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京の話題

12000年以上続いた「平安京」の文化・寺社仏閣・お祭り等を紹介します。

「和」の国・連綿と続いた世界最古の国・日本国のことー11

2013-06-13 00:06:11 | 我が誇れる日本国の事

日本文明の根本である「天皇」と表記すると「てんのう」と読みますが、大和言葉では「すめらみこと」または「すめらぎ」などといいます。「すめらぎ」と読むと、ただの「天皇」ではなく「連綿と続く天皇」を意味し、世界最古の国家である日本を象徴するに相応します。現在、失われた「和」の美しい日本の姿を取り戻すために、我々、改めて「日本文明」を考える必要があると思います。

 世界には約200ヶ国の国家が有りますが、現存する国家の中で、日本は建国から最も古い歴史を持っています。国家が編纂した正式な歴史書である正史「日本書紀」は、初代「神武天皇」の御即位(現在の建国記念日)が紀元前年660年だったとことを記します。

日本最初の正史「日本書紀」の写本

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以来、2600年以上の長きに亘り、「神武天皇」の男系の子孫が脈々と皇位を継承し、現在の「今上天皇」に至っています。これを「万世一系」といいます。現在の天皇陛下は第125代であらせられ、百代以上続く王朝は世界では他に例が有りません。「神武天皇」の御即位によって「ヤマト王朝」が成立し、それが後に日本列島のほとんどを統治する「大和王朝」へと発展しました。後に「王朝」は一度も途絶えることなく、現在の皇家につながっています。

 初代「神武天皇」(杖の上にとまっているのは八咫烏・やたがらす)

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日本は王朝だけでなく国家としても断絶は見られません。政治の仕組みは時代と共に変わりましたが、国家の連続性が途切れたことはありません。「大和朝廷」は各地の豪族が天皇の下に束ねられたもので、最初から天皇が政治権力を行使する立場になく、豪族が政権を担いました。平安時代になると「摂関政治」が始まり、公家が政治を担う体制が確立しましたその後、平安時代後期には武家政権が成立したことで、朝廷から政治権力が切り離され、幕末の「大政奉還」まで続きました。明治維新を経て「大日本帝国憲法」が発布されたことで日本国は「立憲君主国」となり、現在は「日本国憲法」のもとの体制になっています。

 以上のように、歴史の節目ごとに国の体制は変化しましたが、それらの変更は「政体」の変更であって、「国体」の変更ではありません。「国体」とは国の在り方の根本を指します。

 天皇が君臨する状態が連続していることは、歴代の政治最高権力者が例外なく「天皇」に任命されてきた事実から誰でもわかります。「摂政」「関白」「太政大臣」「将軍」などは「天皇」に任命されれなければ就任することはできず、現在の「内閣総理大臣」もその例外ではありません。日本の歴史に、「天皇」の任命なく最高権力者の座に就いた者は一人もいません。

 以上のように、我が国日本は朝廷の歴史が連続しているのみならず、国家の歴史も連続しています。「大和朝廷」と現在の日本国は連続性のある同一の国家ですから、日本の建国は初代「神武天皇」の御即位(建国記念日)まで遡(さかの)ぼって考えることが、必要とおもいます。

日本最初の正史「日本書紀」の詳細はhttp://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20121014を参照下さい。

(たわごと)

トルコのエルドワン首相は全く話し合いに応じる様子が有りません。本当の民主主義国がこの国にあるのか試される時です。友好国の日本人としては、真に残念なことです。

※一部記載に誤記が有りましたので訂正しました。(平成25年6月17日)


まさに「和」の国・他の国には見られない、自然破壊の無いエコロジー巨大都市「江戸」のことー10

2013-06-11 00:05:22 | 我が誇れる日本国の事

日本人は前記に記載したように、節制を自然に重んじる考えが徹底されていました、古代から、大自然との調和を大切にする感覚が有ったのかもしれません。それが前記に記載した「もったいないの文化」の基礎を作りました。日本は「和」の国とよく記載していますが、人と人との「和」、地域と地域の「和」、国と国との「和」だけでなく、最終的には大自然と人との「和」にまで及び、大自然を正しく畏れ、そして正しく利用してきました。

 大自然との調和については、前記の「式年遷宮」ににても記載していましたが、日本には他に誇るべきものが多く有ります。そのなかでも「江戸」の環境構造は、他の大都市も到達できなかった「自然環境を破壊することなく維持する都市」を実現した稀有な例です。「江戸」は徳川家康から「家光」までの三代将軍の間に急速に都市として整備され、人口が急増し、他に向けて市街地が拡大していきました。

 享保4年(1719年)江戸の人口は100万人を越え、延享3年(1746年)には120万人になりました。1750年ころ、欧州最大の都市「ロンドン」でも人口は70万人くらいでした。「ニューヨーク」にいたってはたったの2万人という規模でした。いかに「江戸」が巨大都市だったか想像することができます。18世紀には人口100万人を超える都市は、世界中で「江戸」しか有りませんでした。「江戸」は世界最大の都市でした。

「正保年間(1644~1648年)の江戸地図」(江戸幕府成立40年頃)

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「江戸」の街は江戸湾を取り囲むように沿岸に栄えました。街を田畑が囲み、田畑を森が囲む「海・街・田畑・森」の四段構造になっていたのが特徴で、森は生命に不可欠なリンなどの養分の宝庫であり、森の養分は河川によって運ばれ、田畑と街を経て、海に注がれます。河川は田畑に栄養分を供給して野菜を育て、人々の生活を潤し、江戸湾に栄養化をもたらし海藻や魚介類を育てます。このように、高いところにある森の養分は川を伝って、森から田畑・街・海という順序で低い所へ移動します。「江戸」は、広大な関東平野から養分自然と集まる位置にあり、大自然の恵みを享受できる立地条件でした。 

しかし、「江戸」が欧州のような垂れ流しの街であれば、欧州のそれと同じように汚物と悪臭にまみれた都市になっていました。「江戸」がエコシティといわれる最大の理由は、都市部と江戸湾に集積された養分が森に戻される循環構造が確立されていたところにあります。

森の養分は重力によって河川を伝わって自然と江戸湾に流れ込みますが、いったん下ったものを元の場所の戻すのは重力とは別の作用が必要です。それを担ったのが動物と江戸の人々の動きでした。江戸には下から上へと物資を動かす流れが存在しました。江戸の人々は江戸湾の魚を釣り上げて食べ、また海藻を採って浅草海苔等にし、江戸の魚は「江戸前」とよばれ、種類が豊富でいくらでも獲れました。森から運ばれた養分は、魚や海藻に姿を変えて再び陸に揚げられました。森から運ばれた養分は、今度は魚や海苔に姿を換えて再び陸に揚げられました。百数十万人の胃袋を満たすため、江戸湾から回収される栄養分の量は決して少なくありませんでした。

海産物として陸に揚げられた養分は、人の手によって田畑に運ばれることになり、人糞は貴重な肥料となるため、一切残らず田畑に戻されました。田畑の養分は、鳥と小動物によって森に運ばれ、海から街・田畑・森という養分の流れが成立していました。

「弘化年間(1844~1848年)江戸地図」(世界最大人口巨大都市、人口約140万人の超巨大都市)

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以上のことからが、他の国の大都市では見られない、二百数十年もの巨大都市を自然との調和で支えた、日本人の「和」の精神がこの都市にあると思います。

(たわごと)あくまでも、、、、、

トルコの反政府デモはおさまりません 。エルドワン首相はいっこうに鉾をおさめる兆しは有りません。エルドワン首相は反政府デモは「国を破壊するならず者」と言っています。これで完璧に2020年の「イスタンブール」のオリンピックはペケになるかもしれません。(私が、応援したのに残念です、トルコは99%イスラム教です)どうして、同じ国民で、やはり前記に記載した、宗教がからんでいる事は間違いないです(根本は)

日本国はこのような宗教では全く問題は有りません。(前記) 

※20年に一度「伊勢神宮」で行われる、日本最古の神事「式年遷宮」の詳細はhttp://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20130608を参照下さい。


「和」の国、日本国の歴代「天皇」は真に質素・倹約を重んじられましたー9

2013-06-10 00:17:53 | 我が誇れる日本国の事

前記に記載したように、古来日本人は万物に神が宿るとの思想で、大自然を畏れ敬い、自ら神の子孫との思いで、大自然から受ける恵みを大切にして来ました。そこから節制を重んじてきた天皇の生活が見ることが出来ます。

 「古事記」や「日本書紀」に、贅沢を良しとしない「天皇」のお姿が描かれています。「聖帝」(ひじりのみかど)と呼ばれた第16代「仁徳天皇」が、人家から煙が立っていないことから、民の生活が困窮しているとお嘆きになって、三年間すべての課税と役務をやめるように「詔」(みことのり・天皇のおことば)あそばされた有名な逸話があります。このとき宮中では倹約が徹底され、屋根の萱が外れても、天皇はこれを葺くことをお許しにならず、部屋から星が見えるありさまで、雨漏りにも耐えなければならないありさまでし。天皇の衣類や履物も新調することが禁止され、食物も至極質素なものにかぎられたということです。

第16代「仁徳天皇」

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 有名な「仁徳天皇陵」

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「仁徳天皇」が崩御されてから造営されたもので、この壮大な「御陵」を「仁徳天皇」は天上でどう思われているかと。この「仁徳天皇陵」は、正式には「大仙陵古墳」(だいせんりょうこふん)とよばれ、日本最大の「前方後円墳」で墓域面積は世界最大のものです。宮内庁治定により「仁徳天皇」の陵墓とされており、「百舌鳥耳原中陵」(もずのみみはらのなかのみささぎ)との陵号が与えれており、一般的には「仁徳天皇陵」とよばれています。しかし、審らかではありません。(あくまでも蛇足です)

また他に、朝廷の財政が最も逼迫した「応仁の乱」の後にも、まさに天皇の美しい生きざまを見ることが出来ます。第105代「後奈良天皇」の時代は、御所を囲う築地塀が崩れて修繕できず、三条大橋から内侍所(宮中内の神殿)の灯火が見え、紫神殿(即位礼が行われる宮中の最も重要な建物)近くで茶を売る者がいたほどで、即位礼は挙行されたのも践祚(せんそ・先帝の崩御または譲位の直後の行われる、即位のこと)から十年後だったと伝えられています。

以上のような財政難のなか、「後奈良天皇」は、国難が起きるたびに伊勢の神官などに「宣命」を奉って祈りを捧げたということです。

第105代「後奈良天皇」

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幕末の第121代「孝明天皇」の時代も、国難が起きるたびに、自らの食膳を減じて祈りを捧げる天皇の姿が記録されています。

第121代「孝明天皇」

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また「明治天皇」の贅沢嫌いは徹底していらっしゃったということです。軍服や靴が擦り減っても修理を命ぜられるのみで、決して新調をお許しにならず、全国に建てられた立派な別荘を一度もご利用にならず、娘たちにも使わせなかったということです。「昭和天皇」の贅沢嫌いもよく知られています。

「今上天皇」もあの未曾有の東日本大震災でご体調のよろしくないなか、何度も被災地にお足をお運びになられて、被災者にどれほど勇気づけられたのも、記憶に新しいことです。

「天皇」のお気持ちは常に国民と共にあり、天皇だけが特別であることをお好みにならなかったという証がここにみることができます。


日本人の自然環境を守る「和」のすごさ・20年に一度の日本で最大の神事伊勢神宮の「式年遷宮」-8

2013-06-08 00:06:19 | 我が誇れる日本国の事

6月5日夜のNHK番組「歴史ヒストリア」を視て、以下NHKでの付けたしを

 今年、平成25年10月は20年に一度の「伊勢神宮」で日本で最大の神事「式年遷宮」(しきねんせんぐう)が行われます。

20年に一度で今回は第62回目です。この数字から何年まえからこの神事が行われているかと解かります。「歴史ヒストリア」で放送していたように「伊勢神宮」は日本で形ある最古の神社で「壬申の乱」(天武天皇元年・西暦672年)の後に、第40代「天武天皇」とそのお妃、第41代「持統天皇」がお造りになった「御宮社」で、その「内宮」を20年に一度、すぐ横に全く同じ新しい「御神殿」を建ててそっくり「御祭神」や新しい「装飾品」を移動する、大変な神事です。その時に費やす檜の御神木を一万数千本使用し、その木は木曽から切り出します。

 以上までは、NHKの「歴史ヒストリア」にて放送されていました。20年前に建てられたて取り壊される御神木の一番太い柱は「伊勢神宮」の「五十鈴川」に架かる「宇治橋」の「大鳥居」になります。「五十鈴川」は神宮の「内宮」を流れる神聖な川で、そこは神域への入り口となる「宇治橋」が架かり、そのその前後は巨大な「大鳥居」が立っています。参拝者は必ずこの「大鳥居」をくぐって「内宮」の神域に入ります。

 ではその後、20年前の古い「御正殿」の檜の、材木はどうなるのでしょう。その運命を聞いた人は驚くと思います。

 20年前の「御正殿」の「棟持柱」(むなもちばしら)から建てられた「宇治橋」の前後に建つ「大鳥居」

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「御正殿」とは、それぞれ神宮の「内宮」と「外宮」の中心となるお宮の御建物で、そこは「御神体」が納められています。「御正殿」の「棟持柱」は、湿気などの水分の重みで「御屋根」が下ってきたときに、支える左右二本の柱で、「神宮」の「御神殿」に使われる木材のなかで特に重要な柱です。

 「棟持柱」は20年間使用した後、鉋(かんな)をかけられて少しは細く短くなり新品同様となって、「宇治橋」の「大鳥居」として甦り、さらに20年間使用されます。「宇治橋」の外側の鳥居に使われるのが「外宮」の「御正殿」の「棟持柱」で、内側の鳥居に使われているのが「内宮」の「御正殿」の「棟持柱」です。参拝者は「御正殿」に近づく事ができないため、また直接見ることもできなため(もちろん天下のNHKでもカメラを持ち込む事は出来ません)しかし、お役目を終えて鳥居になると、その禁断の御用材に誰でも接することが出来ます。

 しかも「宇治橋」の「大鳥居」は20年後、再び鉋をかけられてまた少し細く短くなり、今度は「桑名市」「亀山市」で伊勢国の入口の鳥居としてまた20年間使用されます。この時点で木材は60年経過しています。さらに、鉋をかけられて、次は全国の神社に「御神木」として分けられ、これを拝領した神社は再び鳥居や社殿の材料として、朽ちるまで大切に使われます。

 この日本で最も重要な祭りが20年に一度行われる「式年遷宮」です。「内宮」と「外宮」をはじめとする「御正殿」や主なお宮とそれらに付随する鳥居や板垣など、そして1500点以上の夥しい数の「御装束神宝」が新しく作りなおされます。「式年遷宮」に必要な檜は約一万三千本が用いられるため、「式年遷宮」が森林破壊をしていると思いがちですが、全くの逆です。

手入れをしない森林は、根が腐り、ますます朽ち果てます。樹木は大木になると代謝が低下して光合成能力が落ちます。そのために、二酸化炭素の吸収力と酸素の発生量が低下するからです。また、大木を伐採することで、その周辺に太陽の光がよく届くようになり、新たな木を育てることになります。間伐して樹木を育てて、大木を一定の割合で伐採することは、森林破壊でなく、むしろ森を再生することになります。

木は成長する過程で、二酸化炭素を多いに吸収し貯蔵するため、木は二酸化炭素の貯蔵庫になります。木を燃やす時に発生する二酸化炭素は、その木が成長する過程で吸収した二酸化炭素がいっせいに大気に戻された結果です。一方、伐採されて木材として利用されると、朽ちる過程で二酸化炭素をゆっくりと大気に戻します。そのため、二酸化炭素と酸素の収支を考えると、木を木材に換えて長時間使用すること実に理にかなっています。

「昭和四年度御遷宮絵巻」

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 1300年以上、途切れも無く続いたこの「式年遷宮」は、結果として森を再生させることになります。神なる木を畏れながら大切に利用する「式年遷宮」の仕組みに、自然を破壊することなく、むしろ、自然に優しく接し、循環する典型が、昔からの日本人の自然に対し、神を守る「和」の知恵があった神事が、まさに「式年遷宮」がその象徴と思います。

※一部記載に誤記が有りましなで訂正しました。(平成25年6月17日)


意外と知られていない「和」の国とトルコとの友好の事ー7

2013-06-06 00:11:10 | 我が誇れる日本国の事

2020年のオリンピックは何処の都市なるか?東京かトルコのイスタンブール。私はイスラム圏初のイスタンブールでも良いと思っています。しかし、毎日首都の「イスタンブール」では公務員を巻き込んで大変な デモが発生しています。IOCの印象が気になるとこです。

 あまり日本人には知られていない事ですが、日本の外交の歴史で、これほどの美談が他に有ったかと思います。明治23年に和歌山県串本町沖で沈没したオスマントルコ軍艦「エルトゥールル号」の遭難事件です。日本人はこの事件を知るものは少ないですが、トルコでは社会科の教科書に必ず記載されている有名な事件です。120年の時を経た今もトルコの国民に記憶されています。

 明治23年に特使の「エミン・オスマン・パシャ提督」率いる使節団が日本国に派遣されました。使節団は宮中で歓待を受け、明治天皇に「オスマントルコ皇帝」からの親書と勲章を献上した後、横浜港を出航し、本国トルコを目指しました。

 沈没前のオスマントルコ海軍「エルトゥールル号」

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日本政府は、老朽化した「エルトゥールル号」に不具合が生じていたことや、台風の時期にあたることから、出航を延期するように勧めましたが、一行は本国からの通達を理由に出航してしまいました。これが運命の分かれ道となりました。

 出航から二日たった九月十六日の夜半、紀伊熊野灘に差しかかった「エルトゥールル号」は、北上中の台風の中心に入り込み、紀伊大島の樫野崎付近の岩場に座礁しました。そして、船底から浸水して機関が蒸気爆発を起こして、午後九時三十分頃に沈没しました。この遭難事故で生還したのは、提督以下乗組員570名あまりのうちわずか69名のみでした。

 外国船の遭難を知った地元住民は、夜を徹して生存者の救助と手当に尽力し、翌朝には地元の村長が関係官庁に連絡して、医師の派遣を要請、さらに各戸一名の人手を出すように指示し、多くの村民たちが生存者を看病しました。紀伊大島は貧しい島で、しかも、台風の影響で漁に出られず、島民はたべるものにも困る状況でしたが、非常食として飼っていたニワトリなどの食料や、浴衣などの衣類を持ちより、遭難者たちに分け与えた伝えられています。

「明治天皇記」によると、この報せをお聞きになった「明治天皇」は大いに驚かれたといいます。天皇は即日、遭難者援助のために海軍の通報艦「八重山」を現場に派遣あそばされ、皇后は日本赤十字社を通じて医師と看護婦を随伴させられました。

「八重山」の乗組員と島民は、収容した遺体を埋葬し、墓標を建てました。その後生存者たちの体力が回復すると、「明治天皇」は軍艦「比叡」と軍艦「金剛」の二隻をオスマントルコに派遣し生存者たちを母国に送還することを命ぜられました。生存者69名を分乗させた二艦は、明治24年一月にイスタンブールに無事到着しました。盛大な歓迎を受けた事はいうまでもありません。しかも事件の翌々年には、民間で集められた義捐金が届けられました。

 台風にて「エルトゥールル号」沈没直前を描いた絵画

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和歌山県串本町にある「エルトゥールル号」殉難将士慰霊碑

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しかし、日本国とトルコの友情の物語はまだ続きがあります。遭難事件から95年もの月日が流れた昭和60年のこどです。イラン・イラク戦争の最中、イラクのサダム・フセイン大統領は三月二十日の午後二時以降、イラン上空を飛ぶ航空機をすべて撃墜する旨の声明を発しました。

各国は軍用機や民間機のチャーター便を派遣して自国民の保護に努めましたが、日本は自衛隊を海外派遣できなうえに、政府が日本航空に救援機の派遣を求めても、日本航空の労働組合が安全性などを理由に反対したことで、日本人の保護が出来なくなりました。そこで、イランに駐在する「野村豊」大使が困り、在イラン・トルコ大使の「イスメット・ビセル」氏に相談したところ、なんとトルコが救援機を派遣して日本人を救出することになったのです。このとき、トルコ大使は「トルコ人なら誰でもエルトゥールル遭難事件の際に受けた恩義を知っています。御恩返しさせて頂きましょう」と語ったといわれています。

そして、本当にトルコ航空の飛行機二機がテヘランに派遣され、215名の日本人は全員救出されました。トルコ経由で日本に無事帰国できました。日本人を乗せた救援機がイラン領土を抜けだしたのは、期限に一時間十五分前でした。少し遅れていたら、撃墜される可能性もある危険な飛行でした。救援機の派遣を決めたトルコの「トルグト・オザル首相」(当時)は、他国民を助けるために、自国民を危険にさらす決断をしたのでした。

これも、日本国民の古来からある「和」の精神がトルコの人の心に通じていたのでしょう。これを思うと、2020年オリンピックはトルコ「イスタンブール」にその座を譲るのも「和」日本人の精神かもしれません。(但し、今の様な首都イスタンブールでの毎日の大デモで警察が介入してきたことで大きなマイナスになる事でしょうが)