久しぶりに、本題に戻ります。
以下の、記載を御覧頂く前に、かなり以前に記載した、記事を参照頂ければ幸いです。http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20130208
悟りをひらいて如来となった「釈尊」(お釈迦様)をまつるために造られたのが、「釈迦如来像」です。
鎌倉仏教は大きく「阿弥陀信仰」と「釈迦信仰」の宗派に分けられます。「法然」の「浄土宗」、「親鸞」の「浄土真宗」、「一遍」の「時宗」などが「阿弥陀信仰」の宗派で、いずれも念仏を唱えることで阿弥陀の極楽浄土に往生できると説きました。また「日蓮」の「日蓮宗」や禅宗の「栄西」の「臨済宗」、「道元」の「曹洞宗」そして同じ禅宗の江戸期の禅宗に改革を促した、「臨済禅」の教えを日本でひろめた「隠元禅師」の「黄檗宗」が「釈迦信仰」の宗派です。
そのなかで「釈迦如来像」の事を。
「如来像」は、基本的には、ほかの仏像と異なり質素な姿をして、体に装飾品がまったくみられず、出家者が用いる衲衣(のうえ)という粗末な衣服だけをつけています。後期の「釈迦如来像」は少し装飾が施されてきましたが。
「釈迦如来像」は悟りをひらいた者は一切の欲をはなれた境遇にあるという主張をあらわしたものです。仏教には、「釈迦」だけがこのような「如来」になれるとする説と、そうではないとする説があります。
「釈迦如来像」(東福寺・臨済宗)京都市http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120208
「釈迦如来像」(黄檗山万福寺)宇治市http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120608
「釈迦如来像」(黄檗宗・仏国寺)京都市http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120802
「仏教には八万四千の法門がある」といわれています。これは、仏教が多様な教義のものに分かれたことをあらわすものであるとともに、仏教はどこから入っても最終的には悟りに行き着ける寛容さをもつことを示す言葉です。
仏教の様々な信仰は、現身説(釈尊一人だけが仏法を説く主体である仏とする)、法身説(釈尊は仏法の象徴的存在であり、仏の教えである仏法が仏そのものである)、応身説(仏法が仏であるが、仏は必要に応じて人間の世界にさまざまな人間の姿であらわれるとする)に分かれています。
前記に記載した「上座部仏教」は「釈尊」(お釈迦様)だけを「仏陀」とする「現身説」にたつので、「上座部仏教」の広まった地域では「釈迦如来像」だけがつくられました。それに対して、日本に渡来した「大乗仏教」では多種多様な「如来像」がつくられました。
「上座部仏教」は前記に詳細を記載しています。http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20130118 参照願います。