してきた。
各務鉱三君は、クリスタルに目をつけて製品化した。しかし、セミクリスタルといって、
ニセものを大きな会社でつくっては各務君も浮かぶ瀬もない。

 アメリカ(スチウベン、ランベルト)、スウェーデン(オルコース、コスター)、
フランス(ラリック、パカラ、ドーム)、イタリア(ベルニー、フォンタナ)、 
メキシコに最近は日本も加わってきた。世界中、これだけしか工芸ガラスを作る国はない。
思えばけわしい道であった。誇張ではない。私の後援者だった元高島屋支配人の
川勝堅一さんが私の苦難をいちばん知っている。梅原龍三朗先生は「作家は馬鹿がいい」
と私にいってくださる。いわゆるお利口者ではできないのがガラス工芸作家である。

 恩師岡田先生は、借財がないと稼ぐ張り合いがないといわれ、 亡くなられるまで画商
青樹社の鈴木理一郎君(後タマ自動車社長)から借財されていた。私はどういうものか
波乱がないとファイトが湧いてこない。芸術院会員になってからも、工芸界に産業工芸の
新風を吹き込み波乱を起こしたかった。

        作品と  1967年頃

 ある年、日本の代表的な工芸作品を買い上げたいと、ソ連のエルミタ―ジの美術館から
交渉があったのを幸い、工芸家の作品以外に花嫁衣裳、川島、龍村の織物をわずか五百万円
ほど買い上げたら、社会党の高津正道代議士がひどく曲解して、デパートから手数料を
とったと不当な難ぐせをつけ、文教委員会の論戦にまで発展させた。結局は茶番劇に
終わったが、私は同君を名誉毀損で訴えた。ソ連に正しい日本の工芸品を買わせ、国内では
安くて誰にも親しめる工芸品を作らそうとしたのが、何がいけないのだ。それをボス的
行為だとひどくきめつけられ「世の中をさわがせた」というわけで、帝展から去れという
処断を、辻さんから受けた。私はこれを機会に帝展から去った。そして、息子夫婦と
ともに一本立ち、岩田ガラスの一層の強化を計って、ガラスの大衆化にさらに精進する
ことになった。

 妻・邦子と    久利・糸子・マリ・ルリ   1961年頃

 なお、芸術院会員にして、労働組合と交渉し、もまれているのは私一人であろう。
ガラス工芸の道に生きるものは、孤高を持してばかりはいられない。工場があるからには、
工員があり、彼らの生活がある。最も健全な労働組合の発達を願って、仕事をするときは、
組合員と同じに私自身も朝八時から働いているのだ。しょせん、部外者では理解できない
ことが、ガラスの仕事にはいっぱいある。


岩田藤七の作家紹介と経歴はこちら


「岩田藤七 ガラス十話」   9 物いわぬ師

2011-10-01 15:08:19 | 藤七の言葉
「ガラス十話」  岩田藤七       毎日新聞 昭和39年4月-5月に掲載 
                                
1 おいたち    2011/2/1掲載  
2 青年時代      2011/3/1掲載            
3 美校時代の交友  2011/4/1掲載          
4 建築       2011/5/2掲載              
5 岡田三郎助先生  2011/6/2掲載        
6 職人気質     2011/7/1掲載
7 和田三造先生   2011/8/1掲載
8 美の発見     2011/9/1掲載
9 物いわぬ師    201/10/1掲載
10 道はけわしかった


「ガラス十話 9 物いわぬ師」


 戦争ですっかり、ガラス屋の徒弟制度もなくなり、親方といった、ならわし、
すべてのドンブリ勘定の風習もなくなった。しかし、なくなって困るものもできた。
それは企業整備の運用の不手際で、ガラスの石型屋と焼きつけ屋がなくなったことだ。
ともに江戸時代からの継承者であった。石型屋は回向院裏に、焼きつけ屋は錦糸町に
住んでいた。技術保存のむずかしい今となっては、マイナスである。

 私の工場もあぶなくなった。が、当時の商工省の技官、和泉和作さんが、ガラスの
宙吹きの重要性を主張してやっと残してくださった。和泉さんにはこんな逸話がある。
東条さんが例の坊主頭に黒ぶち眼鏡で省内を見回りにきたとき、平気でくわえたばこで
いたとの理由で逆鱗にふれて、譴責をくらったという。この根性が和泉さんにあったれば
こそである。工場は残されたものの、石炭ひとかけらも、ソーダ灰の半俵もくれなかった。
餓死状態に私はおかれた。しかし軍需品関係の組合員は軍服を着て、わが世の春で
あった。幸い堀切小菅町の工場は利根川支流のデルタ地帯で、この近くのバタヤ集落には
大地主もいない。小さなお百姓さんとお寺が多くて、世ばれなしたところであった。
しかし早くから私の工場には太い四インチのガス管を引いていたので、半年ぐらい
ガラスを溶かすには不自由しなかった。

 忘れもしない昭和二十年三月に大空襲があった。あくる日、水のしたたる着物や靴が
土手に干してあった。いわずとしれた、水死人から引きはがしたもの。鶴屋南北の芝居
を地でいったバタヤ、吉原のお職、楼主のなれのはてもいた。無法地帯であった。
虫に餌ありの諺どおり、この土地で工員を大切にし、その家族を守り、ガラス工芸の
根絶やしを防いだ。物質、食料、金銭調達のための妻の苦労はたいへんなものであった。
衣料はお米に替え、所有の家屋は売り払い、工場につぎこんだ。そんな苦労を少しも
顔に出さなかった。土地がら闇物資も多かったのでこの土地がたいへん気に入ってか、
久保田万太郎、当時の法務次官三宅正太郎の両先生、吉原のきれいどころが、たびたび
息ぬきにやってこられた。

昭和40年代藤七と妻邦子 自宅前にて 自宅座敷にて

 空襲でしだいに資材がなくなったが、海軍病院から注射管を引きうけた。ラムネ、サイダー瓶
を焼け跡から集めさせ、再生した。悪路の都内では運搬途中に管は半分にこわれる。
泣かされた。それから、立川飛行機の外山さんに呼ばれて「実は日本には軽金属は
なくなった。木製飛行機の計画はできたが、ノリを入れる容器がない。ノリ入れを作れ」
という注文がきた。幾千個も作ったが、終戦で役にたたなかった。つぎは進駐軍のコップ、
なれない仕事でたいへんな大赤字だった。東芝の放電管の試作もさせられたが、いまを
ときめく東芝も支払いに困り、株券で決済したことがある。こんなとき財産税、なんとか税の
取りたてが厳しく、差押え、競売もされた。長年集めた浮世絵もバラバラに手ばなした。
苦境を見て逃げ出す工員もあった。

 ガラスは、透明無色で明るくて純情で豪華で繊細、やり直しがきかなくて、どこかの
日本舞踊家に似て肌ざわりがよい。吾妻徳穂かな。冷たいようですぐあたたかくなる、
あたたかいかと思うとすぐ冷たくなる、気まぐれ者。無駄が多くて人手がいって、計算
ずくめでは動かない。こっちが笑うと、向こうも笑う。真夜中にガラスをながめると、
たしかにお互いに話しあっているようにみえる。ガラスは魔術師である。この魔女に
魅せられているから、私の苦労もしかたがない。が、いわゆる作家仲間に通じない、
いろいろな世界を教えてくれた。妻邦子もよく辛抱し、私を力づけた。

 「くに子夫人幼時の像」 中村岳稜画


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「岩田藤七 ガラス十話」 8 美の発見

2011-09-01 08:55:14 | 藤七の言葉
「ガラス十話」  岩田藤七       毎日新聞 昭和39年4月-5月に掲載 
                                
1 おいたち    2011/2/1掲載  
2 青年時代      2011/3/1掲載            
3 美校時代の交友  2011/4/1掲載          
4 建築       2011/5/2掲載              
5 岡田三郎助先生  2011/6/2掲載        
6 職人気質     2011/7/1掲載
7 和田三造先生   2011/8/1掲載
8 美の発見     2011/9/1掲載
9 物いわぬ師
10 道はけわしかった


「ガラス十話 8 美の発見」

 十話もすでに八回目となりました。毎回毎回、私の身の上話だの、絵描きさんだの、
美術学校のことだのと私情にもわたってくどくどと書きました。これも明治という
よき時代をいいたかった、思い出したかったからです。いわば前奏曲、今回はいいたい
ことをいって、書かしてください。

幾百万という読者の中には、ガラス屋さんもいられるでしょう。たしかに、ガラス屋は
二代と続かない。板ガラスと瓶、電球、レンズ、信号機は別として、大きくなれない
業種です。あぶら汗したたる重労働です。明治の時代にはランプ、電球、瓶、コップ類
の実用品でたいへん生活に貢献をしました。いや、ビーカー、アンプルなどと医療器、
科学用品、ジョッキ、魔法瓶、赤や瑠璃の鉢にコップ、インクスタンド、最近では
ネオン管や放電管があります。これは東芝のような大資本下でなければできない仕事
です。その他もろもろの小さな玩具、ボタンもネックレスもつくりました。
が、ガラスの本質を見きわめて、その中から近代の美しさを発見するという大切なこと
をガラス屋は忘れていました。目を内側にのみ向けてお互いに競争し、せり合い、
問屋にひどい搾取をされ、ちっともガラスの価値を、自分を高くしようとしなかった。
太るのは問屋ばかりでした。

なぜ日本のガラスを作り、日本の新しい感覚のガラスを作ろうとしなかったの
でしょうか。私は、たしかに岩城倉之助君にガラスの扱いを教えてもらいました。
が、その他のガラス屋さんから、真似はされても、何一つ学びとろうとはしなかったと
公言をいたします。ガラス屋さんから、私は素人ガラスといわれてきました。しかし、
そちらこそ素人だと心の中で思っていました。第二話で書きました、大村西崖という
密教学者のいわれた「大きな鐘を力いっぱい撞いて、声を聞け」 ―あの言葉です。
私の身近におられた岡田、和田の両先生は、ガラスへの導きとはなりました。青空だの
路徬の石や古いもの、新しいものをみんなガラスに置きかえて、近代的な魅力ある
美しさの発見のために苦しみました。ガラス屋さんとおつき合いしないのは、宴会に
つきものの勝負事、コイコイだのマージャン、碁も、将棋もなんにも私にはできない
からです。一、二度箱根へ組合の会合で旅行して困りました。私自身、身ぐるみ
ガラスに投げこんで、のるかそるか、勝つか負けるか一生をかけてます。これだけで
勝負事はたくさんです。こんなことを書いているとだんだん興奮してきます。

興奮と衝撃の恐ろしさは死期を早めるという例をみました。それは四月十八日に
亡くなられた彫刻家の朝倉文夫先生です。私には恩師でした。乾隆ガラスの美しさを
教えてくださいました。私の心をささえ、つねに元気づけてくださいました。
こんな純粋な先生はないと思います。先月、自分に利害のない作家を、一人は院賞に
一人は恩賜賞に推薦されましたが、ある理由で審議する以前に会議で取り下げました。
これは明らかに公明なるべき選挙の自由を欠いた行為だと思います。先生のショックは
大きく、白血病はますます進行して十八日に死去、二十四日に告別式が行われました。
そのとき、日展の理事長、辻さんのこんな弔詞がありました。
・・・・・ときにあなたの高邁にして深遠な理想が日展運営の現実と背馳(はいち)すること
もありましたが、秋になって日展が開かれると毎回あなたの姿を・・・・・いま、こつ然
としてあなたを失ったことは、まことに痛根の極みであります。私どもはいまあなた
亡きあと、幾多のあなたの理想を思い浮かべ、純粋なる芸術進展のため信念をもって、
邁進したいと思います・・・・・(抜粋)

 朝倉文夫師

これは、どういうことの意味なのでしょうか。亡くなったいま、やっと朝倉先生の
高邁で深遠な純粋さがわかりました、あなたの理想を実行しますと、先生の遺骨前で
の誓いと思います。それならもう少し早く気がつけば、あんな純粋な先生を興奮させず
にすみました。

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「岩田藤七 ガラス十話」 7 和田三造先生

2011-08-01 12:17:47 | 藤七の言葉
「ガラス十話」  岩田藤七       毎日新聞 昭和39年4月-5月に掲載 
                                
1 おいたち    2011/2/1掲載  
2 青年時代      2011/3/1掲載            
3 美校時代の交友  2011/4/1掲載          
4 建築       2011/5/2掲載              
5 岡田三郎助先生  2011/6/2掲載        
6 職人気質     2011/7/1掲載
7 和田三造先生   2011/8/1掲載
8 美の発見
9 物いわぬ師
10 道はけわしかった


「ガラス十話 7 和田三造先生」

 体力、資材の消耗の多いガラス屋三十年の間には、戦争あったし、工員をかかえ、
毎日一トンの石炭を燃やすなど、ガラス作りの裏方にはいろいろなことがあった。
一品作家のひねもす下手な絵つけ、観念芸術派の工芸作家にはとても想像も及ばない
ことが、たくさんあった。色ガラスの工芸を知ってもらうために、大阪、京都、神戸、
金沢、仙台、札幌とドサ回りの個展をつづけ、興行師のように旅を重ねた。
あるときは、市井のコップ屋になりさがり、あるときは薬のアンプル屋に、また機銃
掃射の中を戸塚の国際航空会社へ接着剤の瓶を作りに行った。ひとときは和田三造画伯
とともに仕事をして、追いまくられたこともあった。帝展や日展を牙城と心得る作家群
の及びもつかない労苦を重ね重ねた。

和田先生とのつながりは、昭和三年の春からであった。その前年、帝展に銀製ルイ様式
の置時計を出品、東洋時計社長、吉田庄五郎君に知られて、時計全部のデザインを依頼
され、 和田先生と建築家の菅原栄造君と私とが、立体(付属装飾)、大理石、ガラス
と三部に分担することになった。会社案の大理石時計枠を、菅原君は定規でどんどん
直した。この会社に愛嬌者の職長で、浦田竹次郎君という、字は書けないが、誠実、
勤勉、黒の詰め襟、イガグリ頭のヒョウキン者がいた。「ちょっと先生、犬のこういう
ところを描いてくれませんか。馬を描いてください」というと即座に、当時流行のテリヤ
でもセパードでもなんでも和田先生は描いた。

ルブッセウエストミンスター置時計  水牛硝子置時計

あのころの福吉町の旧宅は文字どおりの陋宅で、いちばん先生らしくておもしろかった。
玄関の格子戸は引けないくらい傾き、ゆれる梯子(はしご)段、その上の物干しにセパード
が飼ってあった。階下には寺尾、大西君らの小倉袴の書生さんがぞろぞろしていた。
フランスの大道にあるというヒキガエルの置物に玉を投げ入れるゲームをやっていた。
柱にブルドッグがつないである。襖は穴だらけ、庭前から赤煉瓦の教会、市兵衛町の
森を右に、国会が見られた。妙な二階の渡り廊下を渡ると、女のお弟子さんの一室、
ロウケツやツヅレ織を蜂須賀とし子夫人、田村千恵さんという美女がやっておられた。
先生は「羽衣」と題されたその年の帝展出品作を、モデルなしで描いておられた。
そばにフランス木版のエピナルが参考においてあった。

さて、浦田君の注文どおり、馬乗りの人、ゴルフの姿と、なんでも先生は描けるはず、
先生は寝床に帳面をおかれて、思いついたらすぐ描きとめるといわれた。私もそれから
帳面を手放さない習慣をつけた。あるとき浦田君が私に、箱庭の家のような置時計を
作って、そばに金魚をおくから、ガラスの押し型を作ってくれといわれた。俗っぽい
アイデアで私は少々腹だたしくもあったが、いわれたとおりのものを作った。なんと
これが誇張していえば、飛ぶように売れた。それから私は大衆小説を大切に目を通す
ようになった。
この集まりは、戦争で統制となるまで十余年間続いて、東洋時計にたいへんプラスに
なった。私も同じ部屋で先生の仕事ぶりを拝見し、浦田君の金魚の時計では、ガラス工芸
の大衆化について教えられることが多かった。
きょうこのごろ、嫁の糸子が真っ赤な皿や花瓶を作って、私はむずむずすることが
ある。しかし、ああ、あれは“金魚の時計“だと悟るようになった。岩田ガラスも
なんと金魚臭が多きことよ。和田先生は、いまの岩田工芸ガラスを創立するときに、
創立発起人になって、それから取締役になっていただいている。

藤七スケッチ帖より
(能楽堂にて)(戦前) (工場風景)

さて私は戦後、コップ屋になり下がったが、生きるためと、工員をかかえているため
には仕方がない。いまはメートル法が実施されたからもっと種類が多いが、そのころ
コップは、これだけ種類があった。三寸、中タン、十オンス、八オンス、新八、新七、
旧八、旧七、旧六、中タル、中タル1合、中タル九勺、長七オンス、長八オンス、
長十オンス、新型八オンスと、ざっとこれだけ。洋酒の方はたいへんだからやめて
おく。一合入りのコップが八勺になり、六勺になって、見た目には変わりないが、
厚くなって底が上がって、コップとしては丈夫になった。だから、このごろの飲み屋の
価格表には、酒一杯六十五円と書いてある。一合とは書いてない。お隣は百円ですが、
手前どもは六十五円でという。からくりはお酒が悪いためでも、アルコール分が低い
ためでもない。容量が少ないのだ。

工芸ガラスを普及させるまでにはこんな仕事も二年つづけた。一品製作の工芸作家群よ、
君たちはこの三十年間に何を学び何を作ったか。しょせん工芸とは、量産と商品化と
私ははっきり割りきる心構えがしだいにできてきた。工場を持たない工芸作家は一種の
デザイナーに過ぎない。しょせん工芸とは、みんなのために作る仕事である。
地道な仕事だ。


岩田藤七の作家紹介と経歴はこちら


「岩田藤七 ガラス十話」 6 職人気質

2011-07-01 08:54:32 | 藤七の言葉
「ガラス十話」  岩田藤七       毎日新聞 昭和39年4月-5月に掲載 
                                
1 おいたち    2011/2/1掲載  
2 青年時代      2011/3/1掲載            
3 美校時代の交友  2011/4/1掲載          
4 建築       2011/5/2掲載              
5 岡田三郎助先生  2011/6/2掲載        
6 職人気質     2011/7/1掲載
7 和田三造先生
8 美の発見
9 物いわぬ師
10 道はけわしかった


「ガラス十話 6 職人気質」

 さて、今村繁三さんのお住まいは高輪と国分寺駅横の二つがあった。瀟洒な和風、
いまの料亭を思わせるのが高輪の宅。赤松を背景にして広々として、打ち続く丘陵の
中ほどになる赤瓦のコッテージ、これが国分寺のお住まいである。長く英国に留学された
だけあって万事が英国好み。静かで律儀で、ものにあせらず、いわゆる渋い英国型の
好紳士であった。
「私はいろいろなものを手がけたが、美術家がいちばんよかった。喜んでもらったうえ、
お渡ししたお金に数倍する作品をちょうだいして」などと冗談まじりにいわれた。
作家から物を貰って、包みのまま倉庫に入れ、十年も二十年もたってからあければ、
数倍になるのは当たり前。鷹揚な人柄であった。作家の選定もよかった。
中村彜(つね)画伯のパトロンであったのは有名である。

この人柄に、三菱はガラス工芸を託して、橘ガラスを経営させた。学者の坪井三郎技師を
加えた陣営は強い。販売品を、京橋ぎわ旧読売新聞社社屋から数軒西寄りに並べた。
明治も終わりに近いころであったが、あのあたりは暗かった。橘ガラスがあるために、
パアッと、赤、紫、青、瑠璃ときらめき明るくなった。当時はデザイナーというものが
なかったし、指導者もいなかったので徹頭徹尾、ランベルト、ティファニー社の真似に
終わったのが残念だった。
 その後のパニックで今村銀行が閉鎖され、辛抱強い今村さんも投げ出したのは
大正十四年である。骨董商山澄さん宅で今村さんにはじめてお目にかかったのを機会に、
国分寺宅でガラスの調合を教えていただいた。まれな幸運に私はめぐり合わせたわけ
である。黄緑色はホタル石にウラン、ブドウ色はマンガン、銅青は黒色酸化銅、
酸化クローム、コバルトは黒色酸化銅、酸化コバルトなどと二十種の、当時はまだまだ
秘中の秘とされていた調合を教わった。

今村さんからバトン・タッチである。ときに私は町のガラス屋の生態をだんだんと
知るようになった。彼らの無知と情熱と、無鉄砲と火との戦いに大変な魅力をおぼえた。

小梅、小村井、小松川、亀戸、堀切の湿地に随所に妙なガラス屋があった。
相撲の土俵ぐらいの面積、土を掘りあげて舞台をつくって、まん中にツボを五、六本入れ、
窯をつくる。細工台が三、四台、製品の整理は野天、テーブル一個に椅子一脚、
これが事務所である。戸、障子なしで、葭蔶とムシロを四方の柱にかけてある。
煙突は、土管のつなぎあわせで、裸で分厚な前かけ、手甲をつける。きのう作ったガラスを
荷車に積んで問屋へ、もらった現金で二、三日分の石炭を買い、残りは飲むか打つ。
打つとはバクチである。給料日にはなんとか支払うが、その場でバクチ、半分は
ガラス屋の親方へ戻ってしまう。結局、月給は半分しか払わないことになる。
ガラス屋の親方のバクチ上手が経営上手ということになった。シャツの上に洋服を着て、
つっかけ草履、腰に手ぬぐい、火やけで顔と手足は浅黒く、そのうえ火ダコ、
ホコリがつくから、頭はさばっとした角刈り、すごみがあって、金ばなれもよかった。
きょうはきょう、あすはあす、こんな江戸前の気性にほれこむ女が亀戸、
浅草にざらにあった。
だがこれらはガラス屋としては、最低で、オハジキや、吸呑み、風鈴、人形の玉眼、
金魚鉢、氷コップ、ミカン水の小瓶、秋口からは溲(しゅ)瓶、バッテリーに早がわり
である。労働基準法だの組合ができてからは、こんなガラス屋はみられなくなったが、
このC級の気分はA級の当今社長と呼ばれるガラス屋さんにもなくはない。C級が亀戸、
小松川の花街なら、こちらは柳橋か向島、熱海が大好きで、着くと座布団出して商売、
商売。どちらにしても真似と形の盗みは朝めし前、赤のコップ、鉢、ベリーセットという
ものが昭和のはじめにたいへん流行したのは、今村さんの先鞭からであった。
失礼ながらガラス屋に創作なし、その頃は二代目もないのが定説であった。

「けちけちするな、ガラス屋になれるかい」――たしかに浪費を美徳とするのも
一理がないわけではない。しかし、変わったガラス屋が大阪にあった。荷造りの繩が
ちょっと長いと無駄だとしかるという瓶屋さんである。いまをときめく朝日ビール社長の
山本為三郎氏の尊父の瓶屋さんである。ガラス屋に二代目なしと浪費を美徳とする
輩(やから)の頂門の一針である。はてさて、わが家の息子夫婦はどうだろう。
母が私にいいのこした「五両を次代へバトン・タッチ」は、一万倍にして五万円だけ
遺産にしておこう。どうぞ内地も外地へもガラス製品をまきちらし、
わが家こそ作家で産業工芸の手本となってくれ。

      岩田工芸硝子旧工場