「ガラス十話」 岩田藤七 毎日新聞 昭和39年4月-5月に掲載
1 おいたち 2011/2/1掲載
2 青年時代 2011/3/1掲載
3 美校時代の交友 2011/4/1掲載
4 建築
5 岡田三郎助先生
6 職人気質
7 和田三造先生
8 美の発見
9 物いわぬ師
10 道はけわしかった
「ガラス十話 3 美校時代の交友」
鐘を撞木で力いっぱい撞くとは、なにを意味するのか、
と大槻如電の弟子に当たる者に聞きに行ったら、師匠の謦咳(けいがい)に
親しく接することであり、卑屈さのない内弟子、遠慮なく師匠にふれ合う
歌舞伎独特の用言だと教えられた。
美校時代の藤七
やがて私は、夜となく昼となく伊達跡の岡田先生画室へ通い出した。
もちろん、金工の最後の名工、海野勝、平田重幸(ともに帝室技芸員であった)
の細工場をたずね、仕事ぶりを拝見させていただき、両家とも十余人の弟子を
擁されていることを知った。
国粋保存論者であった漆芸家、六角紫水の白山下の私邸には、自動車の塗装室もあって、
蒔絵の石膏によって量産も実行されつつあるのを知った。
入学当初の大村先生の訓辞を忠実に私は実行して、美校在学十二年という最長
レコードをつくって卒業を延ばした。
現在の私のガラスに金を入れたり、線や色のぼかし、ガラスを延ばしたりする工夫、
工具の工夫は金工、蒔絵の技法で学んだ応用である。学んだことはそればかりでない。
工芸家としては工作場を設けて弟子あるいは工員の必要性をつぶさに感じとった。
だんだんと現在の工場の基礎を作りはじめたのは、昭和三年ごろのことである。
さて美校の同級中で佐伯祐三は、朝の登校前にノート半分くらい町をスケッチ、
午後は朝倉塾で彫塑をやるという勉強ぶりであった。
私は午後建畠アトリエで彫刻をやり、ときに岡田三郎助先生の主宰する本郷研究所へ通った。
この洋風建物は鹿島清兵衛と新橋の名妓「ぽんた」の経営する写真館跡であった。
同じ岡田教室にいた伊藤熹朔は浅草のオペラ館へ毎日通っていた。その頃のオペラ館は、
帝劇から分かれた原信子、田谷力三、清水金太郎氏らが、ボッカチオ、カルメン、椿姫、
リゴレット、アイーダなどの歌劇を本格的に上演して、私どもを熱狂させていた。
熹朔君はずいぶんここで勉強して、今日の基礎を築いた。
藤七(左)と伊藤喜朔(右)
これより前、私は文学青年でもあったので、荷風はもちろん、白秋の詩、
木下杢太郎の南蛮ものを読み「南蛮寺門前」などという新劇も見て回って、
しだいに私は南蛮趣味に向かって行った。
やがて日蔭町の村幸の錦絵店へ行くようになった。十円も出せば長崎版の黒船や
金で縁をとったギヤマンのコップが求められたというありがたい時代であった。
たしかにあれは、出島で用いられた遠眼鏡であったであろう。
漆皮の太い筒が三段にのびる。破損していたのを、学校で直して得意であった。
動かない櫓時計を買っては歯車をたたいて、延ばして動くように直し、
ガラスのちょっとしたカケは漆のサビで直した。こんなことがこの店の名物になった。
岡田先生も荷風先生も先代の左団次もこの店へこられた。
この店の上客は永見徳太郎や横浜馬車道の風月堂主人、米津武三郎君であった。
米津さんの別宅は大礒にあった。松林を背景にして四足門、ゆるやかな屋根、濡縁と、
小さくはあったが藤原絵巻そのままだった。私はたびたび米津さんの家へ招かれた。
いつも風月堂の自前の洋食であったが、クリームをかけた野菜やスパゲティは
当時としては珍しかった。古風な切り子の鉢や皿に盛られて出されたときには、
床の鎧櫃や冑や短繋などにはよくガラスが調和して、すべてを新鮮にして見せた。
いまの丸ノ内ホテルのバーのような異国趣味であった。
前田青邨先生と初めてこの家でお目にかかった。その数年後、インテリで下町好みの
米津さんは行方不明となった。
米津さんは下町の旦那というものの最後の人であった。米津さんの最後は北鎌倉の
好々亭にかくれて雇われて、そこでなくなったと前田先生からうかがった。
切り子鉢に野菜が盛られると、米津さんが今でも思いしのばれる。
中学校の同窓の林忠雄が銀座尾張町コックドールのところでフタバヤという店を
開店した。高級な美術品ともいうべき雑貨、ドーム、新しいガラス、ペルシアのラッグ、
陶器、セーブル焼の動物彫刻、スペインの家具、皮、最後にはゴンドラまで輸入した。
一時フタバヤ・ムードを銀座に作った。
画商デルスニスは黒田鵬心、田辺孝二君と共同してベルナール、シニャック、
モローの装飾的理念の絵画と、ロダンの彫刻、椅子、テーブル、ドームのガラス類の
大規模の展観を、上野美術館で開催した。塩原又策氏や骨董商の山澄力蔵氏が背景だった。
私をして切り子以外にこんなにもやわらかい、近代的なガラスもあるものかと、
これまでのガラスの観念を変えさした。切り子もそこでは光りかがやきはしない。
えぐりたったような荒々しい面であった。色も、瑠璃や赤でなくて煉瓦のような赤色で
あった。フタバヤもデルスニスもともに震災後の洋風化に働きかけた力は大きかった。
私はこのころ、浜町山澄骨董店で、美術愛好家として有名であった今村繁三さんに
初めてお目にかかり、仕事の上でたいへんよかった。
今村さんは橘ガラスという食器のガラス工場を三菱財閥をバックに経営されていた。
岩田藤七の作家紹介と経歴はこちら
1 おいたち 2011/2/1掲載
2 青年時代 2011/3/1掲載
3 美校時代の交友 2011/4/1掲載
4 建築
5 岡田三郎助先生
6 職人気質
7 和田三造先生
8 美の発見
9 物いわぬ師
10 道はけわしかった
「ガラス十話 3 美校時代の交友」
鐘を撞木で力いっぱい撞くとは、なにを意味するのか、
と大槻如電の弟子に当たる者に聞きに行ったら、師匠の謦咳(けいがい)に
親しく接することであり、卑屈さのない内弟子、遠慮なく師匠にふれ合う
歌舞伎独特の用言だと教えられた。
美校時代の藤七
やがて私は、夜となく昼となく伊達跡の岡田先生画室へ通い出した。
もちろん、金工の最後の名工、海野勝、平田重幸(ともに帝室技芸員であった)
の細工場をたずね、仕事ぶりを拝見させていただき、両家とも十余人の弟子を
擁されていることを知った。
国粋保存論者であった漆芸家、六角紫水の白山下の私邸には、自動車の塗装室もあって、
蒔絵の石膏によって量産も実行されつつあるのを知った。
入学当初の大村先生の訓辞を忠実に私は実行して、美校在学十二年という最長
レコードをつくって卒業を延ばした。
現在の私のガラスに金を入れたり、線や色のぼかし、ガラスを延ばしたりする工夫、
工具の工夫は金工、蒔絵の技法で学んだ応用である。学んだことはそればかりでない。
工芸家としては工作場を設けて弟子あるいは工員の必要性をつぶさに感じとった。
だんだんと現在の工場の基礎を作りはじめたのは、昭和三年ごろのことである。
さて美校の同級中で佐伯祐三は、朝の登校前にノート半分くらい町をスケッチ、
午後は朝倉塾で彫塑をやるという勉強ぶりであった。
私は午後建畠アトリエで彫刻をやり、ときに岡田三郎助先生の主宰する本郷研究所へ通った。
この洋風建物は鹿島清兵衛と新橋の名妓「ぽんた」の経営する写真館跡であった。
同じ岡田教室にいた伊藤熹朔は浅草のオペラ館へ毎日通っていた。その頃のオペラ館は、
帝劇から分かれた原信子、田谷力三、清水金太郎氏らが、ボッカチオ、カルメン、椿姫、
リゴレット、アイーダなどの歌劇を本格的に上演して、私どもを熱狂させていた。
熹朔君はずいぶんここで勉強して、今日の基礎を築いた。
藤七(左)と伊藤喜朔(右)
これより前、私は文学青年でもあったので、荷風はもちろん、白秋の詩、
木下杢太郎の南蛮ものを読み「南蛮寺門前」などという新劇も見て回って、
しだいに私は南蛮趣味に向かって行った。
やがて日蔭町の村幸の錦絵店へ行くようになった。十円も出せば長崎版の黒船や
金で縁をとったギヤマンのコップが求められたというありがたい時代であった。
たしかにあれは、出島で用いられた遠眼鏡であったであろう。
漆皮の太い筒が三段にのびる。破損していたのを、学校で直して得意であった。
動かない櫓時計を買っては歯車をたたいて、延ばして動くように直し、
ガラスのちょっとしたカケは漆のサビで直した。こんなことがこの店の名物になった。
岡田先生も荷風先生も先代の左団次もこの店へこられた。
この店の上客は永見徳太郎や横浜馬車道の風月堂主人、米津武三郎君であった。
米津さんの別宅は大礒にあった。松林を背景にして四足門、ゆるやかな屋根、濡縁と、
小さくはあったが藤原絵巻そのままだった。私はたびたび米津さんの家へ招かれた。
いつも風月堂の自前の洋食であったが、クリームをかけた野菜やスパゲティは
当時としては珍しかった。古風な切り子の鉢や皿に盛られて出されたときには、
床の鎧櫃や冑や短繋などにはよくガラスが調和して、すべてを新鮮にして見せた。
いまの丸ノ内ホテルのバーのような異国趣味であった。
前田青邨先生と初めてこの家でお目にかかった。その数年後、インテリで下町好みの
米津さんは行方不明となった。
米津さんは下町の旦那というものの最後の人であった。米津さんの最後は北鎌倉の
好々亭にかくれて雇われて、そこでなくなったと前田先生からうかがった。
切り子鉢に野菜が盛られると、米津さんが今でも思いしのばれる。
中学校の同窓の林忠雄が銀座尾張町コックドールのところでフタバヤという店を
開店した。高級な美術品ともいうべき雑貨、ドーム、新しいガラス、ペルシアのラッグ、
陶器、セーブル焼の動物彫刻、スペインの家具、皮、最後にはゴンドラまで輸入した。
一時フタバヤ・ムードを銀座に作った。
画商デルスニスは黒田鵬心、田辺孝二君と共同してベルナール、シニャック、
モローの装飾的理念の絵画と、ロダンの彫刻、椅子、テーブル、ドームのガラス類の
大規模の展観を、上野美術館で開催した。塩原又策氏や骨董商の山澄力蔵氏が背景だった。
私をして切り子以外にこんなにもやわらかい、近代的なガラスもあるものかと、
これまでのガラスの観念を変えさした。切り子もそこでは光りかがやきはしない。
えぐりたったような荒々しい面であった。色も、瑠璃や赤でなくて煉瓦のような赤色で
あった。フタバヤもデルスニスもともに震災後の洋風化に働きかけた力は大きかった。
私はこのころ、浜町山澄骨董店で、美術愛好家として有名であった今村繁三さんに
初めてお目にかかり、仕事の上でたいへんよかった。
今村さんは橘ガラスという食器のガラス工場を三菱財閥をバックに経営されていた。
岩田藤七の作家紹介と経歴はこちら