ガラス十話」 岩田藤七 毎日新聞 昭和39年4月-5月に掲載
1 おいたち 2011/2/1掲載
2 青年時代 2011/3/1掲載
3 美校時代の交友 2011/4/1掲載
4 建築 2011/5/2掲載
5 岡田三郎助先生
6 職人気質
7 和田三造先生
8 美の発見
9 物いわぬ師
10 道はけわしかった
「ガラス十話 4 建築」
関東大震災のとき、京橋大通りの星製薬ビルは三階がネジれてバラバラになった。
コンクリートが小骨のような鉄筋につながって、食べ残しのカレイかヒラメのような
醜状であった。丸の内の東京会館も三階全部がネジれた。上下はわりに無難だったが、
建物はお菓子の有(ある)平(へい)糖(とう)を思い出させた。地震でゆれると同時に、
大波のしぶきのようにキラキラと窓ガラスの破片が降ってきたことだろう。
私は刃物よりガラスのほうを恐れる。鋭いからである。自動車事故で大怪我をするのは、
多くが前面ガラスである。外装が全面ガラスのようなビルを見るとき、
帽子なしでは歩けないと思う。見た目には美しいが、このごろのビルのガラスは
地震国日本では考えものである。
戦前、紫外線をとおす薄紫のガラス板が見られるようになったころ、
上海で内側からは見えて外側からは見えないガラスを見たという人があった。
こうしたガラスと、ガラス板とガラス板の間が真空の窓ガラスの発見が私の夢であった。
昨今では東京でもこれらが見られる。後者は日生ビルのホテルぞいの窓ガラスで、
一面十五万円という話である。
では次代の建築用ガラスのイメージは何であろうか。原子熱源が発見された今日、
砂利のかわりに特殊素材のガラス塊を入れて原子の熱で溶かして柱を作る、
中の鉄筋は繩のようになるであろう。かくて、重くるしいコンクリートの柱がなくなって
軽快な、ガラス塊のビルが出現されよう。私の建築用ガラスへの夢はこれである。
日生劇場 玄関ホール 皇居新宮殿 「大八州」
私は土方定一先生がイタリア語で「コロラート」と名づけてくだすった組み合わせの
板ガラスを創案した。
横浜高島屋のミーティングルームの赤と黄の二面はこの代表的な製作であろう。
日生ビル入口、正面のスクリーンは村野藤吾さんと幾度か打ち合わせて作った。
サンフランシスコのユニオン・スクエアのアリタリア航空ビル入口の正面にも
同じくらいの大きさのガラスようの陶板スクリーンがある。
期せずして太平洋をはさんで向き合っているわけだ。
岡田三郎助先生は色のトーンにきびしかった。日生ビルの作品のよしあしは別として、
教えていただいたトーンだけは気をつけ、モチーフも先生の好まれた桃山屏風、
特に古色ただよう桃山屏風を連想して作り、組み立てた。いわばなき恩師への報告である。
岡田先生は戦災でなくなったが、霞ヶ関旧海軍省の入口のドームの丸天井を作られた。
唐草模様の焼きつけガラスのステンドグラスで、和田英作先生と一緒に作られたと
うかがっている。両先生の履歴中には、このことだけは掲載されていない。
高輪の渡辺子爵邸の応接間の唐草と、インコのステンドグラス、これも岡田先生の創案で
私は拝見に行った。たしか古い「美術新報」に色刷りで掲載されていたと覚えている。
渋谷松濤の鍋島家の玄関、霧よけの壁面、角のガラスをつなぎ合わせたステンドグラスは
高雅なもので、これも先生の作であると聞いている。
さきごろ、東京歌舞伎座で幕あきの間に、高橋誠一郎芸術院長から、三田の慶応大学講堂の
福沢先生の肖像もその部屋のステンドグラスも和田英作先生のものと聞いた。
図柄は「ペンは剣より強し」を意味して、天子がペンを捧ずるところ。
戦中、軍部から取りはずしを命ぜられたといういわくつきであったが、
戦災で焼失して和田先生もたいへん嘆かれたということであった。
美校三回目の日本画科の卒業生、小川三樹君が英国に長く留学してステンドグラスを研究、
帰国後、田端の板谷波山先生宅の上に工房を作った。
富本憲吉君も英国でステンドグラスを研究せれたということである。
小川君はその後盛んに制作し、時流に乗って建築にとり入れられた。
私も一度おたずねしたが、なにせ、ケルトやビザンチンの古いステンドグラスは
研究されていなかったので、世間にステンドグラスとはこうしたあまいものと
思いこませ、俗なものときめられたのは残念。
昭和三十五年秋、西洋美術館主催の二十世紀フランス美術展でルオー、ビッシュール、
ポニ、ロシェの、描いたり、はめ込んだり、鉄板に穴をあけたりした、
さまざまなビザチン様式の高雅なステンドグラスを見た。
この本物の精神が正しく活かされていたなら、キャンバスに向かう以上の表現力がある。
建築のガラスの仕事は、工芸家でなく、教養高き画家にお願いしたいものだとすら思った。
岩田藤七の作家紹介と経歴はこちら
1 おいたち 2011/2/1掲載
2 青年時代 2011/3/1掲載
3 美校時代の交友 2011/4/1掲載
4 建築 2011/5/2掲載
5 岡田三郎助先生
6 職人気質
7 和田三造先生
8 美の発見
9 物いわぬ師
10 道はけわしかった
「ガラス十話 4 建築」
関東大震災のとき、京橋大通りの星製薬ビルは三階がネジれてバラバラになった。
コンクリートが小骨のような鉄筋につながって、食べ残しのカレイかヒラメのような
醜状であった。丸の内の東京会館も三階全部がネジれた。上下はわりに無難だったが、
建物はお菓子の有(ある)平(へい)糖(とう)を思い出させた。地震でゆれると同時に、
大波のしぶきのようにキラキラと窓ガラスの破片が降ってきたことだろう。
私は刃物よりガラスのほうを恐れる。鋭いからである。自動車事故で大怪我をするのは、
多くが前面ガラスである。外装が全面ガラスのようなビルを見るとき、
帽子なしでは歩けないと思う。見た目には美しいが、このごろのビルのガラスは
地震国日本では考えものである。
戦前、紫外線をとおす薄紫のガラス板が見られるようになったころ、
上海で内側からは見えて外側からは見えないガラスを見たという人があった。
こうしたガラスと、ガラス板とガラス板の間が真空の窓ガラスの発見が私の夢であった。
昨今では東京でもこれらが見られる。後者は日生ビルのホテルぞいの窓ガラスで、
一面十五万円という話である。
では次代の建築用ガラスのイメージは何であろうか。原子熱源が発見された今日、
砂利のかわりに特殊素材のガラス塊を入れて原子の熱で溶かして柱を作る、
中の鉄筋は繩のようになるであろう。かくて、重くるしいコンクリートの柱がなくなって
軽快な、ガラス塊のビルが出現されよう。私の建築用ガラスへの夢はこれである。
日生劇場 玄関ホール 皇居新宮殿 「大八州」
私は土方定一先生がイタリア語で「コロラート」と名づけてくだすった組み合わせの
板ガラスを創案した。
横浜高島屋のミーティングルームの赤と黄の二面はこの代表的な製作であろう。
日生ビル入口、正面のスクリーンは村野藤吾さんと幾度か打ち合わせて作った。
サンフランシスコのユニオン・スクエアのアリタリア航空ビル入口の正面にも
同じくらいの大きさのガラスようの陶板スクリーンがある。
期せずして太平洋をはさんで向き合っているわけだ。
岡田三郎助先生は色のトーンにきびしかった。日生ビルの作品のよしあしは別として、
教えていただいたトーンだけは気をつけ、モチーフも先生の好まれた桃山屏風、
特に古色ただよう桃山屏風を連想して作り、組み立てた。いわばなき恩師への報告である。
岡田先生は戦災でなくなったが、霞ヶ関旧海軍省の入口のドームの丸天井を作られた。
唐草模様の焼きつけガラスのステンドグラスで、和田英作先生と一緒に作られたと
うかがっている。両先生の履歴中には、このことだけは掲載されていない。
高輪の渡辺子爵邸の応接間の唐草と、インコのステンドグラス、これも岡田先生の創案で
私は拝見に行った。たしか古い「美術新報」に色刷りで掲載されていたと覚えている。
渋谷松濤の鍋島家の玄関、霧よけの壁面、角のガラスをつなぎ合わせたステンドグラスは
高雅なもので、これも先生の作であると聞いている。
さきごろ、東京歌舞伎座で幕あきの間に、高橋誠一郎芸術院長から、三田の慶応大学講堂の
福沢先生の肖像もその部屋のステンドグラスも和田英作先生のものと聞いた。
図柄は「ペンは剣より強し」を意味して、天子がペンを捧ずるところ。
戦中、軍部から取りはずしを命ぜられたといういわくつきであったが、
戦災で焼失して和田先生もたいへん嘆かれたということであった。
美校三回目の日本画科の卒業生、小川三樹君が英国に長く留学してステンドグラスを研究、
帰国後、田端の板谷波山先生宅の上に工房を作った。
富本憲吉君も英国でステンドグラスを研究せれたということである。
小川君はその後盛んに制作し、時流に乗って建築にとり入れられた。
私も一度おたずねしたが、なにせ、ケルトやビザンチンの古いステンドグラスは
研究されていなかったので、世間にステンドグラスとはこうしたあまいものと
思いこませ、俗なものときめられたのは残念。
昭和三十五年秋、西洋美術館主催の二十世紀フランス美術展でルオー、ビッシュール、
ポニ、ロシェの、描いたり、はめ込んだり、鉄板に穴をあけたりした、
さまざまなビザチン様式の高雅なステンドグラスを見た。
この本物の精神が正しく活かされていたなら、キャンバスに向かう以上の表現力がある。
建築のガラスの仕事は、工芸家でなく、教養高き画家にお願いしたいものだとすら思った。
岩田藤七の作家紹介と経歴はこちら