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昨夜、べろべろやったのにどこが気を改めてか?まあ、それはそうとして、京都人でも知らない故事を。
京都御苑に入り、中にひときわ綺麗な壁が囲われています。この中が、正式には「京都御所」となります。
この、京都御苑内の御所を一周しますと、何か不思議な角有ります。
南側の両角と北西の角はちゃんと直角です。
しかし、北東の角(鬼門)は不思議にも、こんな造りです。
ここが「猿ヶ辻」と言われ、ここに「烏帽子」を被り「御幣」(ごへい)担いだ木彫りの猿が祀られています。これが「猿ヶ辻」と呼ばれる所です。
歴史で言われる「猿ヶ辻の変」です。文久3年(1863年)五月二十日の深夜に、青年貴族「姉小路公知」(きんとも)が朝議の帰りに刺客に襲われて殺されます。公知は過激な尊王攘夷派でしたが、「勝海舟」らに賛同して開国派に転向しつつあった為に、刺客に殺害されたと言う事です。
何故、この猿ヶ辻はこのように呼ばれるのでしょうか。「猿」の方位は東北に当たる事から、鬼門を守る為にこの名が付きました。そしてこの塀だけが内側に折れ曲がっているのも、角を無くすことで鬼を封じる意味となります。本当の鬼門は「南東」(裏鬼門)ですが、御所は南が北としています。(天皇は南に向き座りましら、それからして地図上では正式に、北東が鬼門(本当は裏鬼門)となります。また良い例は、地図をみると、左が右京、右が左京、逆でしょう。これも全て御所から南に向いてそう決めていたそうです)
そして、この「猿」には金網が張ってあるます。ここ御所の鬼門を守るようにと金網で封じています。この「猿」は比叡山延暦寺の日吉大社から使わされた「猿」で、毎夜、逃げ出して人にいたずらをしていたそうです。その為に金網を張って逃げないようにしたと言う逸話が有ります。
京都御苑内の御所の塀を一回りするのには、あまり時間は要りません。是非、一周りをおすすめします。
(まめ知識)鬼門はほぼ、南東です。なぜ?その疑問は昔の和時計を見てください。十二時(0時)から、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・羊・申・酉・戌・亥とで十二時間(昔は陰暦でしたから正確には、冬の一時間と夏の一時間は少し長さが変わりますが)
鬼門の北東は、だいたい、牛と寅の方角になります。よって鬼門は丑寅(うしとら)と言われています。鬼の姿を想像してください。牛の角(つの)を付け、虎のふんどしをしています。(これが鬼の制服?)ですから、鬼は、牛と寅の化身とも言われます。
ちょうど、逆の方向は申(さる)酉(とり)戌(いぬ)となります。「桃太郎」はただのおとぎ話では無く、鬼退治に行くのに、猿・鳥・犬をお供に連れて行きました。このお供はただの意味では無く、鬼を退治する、裏鬼門の動物です。ですから、鬼を封じる為のおまじないとされています。(こんな、おとぎ話も、奥が深いのやな)
今日は、うんちく無、余りの政治の馬鹿らしさに言う事なし。アホかいな。
今、少し酔いが覚めました~。