岩田家のガラス芸術 BLOG 岩田の事

炎の贈り物 藤七・久利・糸子が織りなす岩田家のガラス芸術

岩田藤七作 貝「海底の宝」  今月の作品No.18

2011-07-01 09:00:00 | 今月の作品
今月の作品                           2011年7月1日
No.18  岩田藤七作 貝「海底の宝」

制作年  1963年
サイズ  幅 20.5cm  奥行 16cm  高さ 9cm

全体に金箔のついた、小ぶりの貝です。



下半分に「蟹」のような突起がたくさん付いています。



内側は黄色、外側に梨地の金箔が現れています。




色と金が流れるようなガラスの隆起、圧巻の美しさです。

撮影中村明彦

               
  

岩田藤七の作家紹介と経歴はこちら


「今月の作品」は販売しております。  「海底の宝」 この作品は売却済みです。

お問い合わせは下記へお願いいたします。

Verrerie Kumap  ヴェルリー クマップ
Tel:03-3553-5810 Fax:03-3553-5809
E-mail:vk@iwataglassart.com

イワタルリの盃 「赤の盃」 「傘の盃」 今月の作品 No.17 

2011-07-01 08:55:32 | お知らせ
イワタルリの盃 「赤の盃」「傘の盃」

6月3日~26日、南青山 GEMART にて開催されました「イワタルリ」展には、
大勢のお客様にご来場賜り、またお買上頂き、誠にありがとうございました。

2年毎のこの展覧会も3回目になりますが、イワタルリの工芸作品の発表の場として
ますます充実して参りました。今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。

さて、5月の「今月の作品」として掲載いたしました「盃」ですが、
ご好評につき、お申し込みを続けさせて頂くことになりました。
お渡しまでひと月程かかりますが、どうぞこの機会にお申し込み下さいますよう、
ご案内申し上げます。





詳しくは、「今月の作品 2011年5月 イワタルリの盃」をご覧下さい。

「岩田藤七 ガラス十話」 6 職人気質

2011-07-01 08:54:32 | 藤七の言葉
「ガラス十話」  岩田藤七       毎日新聞 昭和39年4月-5月に掲載 
                                
1 おいたち    2011/2/1掲載  
2 青年時代      2011/3/1掲載            
3 美校時代の交友  2011/4/1掲載          
4 建築       2011/5/2掲載              
5 岡田三郎助先生  2011/6/2掲載        
6 職人気質     2011/7/1掲載
7 和田三造先生
8 美の発見
9 物いわぬ師
10 道はけわしかった


「ガラス十話 6 職人気質」

 さて、今村繁三さんのお住まいは高輪と国分寺駅横の二つがあった。瀟洒な和風、
いまの料亭を思わせるのが高輪の宅。赤松を背景にして広々として、打ち続く丘陵の
中ほどになる赤瓦のコッテージ、これが国分寺のお住まいである。長く英国に留学された
だけあって万事が英国好み。静かで律儀で、ものにあせらず、いわゆる渋い英国型の
好紳士であった。
「私はいろいろなものを手がけたが、美術家がいちばんよかった。喜んでもらったうえ、
お渡ししたお金に数倍する作品をちょうだいして」などと冗談まじりにいわれた。
作家から物を貰って、包みのまま倉庫に入れ、十年も二十年もたってからあければ、
数倍になるのは当たり前。鷹揚な人柄であった。作家の選定もよかった。
中村彜(つね)画伯のパトロンであったのは有名である。

この人柄に、三菱はガラス工芸を託して、橘ガラスを経営させた。学者の坪井三郎技師を
加えた陣営は強い。販売品を、京橋ぎわ旧読売新聞社社屋から数軒西寄りに並べた。
明治も終わりに近いころであったが、あのあたりは暗かった。橘ガラスがあるために、
パアッと、赤、紫、青、瑠璃ときらめき明るくなった。当時はデザイナーというものが
なかったし、指導者もいなかったので徹頭徹尾、ランベルト、ティファニー社の真似に
終わったのが残念だった。
 その後のパニックで今村銀行が閉鎖され、辛抱強い今村さんも投げ出したのは
大正十四年である。骨董商山澄さん宅で今村さんにはじめてお目にかかったのを機会に、
国分寺宅でガラスの調合を教えていただいた。まれな幸運に私はめぐり合わせたわけ
である。黄緑色はホタル石にウラン、ブドウ色はマンガン、銅青は黒色酸化銅、
酸化クローム、コバルトは黒色酸化銅、酸化コバルトなどと二十種の、当時はまだまだ
秘中の秘とされていた調合を教わった。

今村さんからバトン・タッチである。ときに私は町のガラス屋の生態をだんだんと
知るようになった。彼らの無知と情熱と、無鉄砲と火との戦いに大変な魅力をおぼえた。

小梅、小村井、小松川、亀戸、堀切の湿地に随所に妙なガラス屋があった。
相撲の土俵ぐらいの面積、土を掘りあげて舞台をつくって、まん中にツボを五、六本入れ、
窯をつくる。細工台が三、四台、製品の整理は野天、テーブル一個に椅子一脚、
これが事務所である。戸、障子なしで、葭蔶とムシロを四方の柱にかけてある。
煙突は、土管のつなぎあわせで、裸で分厚な前かけ、手甲をつける。きのう作ったガラスを
荷車に積んで問屋へ、もらった現金で二、三日分の石炭を買い、残りは飲むか打つ。
打つとはバクチである。給料日にはなんとか支払うが、その場でバクチ、半分は
ガラス屋の親方へ戻ってしまう。結局、月給は半分しか払わないことになる。
ガラス屋の親方のバクチ上手が経営上手ということになった。シャツの上に洋服を着て、
つっかけ草履、腰に手ぬぐい、火やけで顔と手足は浅黒く、そのうえ火ダコ、
ホコリがつくから、頭はさばっとした角刈り、すごみがあって、金ばなれもよかった。
きょうはきょう、あすはあす、こんな江戸前の気性にほれこむ女が亀戸、
浅草にざらにあった。
だがこれらはガラス屋としては、最低で、オハジキや、吸呑み、風鈴、人形の玉眼、
金魚鉢、氷コップ、ミカン水の小瓶、秋口からは溲(しゅ)瓶、バッテリーに早がわり
である。労働基準法だの組合ができてからは、こんなガラス屋はみられなくなったが、
このC級の気分はA級の当今社長と呼ばれるガラス屋さんにもなくはない。C級が亀戸、
小松川の花街なら、こちらは柳橋か向島、熱海が大好きで、着くと座布団出して商売、
商売。どちらにしても真似と形の盗みは朝めし前、赤のコップ、鉢、ベリーセットという
ものが昭和のはじめにたいへん流行したのは、今村さんの先鞭からであった。
失礼ながらガラス屋に創作なし、その頃は二代目もないのが定説であった。

「けちけちするな、ガラス屋になれるかい」――たしかに浪費を美徳とするのも
一理がないわけではない。しかし、変わったガラス屋が大阪にあった。荷造りの繩が
ちょっと長いと無駄だとしかるという瓶屋さんである。いまをときめく朝日ビール社長の
山本為三郎氏の尊父の瓶屋さんである。ガラス屋に二代目なしと浪費を美徳とする
輩(やから)の頂門の一針である。はてさて、わが家の息子夫婦はどうだろう。
母が私にいいのこした「五両を次代へバトン・タッチ」は、一万倍にして五万円だけ
遺産にしておこう。どうぞ内地も外地へもガラス製品をまきちらし、
わが家こそ作家で産業工芸の手本となってくれ。

      岩田工芸硝子旧工場