長嶋茂雄さん死去 ミスタープロ野球、89歳―「燃える男」「メークドラマ」(時事通信) - Yahoo!ニュース
長嶋茂雄さん死去 ミスタープロ野球、89歳―「燃える男」「メークドラマ」
6/3(火) 8:55配信

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時事通信
プロ野球巨人終身名誉監督の長嶋茂雄さん
プロ野球巨人の4番打者、監督として野球界に偉大な足跡を残し、「ミスタープロ野球」と呼ばれた国民的英雄、長嶋茂雄(ながしま・しげお)さんが3日午前6時39分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。
【写真特集】「ミスター巨人」長嶋茂雄氏
89歳だった。葬儀は近親者のみで執り行う。喪主は次女の三奈さん。
2004年3月に脳梗塞を患って入院したが、リハビリを重ねて退院。試合観戦や少年野球の指導などを通じて球界を見守った。18年7月には胆石治療のため入院。同年末に退院し、19年4月には東京ドームで巨人戦を観戦するまでに回復した。以後も「巨人終身名誉監督」としてたびたび球場を訪れ、現役選手にアドバイスした。
千葉県臼井町(現佐倉市)出身。県立佐倉一高(現佐倉高)から立教大へ入学し、通算8本塁打の東京六大学野球記録(当時)をつくった。1958年に巨人入り。1年目に本塁打王、打点王、新人王に輝いた。
59年、昭和天皇が初めてプロ野球を観戦した「天覧試合」でサヨナラ本塁打を放つなど、大舞台で無類の勝負強さを発揮。「ミスタージャイアンツ」「燃える男」の異名を取り、天性の明るさと華やかなプレーで高度経済成長期の国民に夢と希望を与えた。王貞治選手(現ソフトバンク球団会長)との3、4番コンビは「ON砲」と呼ばれ、巨人を65年から9年連続日本一に導いた。
74年に「わが巨人軍は永久に不滅です」の名言を残して引退するまで、首位打者6回、本塁打王2回、打点王5回のタイトルを獲得し、最優秀選手に5回選ばれた。背番号3は巨人の永久欠番。
引退翌年に監督となり、1年目の75年は球団史上初の最下位に終わった。76、77年にセ・リーグを連覇したが、続く3年間は優勝を逃し、解任された。93年に監督復帰。94年に初の日本一を達成し、00年には王監督率いるダイエー(現ソフトバンク)とのON対決を制し、2度目の日本一となった。
01年勇退。監督通算15年でリーグ優勝5回、日本一2回だった。「メークドラマ」「メークミラクル」など独特の表現で選手を鼓舞し、奇跡的な逆転優勝も果たした。
02年12月、アテネ五輪を目指す日本代表の監督に就任。アジア予選を突破したが、病に倒れ、五輪では指揮を執れなかった。13年には、監督時代に巨人の4番打者に育てた松井秀喜さんと共に国民栄誉賞を受けた。
21年夏の東京五輪開会式で王さん、松井さんと共に聖火ランナーを務め、同年秋には元プロ野球選手として初の文化勲章を受けた。
元ヤクルト、巨人内野手でタレントの一茂さんは長男。
6/3(火) 8:55配信

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時事通信
プロ野球巨人終身名誉監督の長嶋茂雄さん
プロ野球巨人の4番打者、監督として野球界に偉大な足跡を残し、「ミスタープロ野球」と呼ばれた国民的英雄、長嶋茂雄(ながしま・しげお)さんが3日午前6時39分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。
【写真特集】「ミスター巨人」長嶋茂雄氏
89歳だった。葬儀は近親者のみで執り行う。喪主は次女の三奈さん。
2004年3月に脳梗塞を患って入院したが、リハビリを重ねて退院。試合観戦や少年野球の指導などを通じて球界を見守った。18年7月には胆石治療のため入院。同年末に退院し、19年4月には東京ドームで巨人戦を観戦するまでに回復した。以後も「巨人終身名誉監督」としてたびたび球場を訪れ、現役選手にアドバイスした。
千葉県臼井町(現佐倉市)出身。県立佐倉一高(現佐倉高)から立教大へ入学し、通算8本塁打の東京六大学野球記録(当時)をつくった。1958年に巨人入り。1年目に本塁打王、打点王、新人王に輝いた。
59年、昭和天皇が初めてプロ野球を観戦した「天覧試合」でサヨナラ本塁打を放つなど、大舞台で無類の勝負強さを発揮。「ミスタージャイアンツ」「燃える男」の異名を取り、天性の明るさと華やかなプレーで高度経済成長期の国民に夢と希望を与えた。王貞治選手(現ソフトバンク球団会長)との3、4番コンビは「ON砲」と呼ばれ、巨人を65年から9年連続日本一に導いた。
74年に「わが巨人軍は永久に不滅です」の名言を残して引退するまで、首位打者6回、本塁打王2回、打点王5回のタイトルを獲得し、最優秀選手に5回選ばれた。背番号3は巨人の永久欠番。
引退翌年に監督となり、1年目の75年は球団史上初の最下位に終わった。76、77年にセ・リーグを連覇したが、続く3年間は優勝を逃し、解任された。93年に監督復帰。94年に初の日本一を達成し、00年には王監督率いるダイエー(現ソフトバンク)とのON対決を制し、2度目の日本一となった。
01年勇退。監督通算15年でリーグ優勝5回、日本一2回だった。「メークドラマ」「メークミラクル」など独特の表現で選手を鼓舞し、奇跡的な逆転優勝も果たした。
02年12月、アテネ五輪を目指す日本代表の監督に就任。アジア予選を突破したが、病に倒れ、五輪では指揮を執れなかった。13年には、監督時代に巨人の4番打者に育てた松井秀喜さんと共に国民栄誉賞を受けた。
21年夏の東京五輪開会式で王さん、松井さんと共に聖火ランナーを務め、同年秋には元プロ野球選手として初の文化勲章を受けた。
元ヤクルト、巨人内野手でタレントの一茂さんは長男。