京の話題

12000年以上続いた「平安京」の文化・寺社仏閣・お祭り等を紹介します。

1200年間天皇の御住い、「和」の国、京都御所が本来の皇居のかたちー14

2013-06-19 00:22:11 | 我が誇れる日本国の事

前記にも記載しように、2000年以上もの間「皇室」がいかに続いてきたかです。

京都御苑内「御所」の事についてはかなり以前に記載しました。参照下さい。http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20111229http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120420

 「皇室」が強い軍事力をもち、抵抗勢力をことごとぐ征伐しその結果2000年以上のあいだ「皇室」を築いたわけではありません。むしろ古代から「軍」を持たない存在でした。

「高松宮宣仁親王殿下」が生前に次の様なお話をなされたといいます。

  「皇族というのは国民に護ってもらっているのだから、過剰な警備などはいらないよ。掘りをめぐらして城壁を構えて、大々的に警護しなければならないような皇室なら、何百年も前に滅んでいるよ」

「今上天皇」の叔父、「大正天皇」の第三皇子「高松宮宣仁親王殿下」(御称号は”光宮”)1987年御逝去

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 「大正天皇」は皇子に恵まれ、第一皇子代124第「昭和天皇」第二皇子「秩父宮親王殿下」第四皇子「三笠宮親王殿下」です。

 「高松宮宣仁親王殿下」は「皇族」であられるので、謙虚なお考えをお示しになられたのでしょう。「皇室」が国民によって守られてきたのであれば、国民もまた「皇室」によって守られてきたのではあるまいと思います。「天皇」と国民は、支え合いながら長い歴史を共に歩んできたのでしょう。

それが現実的によく分かるのは「京都御所」です。現在の「皇居」は、旧「江戸城」で「明治維新」までは「徳川将軍家」の城郭でした。「平安時代」から明治初期までの1200年の間、機能してきた「京都御所」こそが、本来の「皇居」の形です。その「京都御所」には「お堀」がありません。また、敵を防ぐための石垣や、櫓、塀にある「弓狭間」や「鉄砲狭間」、そして「天守閣」など、防御する構造には一切なっていません。そのうえ、「御所内」には兵を駐屯させる建て物もすら存在しません。「京都御所」はまったくの無防備な建て物です。

 「京都御苑」

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「建礼門」

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京都御苑内の「御所」

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京都御苑内の「御所」には一切掘も石垣もありません。

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「京都御所」は設計の段階から敵が攻めてくることなど、一切考えなく建築されたものです。このように、無防備な「御所」に住み続けた「天皇」もまさか敵が攻め込んでくることなど、一切お考えにもされなかったことと思います。

 もしも、「平安時代」末期から武士政権になった「平清盛」や「源頼朝」「足利尊氏」「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」等がその気になれば「天皇」以下「皇族」をひとたまりもなく滅ぼしていたかもしれません。「京都御所」以前の「平城京」や「藤原京」、「長岡京」またそれ以前の都に置かれた「天皇」の「御所」もすべておなじでした。

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以上のような歴史から「天皇」を暗殺しようとする者が一人もいなかったからです。欧州などの内戦は「皇帝」や「王」を殺す目的の内乱や騒乱が多く有りましたが、日本の内乱では武家闘争のための戦争で、「王朝」を倒すための戦争は一度もありませんんでした。

 「清所門」(全くの、無防備です)、現在は時々皇宮警察が巡回にまわっています。

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例外的に「皇位」をめぐる皇室内の抗争は「承久の乱」(承久元年・1206年)など「天皇」が倒幕のための挙兵をした例、幕末には「蛤御門の変」など、大義に基づいたものに限られた騒乱はありましたが、「王朝」を倒すためのものは一切、長期の日本の歴史は存在しませんでした。

 ※「蛤御門の変」は以前に詳細を記載しています。http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20111230参照下さい。 

その他、蛇足ながら「京都御苑」の不思議「猿が辻」は以前に記載しました。http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120422不思議なお話です。

また、京都に市電があった時から「烏丸通」の不思議な道路のことも記載します。(現在は、有りませんが)

※誤記のため一部訂正しました。平成25年6月25日


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