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私の家には奴隷がいた

2023年10月30日 23時03分06秒 | 歴史的なできごと
私の家には奴隷がいた>祖父が母親に18歳の少女を贈った日から、彼女は奴隷として一生を過ごすことになった

祖父が母親に18歳の少女を贈った日から、彼女は奴隷として一生を過ごすことになった──。

米「アトランティック」誌が掲載を決めたその日に、57歳の若さで突然死したピュリッツァー賞ジャーナリスト、アレックス・ティゾンが遺した大型手記、驚愕の全訳。

遺灰は、トースターくらいの大きさの箱に収まった。プラスチック製の黒い箱で、重さは1kg半。それをトートバッグに入れてスーツケースにしまい、マニラ行きの飛行機に乗って太平洋を横断したのは2016年7月のことだ。

マニラに降り立つと、車で田舎の村へと向かう。到着したら、私の家で奴隷として56年間を過ごした女性の遺灰を受け渡すことになっている。

彼女の名前は、エウドシア・トマス・プリド。私たちは、彼女を「ロラ」と呼んでいた。背は150cmで、肌はチョコレート色だった。アーモンドの形をしたロラの目が、私の目をのぞきこんでいるのが人生最初の記憶だ。


娘に「奴隷」をプレゼント
マニラに到着して預けた荷物を引き取ると、スーツケースを開き、ちゃんとロラの遺灰があることを確認した。外へ出ると、懐かしい匂いがした。排気ガスやゴミ、海や甘い果物、そして人間の汗が入り混じった濃い匂いだ。


7・1・2017

翌朝早く、私は愛想の良い中年の運転手を見つけて出発した。「ドゥーズ」というニックネームだった。彼のトラックは、車のあいだをすいすいと通り抜けていく。

何度見ても衝撃を受ける光景が広がっていた。おびただしい数の車やバイク、そして乗り合いタクシー。まるで雄大な茶色い川のように、そのあいだをすり抜け、歩道を進む人々。車の横を小走りする裸足の物売りたちが、タバコや咳止めドロップの袋を売り歩く。物乞いの子供たちが、窓に顔を押しつける。

ドゥーズと私が向かっていたのは、ロラの物語が始まったタルラック州だ。また、そこは私の祖父トマス・アスンシオンという陸軍中尉の故郷でもある。家族によれば、土地をたくさん所有していたのにお金はなく、所有地の別々の家に愛人たちをそれぞれ住まわせていた。妻は、初めてのお産で命を落とした。そのときに生まれたのが私の母だ。母は「ウトゥサン」たちに育てられた。要するに、「命令される人々」だ。

フィリピン諸島における奴隷の歴史は長い。スペインに征服される前、島民たちはほかの島から連れてきた人々を奴隷にした。主に戦争の捕虜や犯罪人、債務者などだ。奴隷にはさまざまな形態があった。手柄を挙げれば自由を勝ち取ることができる戦士もいれば、財産として売り買いされたり交換されたりする召使いもいたという。



彼女、つまりロラは承諾した。ただ、死ぬまでずっとだとは思っていなかった。

「彼女はおまえへのプレゼントだ」と、祖父は私の母に告げた。

「いらない」と母は答えた。だが、受け入れるしかないのはわかっていた。やがて陸軍中尉だった祖父は日本との戦いへ赴き、田舎の老朽化した家で、母はロラと2人きりになった。ロラは母に食べさせ、身づくろいをしてやった。市場へ出かけるときは、傘をさして母を太陽から守った。犬にエサをやり、床掃除をして、川で手洗いした洗濯物を畳んだ。そして、夜になると母のベッドの端に座り、眠りにつくまでうちわで扇いだ。

戦争中のある日、帰宅した祖父が、母のついた嘘を問い詰めた。絶対に言葉を交わしてはいけない男の子について、何らかの嘘をついたらしい。激高した祖父は、「テーブルのところに立て」と母に命じた。

 母はロラと一緒に、部屋の隅で縮こまった。そして震える声で、「ロラが代わりに罰を受ける」と父に告げたのだ。ロラはすがるような目で母を見ると、何も言わずにダイニングテーブルへ向かい、その端を握った。祖父はベルトを振り上げ、12発ロラを打った。打ち下ろすたびに、「俺に」「決して」「嘘を」「つくな」「俺に」「決して」「嘘を」「つくな」と吠えた。ロラはひとことも発さなかった。


のちに母がこの話をしたとき、あまりの理不尽さを面白がっているようだった。「ねえ、私がそんなことしたなんて信じられる?」とでも言っているようだった。これについてロラに訊くと、彼女は母がどのように語ったのか知りたがった。彼女は目を伏せながらじっと聞き入り、話が終わると悲しそうに私を見てこう言った。

「はい。そういうこともありました」

彼女が「奴隷」だと気づいた日
ロラと出会ってから7年後の1950年、母は父と結婚し、マニラへ引っ越した。その際、ロラも連れていった。祖父は長年のあいだ「悪魔に取り憑かれて」いて、1951年、それを黙らせるために自分のこめかみへ弾丸を打ち込んだ。母がその話をすることはほとんどなかった。

彼女は父親と同じく気分屋で、尊大で、内側には弱さを抱えていた。父の教えはどれも肝に銘じていて、その1つが、田舎の女主人にふさわしい振る舞い方だった。つまり、自分より地位の低い者に対しては、常に上に立つ者として行動する、ということだ。

それは、彼ら自身のためでもあり、家庭のためでもある。彼らは泣いて文句を言うかもしれないが、心の底では感謝しているはずだ。神の御心のままに生きられるよう助けてくれた、と。



1951年に、私の兄アーサーが生まれた。その次が私で、さらに3人が立て続けに生まれた。ロラは、両親に尽くしてきたのと同じように、私たち兄妹にも尽くすことを求められた。ロラが私たちの世話をしているあいだ、両親は学校に通い、「立派な学位はあるけれど仕事がない大勢の人々」の仲間入りをした。

だが、そこへ大きなチャンスが訪れた。父が、外務省でアナリストとして雇ってもらえることになったのだ。給料はわずかだったが、職場は米国だった。米国は、両親が子供の頃から憧れていた国だ。彼らにとって、願っていたことすべてが叶うかもしれない、夢の場所だった。

父は、家族とメイドを1人連れていくことを許された。おそらく共働きになると考えていたので、子供の世話や家事をしてくれるロラが必要だった。母がロラにそのことを告げると、母にとって腹立たしいことに、ロラはすぐには承諾しなかった。

それから何年も経ったあとにロラが当時のことを話してくれたのだが、実は恐ろしかったのだという。

 「あまりに遠くて。あなたのお母さんとお父さんが私を帰らせてくれないんじゃないかと思ったんです」



結局、ロラが納得したのは、米国に行けばいろんなことが変わると、父が約束したからだった。米国でやっていけるようになったら、「おこづかい」をやると父は言った。そうすれば、ロラは両親や村に住む親戚に仕送りができる。

彼女の両親は、地面がむき出しの掘っ立て小屋に暮らしていた。ロラは彼らのためにコンクリートの家を建ててやれるし、そうすれば人生が変わる。ほら、考えてもごらんよ。

1964年5月12日、私たちはロサンゼルスに降り立った。ロラが母のところへ来てからすでに21年が経っていた。いろいろな意味で、自分にとっては父や母よりも、ロラのほうが親という感じがしていた。毎朝最初に見るのは彼女の顔だったし、寝る前に最後に見るのも彼女だった。

赤ちゃんの頃、「ママ」や「パパ」と言えるようになるよりずっと前に、ロラの名前を呼んでいた。幼児の頃は、ロラに抱っこしてもらうか、少なくともロラが近くにいないと絶対に眠れなかった。

 家族が渡米したとき、私は4歳だった。まだ幼かったので、ロラが我が家でどういう立場なのかを問うことはできなかった。だが、太平洋のこちら側で育った兄妹や私は、世界を違った目で見るようになっていた。海を越えたことで、意識が変わったのだ。一方で、母と父は意識を変えることができなかった。いや、変えることを拒んでいた。



結局、ロラがおこづかいをもらうことはなかった。米国へ来て数年が経った頃、それとなく両親に訊いてみたことがあるという。当時、ロラの母親は病気で、必要な薬を買うお金がなかった。

「可能でしょうか?」

母はため息をついた。「よくそんなことを言えたもんだ」と父はタガログ語で答えた。

「カネに困っているのはわかってるだろ。恥ずかしいと思わないのか」

 両親は、米国へ移住するために借金をしていて、米国に残るためにさらに借金していた。父は、ロサンゼルスの総領事館からシアトルのフィリピン領事館に異動した。年収5600ドルの仕事だった。収入を補うためにトレーラーの清掃の仕事を始め、それに加えて、借金の取り立てを請け負うようになった。


母は、いくつかの医療研究所で助手の仕事を見つけた。私たちが両親に会えることはほとんどなく、会えたとしても彼らはたいてい疲れ切っていて不機嫌だった。

母は帰宅すると、家がきちんと掃除されていないとか、郵便受けを確認していないなどと言っては、ロラを叱責した。「帰るまでに、ここに郵便を置いておけって言ったでしょ?」と、敵意をむき出しにタガログ語で母は言う。

「難しいことじゃないし、バカでも覚えられるでしょ」

そして父が帰宅すると、今度は彼の番だった。父が声を荒らげると、家中の誰もが縮こまった。ときには、ロラが泣き出すまで2人がかりで怒鳴りつけた。まるで、ロラを泣かせることが目的だったかのように。

 私にはよくわからなかった。両親は子供たちによくしてくれたし、私たちは両親が大好きだった。だが、子供たちに優しくしていたかと思うと、次の瞬間にはロラに悪態をつくのだ。




リングはお腹がすいてないって言ったんだ」と私は言った。

両親が振り返って私を見た。驚いた様子だった。いつも涙がこぼれる前にそうなるように、自分の顔がピクピクしているのを感じた。でも、絶対に泣くまいと思った。母の目には、これまで見たことのないものが浮かんでいた。もしかして、妬みだろうか?

「ロラを守ろうとしているのか」と父は訊いた。「そうなのか?」

「リングはお腹がすいてないって言ったんだ」

 私はすすり泣くように、そう繰り返した。



私は13歳だった。私の世話に日々を費やしていたロラを弁護しようとしたのは、初めてのことだった。いつもタガログ語の子守唄を歌ってくれたし、私が学校に行くようになると、朝には服を着せて朝食を食べさせ、送り迎えをしてくれた。あるときは、長いあいだ病気で弱りきって何も喉を通らなかった私のために食べ物を噛み砕き、小さなかけらにして食べさせてくれたこともあった。

私が両脚にギプスをしていたときは、彼女は手ぬぐいで体を洗ってくれたし、夜中に薬を持ってきてくれたりして、数ヵ月におよぶリハビリを支えてくれた。そのあいだずっと私は不機嫌だった。それでもロラが文句を言ったり、怒ったりすることは1度たりともなかった。

そんな彼女が泣き叫ぶ声を聞いて、頭がおかしくなりそうだったのだ。

祖国フィリピンでは、両親はロラの扱いを隠す必要性を感じなかった。米国では、さらにひどい扱い方をしたが、それを隠すために苦心した。家に客が来れば、彼女を無視するか、何か訊かれたら嘘をついてすぐに話題を変えた。

シアトル北部で暮らしていた5年間、私たちはミスラー家の向かいに住んでいた。ミスラー家は賑やかな8人家族で、サケ釣りやアメリカン・フットボールのテレビ観戦の楽しみを教えてくれた。




テレビ中継を観て応援する私たちのところへ、ロラが食べ物や飲み物を持ってくる。すると両親はほほ笑んで「ありがとう」と言い、ロラはすぐに姿を消す。あるとき、ミスラー家の父が、「キッチンにいるあの小柄な女性は誰?」と尋ねた。「フィリピンの親戚だよ」と父は答えた。「とてもシャイでね」と。

だが、私の親友だったビリー・ミスラーは、そんな話を信じなかった。よくうちに遊びに来ていたし、週末に泊まることもあったので、我が家の秘密を垣間見ていた。

ある日、キッチンから聞こえてくる母の怒鳴り声が気になって、ビリーが見に行ってみると、そこには顔を真っ赤にした母が、隅で震えているロラをにらみつけているのを目にした。私が到着したのは数秒後だった。ビリーは、気まずそうにしつつ、困惑した様子だった。


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アカマンマが色づきますね⭐

2023年10月30日 09時03分53秒 | 日々の出来事



アカマンマ、雑草の雄ですね

10/29/2023
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【ハロウィン】心肺蘇生した医師「死傷者の横で『弘大に行って飲み直すか?』と話す人、死体の写真を撮る人たち、これらに身震いした」

2023年10月30日 03時03分45秒 | 事件と事故

【ハロウィン】心肺蘇生した医師「死傷者の横で『弘大に行って飲み直すか?』と話す人、死体の写真を撮る人たち、これらに身震いした」



梨泰院雑踏事故:「弘大に行って飲み直すか」 医療関係者が心肺蘇生中に見た悲惨な光景



2022/10/31(月) 17:02:38


梨泰院雑踏事故:「弘大に行って飲み直すか」 医療関係者が心肺蘇生中に見た悲惨な光景

10/31(月) 16:39配信
朝鮮日報日本語版

 ハロウィーンを控え、ソウル市内の繁華街・梨泰院で発生した雑踏事故の現場で心肺蘇生(CPR)を行った医療関係者が、むごたらしい事故現場の状況を伝えた。およそ200人の死傷者が道端に横たわり、心肺蘇生を受ける状況を目撃した医療関係者は、事故現場を見物していた人たちや次の飲み会場所を探していた人たちのことをものすごく覚えていた。

 ある国立病院所属の医師とみられるインターネットユーザーは30日、サラリーマンの匿名コミュニティ・ブラインドに「梨泰院の現場でひどかったもの」というタイトルでコメントを書き込んだ。
 作成者は「昨日(29日)夜、梨泰院から遠くないところにいたが、事故の話を聞いて、心肺蘇生法を知っているので手助けできるのではないかと思い、梨泰院に向かった」とした上で「にぶいので大丈夫だと思っていたが、いざ行ってみるとすごかった。数十メートル前方から救急車の音や泣き叫ぶ声が聞こえ、修羅場(と化していた)」と口を開いた。

 現場を規制していた警察官は「助けに来た医療関係者で、心肺蘇生法を知っている」という言葉を聞き、作成者を中に入れてくれたという。

 作成者が直接目にした現場の様子は、一段と凄惨だった。地面に横たわっていた死傷者たちの状態は、肉眼で見ても深刻なレベルだということが分かった。作成者は「自分にはこの人を生かすことはできないと思った」と語った。

 作成者は「そんな中、一番ひどかったのは、その場を離れずに見物している人たち」と主張した。さらに「救急車に患者が乗せられていき、少し休んで再び心肺蘇生を行おうと救急車の後ろで水を飲んでいたのだが、20代とみられる人がその場を通り過ぎながら『あ×、弘大に行って飲み直すか?』と言うのを聞いた」とした上で「本当に人間という存在自体に身震いした」と打ち明けた。

 作成者は「いくら心肺蘇生をしても脈が回復しなかった人(を見て)、無能な医師になったような気分もものすごかったけれど、他人の死を前に何も感じられず、つぎの飲み屋を探していた人たちを一生忘れられないだろう」とした上で「これ以上死者が出なければと思う」とコメントした。

 該当の投稿には、また別の医師とみられるインターネットユーザーのコメントが書き込まれた。このインターネットユーザーは「わたしはその場にいて直ちに心肺蘇生を開始したのだが、初めて人間に対する嫌悪感を抱いた」とした上で「死体の写真を撮る人たちがすごく多かった」と打ち明けた。さらに「これまでかなり多くの死を目にしてきたと思ったのだが、昨日は衝撃が大きかった。望みがないのにもかかわらず、そばで友人を助けてほしいと泣きわめき騒いでいたので、やめることができなかった」とつづった。これを受け、前出の作成者も「亡くなった方の顔が忘れられない」と言って共感した。

 続きはこちらで↓ 


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50代の性行為「男性の8割がしたい」「女性の7割がしたくない」から考える 

2023年10月30日 00時03分39秒 | 女と男のこと

50代の性行為「男性の8割がしたい」「女性の7割がしたくない」から考える 産婦人科医・宋美玄さん(1/3)〈dot.〉 | AERA dot. (アエラドット) (asahi.com) 




50代の性行為「男性の8割がしたい」「女性の7割がしたくない」から考える 産婦人科医・宋美玄さん 

2023/05/01(月) 07:27:54.

https://dot.asahi.com/dot/2023042800019.html
4/30

50歳前後は、男女とも身体に変化が訪れる年齢です。女性は40代半ばぐらいから卵巣の機能が低下し始め、女性ホルモンの一種、エストロゲンの分泌量が減り、着実に閉経へと向かいます。この時期を更年期と言い、さまざまな不調に見舞われる人も少なくありません。男性も、テストステロンという男性ホルモンの分泌量が減ります。女性と比べると減り方はゆるやかですが、女性と同じような更年期症状が出る人もいます。

これは生殖機能の終わりを意味します。性ホルモンにはさまざまな働きがあり、女性も男性もそれによって身体が機能して健康が守られていますが、基本的には妊娠する、させるために分泌されているホルモンだからです。それがなくなることで、生殖器、性機能の変化を実感する人も少なくありません。とはいえ、下半身だけが特別なわけではないのです。20、30代のときと比べて体力がなくなった、視力が低下した、肌の弾力が失われシワが増えた、脂っこいものを食べた後の消化がいまひとつになった……これまで特に気にすることなくできていた、たくさんのことができなくなる。それと同様に、セックスもこれまでと同じようにはいかなくなります。

一般的に加齢はネガティブに捉えられがちでしたが、近年では誰にでも起きる自然な現象であるからポジティブに受け止めようという動きも見られます。人生100年時代と考えると、長い長い後半戦を暗い気持ちで過ごすのを避けたいと思っての変化でしょう。身近なところでは、白髪は以前は加齢の象徴のように思われ、染めたり隠したりされてきましたが、自然の状態こそが美しいというグレイヘアが定着したのも、その一例でしょう。セックスにおいても同様で、加齢は必ずしもネガティブな出来事ばかりではないと思います。これまでのようにはできないということは、思い込みを捨てる絶好のチャンスと、とらえることもできます。

50歳というのは、そのよい節目ではないでしょうか。衝動に突き動かされるようにしてセックスしていた人も、その頻度が低くなったり程度が弱まったりします。いくつになっても旺盛な性的欲求を感じる人はいますが、それでもだんだん目減りしていきます。そんななかでセックスをしたいと思うなら、いまのうちに「しなければならない」を手放し、考えをシフトしておいたほうがいいと思います。

■男性器中心主義セックスからの卒業
まず最初に見直したいのが「いつまでも性的に元気でなければならない」という思い込みです。この“元気”は、性的欲求を感じ、セックスを完遂できるまでの性機能が維持されている、というイメージのことです。そして完遂とは男性の射精を意味することとして、ひとまず話を進めます。

先述したとおり、性欲は年とともに低下していきますが、これは性欲を司つかさどる、テストステロンの分泌量が低下するからだと考えられています。男性ホルモンの一種ですが、女性も少量のテストステロンが分泌されています。

「セックスしたい」という欲求は、もともと男女差が大きく、年齢が上がるごとにその差はますます開いていきます。

20~69歳の男女、約5000人を調査した結果、
「セックスしたいか」という問いに対して、「良く思う」「たまに思う」と回答したのは、

50代男性で81.2%、60代男性で72.4%だったのに対して、
50代女性は30.7%、60代女性は18%という結果が得られました。

この年代を見ると「したい男性と、したくない女性」という構図に見えますが、私が日ごろ、クリニックで女性からセックスの悩みを聞いている実感もこれと同じです。

セックスはしたいとあまり思わなくなったけど、肌と肌を重ねたいと思っている女性は一定数います。その妨げとなっているのが、男性の「性器は大きく」「挿入時間は長く」という思い込みです。これは男性だけが囚われているもので、女性からすれば、男性器があまりに大きいと挿入時に痛みが出やすく、挿入時間が長いと腟の潤いがなくなるため、これまた痛みにつながります。

この男女のすれ違いについて、私は『女医が教える 本当に気持ちのいいセックス』を出版して以来もう数え切れないほど発信しているのですが、男性に届いているという手応えがありません。これは男性同士で、大きさや挿入時間の長さを賞賛する一方で、サイズが小さく、早く射精することを「劣っている」と見なす文化があるからだと思います。本来なら抱かなくてよいはずのコンプレックスを抱きつづける男性がいて、それによって苦痛が発生している女性がいる……この思い込みで幸せになっている人はいないように思います。




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