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これで「愛子天皇」は実現できる…専門家が提言「男系男子での皇位継承も同時に確保できる歴史に学ぶ妙案」

2025年06月05日 19時03分16秒 | 皇室のこと

 

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これで「愛子天皇」は実現できる…専門家が提言「男系男子での皇位継承も同時に確保できる歴史に学ぶ妙案」(プレジデントオンライン) - Yahoo!ニュース

 

https://news.yahoo.co.jp/articles/2bb5aade91089afd3a035e2375a33d327323592f

 

これで「愛子天皇」は実現できる…専門家が提言「男系男子での皇位継承も同時に確保できる歴史に学ぶ妙案」
5/24(土) 7:17配信


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プレジデントオンライン
JR金沢駅で集まった人たちに手を振られる天皇、皇后両陛下の長女愛子さま=2025年5月18日午後、金沢市(代表撮影) - 写真=共同通信社

愛子内親王が皇位を継承する可能性はあるか。『日本人にとって皇室とは何か』(プレジデント社)を上梓した島田裕巳さんは「女性天皇が久しぶりに現れた江戸から明治の初期においては、保守派の間でも女性天皇を容認するような考えも示されていた」という――。

 

【画像】日本の神話において絶大な権力者として描かれた女神

■愛子天皇が誕生したらどうなるか

 保守派と言われる人たちが、皇位継承について男系男子にこだわるのは、愛子内親王が天皇に即位することを強く怖れるからではないだろうか。

 仮に「愛子天皇」が誕生したらどうなるのか。国民はそれを歓迎し、熱狂するに違いない。何しろ天皇の直系であり、戦後、開かれた皇室を実現する上で決定的な貢献をしてきた美智子上皇后の孫であり、雅子皇后の娘だからである。

 男系男子とは言っても、子どもを生み育てる上で、男性の果たす役割はあまりにも小さい。精子を放つということが唯一の役割で、その後は女性の胎内で胎児は成長していく。命を懸けての出産も女性の仕事で、男性がそこにかかわることはない。最近では、男性が出産の場に立ち合うことも多くなったが、そこで何かをするわけではない。昔は産婦人科で出産するのではなく、自宅に「産婆」と呼ばれた女性が来て行われるのが普通で、近所の女性たちがそれを手伝った。

 出産後も母乳を与えるのは女性で、粉ミルクが登場することで、ようやく男性は乳児に乳を与えられるようになった。果たして、精子を放つという仕事はそれほど重要なことなのだろうか。大量に精子を冷凍保存しておけば、男性不要の社会だって実現させることができそうだ。

■「日本国は女の治め侍るべき国なり」

 それだけ弱い立場にある男性だからこそ、男系男子にこだわるのではないか。もちろん、男系男子での継承を絶対とする女性たちもいるが、要はそれが「男尊女卑社会」の最後の砦(とりで)なのである。

 しかも、男系男子に皇位を限定するのは、明治時代になってからの新しい伝統である。

 最近刊行した拙著『日本人にとって皇室とは何か』(プレジデント社)では、室町時代の公卿(くぎょう)で、当代随一の知識人として知られた一条兼良(いちじょうかねよし)(1402〜1481年)が、その著作『小夜寝覚(さよのねざめ)』において、「この日本国は、和国とて、女の治め侍(はべ)るべき国なり」と述べ、天皇家の祖神である天照大神(あまてらすおおみかみ)や、応神天皇と習合した八幡大神の母が神功(じんぐう)皇后である点を強調していることを紹介した。

 神功皇后の治世は69年間に及んでおり、のちに第15代の天皇から外されたのは、大正15年と近代になってのことだった。『日本書紀』では、神功皇后の治世に1巻があてられている。

 

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天照大神は、高木神(たかぎのかみ)(高御産巣日神(たかみむすびのかみ))とともに、高天原から数々の指令を下す絶大な権力者である。そのため、女神ではなく男神ではないかという説もあるが、保守派にとっては、天照大神が男神であるほうが都合がいいことだろう。

■女性天皇における「中継ぎ」説

 愛子天皇が誕生すれば、天照大神や神功皇后のことが引き合いに出されるに違いない。さらには、飛鳥時代から奈良時代にかけて登場した多くの女性天皇たちのことも改めて注目されるはずだ。そして、一条兼良も先見の明があったと再評価されるであろう。

 ただ、代々の女性天皇については、「中継ぎ」説が唱えられてきた。男性皇族に適当な人材がいないとき、臨時に女性が天皇に即位してきたというわけである。

 拙著でも述べたが、古代の女性天皇は数も多く、治世の期間も長い。その功績は男性と遜色(そんしょく)はない。とても中継ぎと言えないことは明らかである。

 では、江戸時代に久しぶりに誕生する2代の女性天皇の場合はどうなのだろうか。江戸時代の女性天皇は、第109代の明正(めいしょう)天皇(在位1629〜1643年)と第117代の後桜町(ごさくらまち)天皇(在位1762〜1771年)である。

 明正天皇の場合、父親の後水尾(ごみずのお)天皇が徳川幕府に対して不快感を抱き、その腹いせに譲位したことで、わずか7歳で即位している。したがって、政務は後水尾上皇や幕府が行っている。しかも、後水尾が譲位する際に、「若宮御誕生の上、御譲位あるべき事」との覚書が出されていた。実際、21歳のときに、明正天皇は自らの即位後に生まれた弟の後光明(ごこうみょう)天皇に譲位している。

 一方、後桜町天皇の場合には、弟である第116代の桃園(ももぞの)天皇が若くして亡くなり、その皇子であった英仁(ひでひと)親王(のちの第118代後桃園(ごももぞの)天皇)がまだ幼かったため、22歳で即位している。その点で、明正天皇も後桜町天皇も、中継ぎであったととらえられる。古代の女性天皇とはその性格が大きく違うのだ

 

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■保守派も容認した江戸期の女性天皇

 プロ野球の世界では、以前は先発投手の後に登板する中継ぎに対する評価は著しく低かった。しかし、今では力のある中継ぎがいないチームは勝利がおぼつかなくなり、その評価は高まっている。

 女性天皇を中継ぎとする見方を確立したのは、戦後の歴史学の権威とされた井上光貞であり、その論文は1964年に発表されている。巨人の中継ぎのエース宮田征典投手が「8時半の男」と呼ばれ、中継ぎに対する評価が変わっていくのは、その翌年、65年のことだった。井上の論文がもっと遅く発表されていたら、受け取られ方は変わっていたかもしれない。

 江戸時代の女性天皇は、たしかに中継ぎかもしれないが、宮田投手に匹敵するような重要な役割を果たしたのである。

 そうしたこともあり、女性天皇が久しぶりに現れた江戸時代から明治時代の特に初期の段階においては、保守派の間でも女性天皇を否定するような議論は行われておらず、むしろ、その可能性を容認するような考えも示されていた。

 当時の保守派と言えば「国学者」ということになるが、その江戸時代の代表、本居宣長は、王朝の交代がなかったことに日本の中国に対する優位性が示されていると主張はしたものの、女性天皇を否定するような見解は述べていない。

 

■分岐となった明治期の旧皇室典範

 明治の国学者の間で問題になったのは、古代の養老律令に含まれる「継嗣令(けいしりょう)」にある、「天皇の兄弟、皇子は、みな親王とすること。女帝の子もまた同じ」の条文だった。これを明治の国学者である横山由清(よしきよ)や小中村清矩(きよのり)は、女性天皇の子どもも、男性天皇の子どもと同様に親王とする規定として解釈した。

 明治の時代には「王政復古」というスローガンが掲げられ、古代の天皇中心の政治体制に回帰することが主張され、国学者はそうした議論を先導したのだが、彼らの中には、女性天皇を真っ向から否定する考えはなかったのだ。

 結局、そうした考え方が完全に否定されるようになるのは、大日本帝国憲法が制定されたのにともなって、旧皇室典範が、天皇家の家憲として1889年に定められてからである。

 それでも、元老院が作成した憲法の草案である「日本国憲按」の1880年段階のものでは、「やむを得ない場合には、女系(女性の系統)の者が皇位を継承することができる」という条文が含まれていた。ところが、井上毅(こわし)などが、「万世一系」という考え方をもとにした新たな伝統を築こうとして、そうした条文を葬り去ったのだ。

 それ以前の流れでいけば、女性天皇や女系天皇を、臨時のもの、あるいは中継ぎとして容認する条件が整えられていた可能性がある。国学者に代表される保守派も、その点について、今よりもはるかに寛容だったことになる。

■「中継ぎとしての愛子天皇」がもたらすもの

 ここまで述べてきたことを踏まえると、「中継ぎとしての愛子天皇」という可能性が開かれていく。

 皇位の安定的継承に妙案がない現状において、現在の天皇がそれほど遠くない時点で譲位し、皇室典範が改正されて愛子天皇が誕生したとする。皇室への関心は今以上に高まり、今なお残る男尊女卑の風潮も下火になるであろう。夫婦別姓の法改正も実現し、女性首相も容易に誕生することであろう。

 国事行為などは、譲位した上皇と分担すればよい。そして、一定期間が過ぎたら、愛子天皇は中継ぎの役割を終え、悠仁親王に天皇の位を譲るのだ。これで、保守派が望む、男系男子での継承の道も確保される。

 あるいは、愛子天皇の時代が続く中で、女系天皇を容認する声も高まり、在位期間は延びるかもしれない。少なくとも、皇位継承について、国民は今以上に関心を持つようになるであろう。

 ちなみに、2022年に亡くなった英国のエリザベス女王が即位したのは25歳のことだった。若きクイーンの誕生は、日本社会に活力と希望を与えることになるのではないだろうか。

 

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島田 裕巳(しまだ・ひろみ)
宗教学者、作家
放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、同客員研究員を歴任。『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)、『教養としての世界宗教史』(宝島社)、『宗教別おもてなしマニュアル』(中公新書ラクレ)、『新宗教 戦後政争史』(朝日新書)など著書多数。
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天皇家の先祖は「航海者」だった…考古学者の探求心をくすぐる「日本神話の3人の神」を巡るミステリー

2025年06月02日 17時03分35秒 | 皇室のこと
 
天皇家の先祖は「航海者」だった…考古学者の探求心をくすぐる「日本神話の3人の神」を巡るミステリー(プレジデントオンライン) - Yahoo!ニュース 
 
■海を越えてきた神話の登場人物たち
 
 
 
 
 
 
天皇家の先祖は「航海者」だった…考古学者の探求心をくすぐる「日本神話の3人の神」を巡るミステリー
2/9(日) 17:17配信




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プレジデントオンライン
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/dimakig


2019年、天皇陛下は126代目天皇として即位された。世界でも最も古い王朝とされる日本の皇室のルーツはどこにあるのか。考古学者・森浩一さんの著書『日本神話の考古学』(角川新書)より、一部を紹介する――。


【図表】南九州の重要な古墳群


■神代の舞台として描かれている南九州


 “日向(ひゅうが)”神話とよばれているイワレヒコ(神武)以前の、いわゆる“神代”の三人のミコトたちの舞台として描かれている土地は、今日の宮崎県だけではなく、鹿児島県を含んだ地域であり、物語の展開のうえではむしろ鹿児島県、とくにその西南部の薩摩半島がひんぱんに登場する。これら南九州の土地は、いうまでもなく隼人(はやと)とよばれた集団の活躍するところでもあった。


 このように神話の展開のうえでは、南九州と天皇家の遠い先祖が不離一体の関係にあったのだが、それが神話のうえにとどまらず、実際になんらかの関係があったのか、それとも『古事記』(以下、『記』)・『日本書紀』(以下、『紀』)の編者たちの完全な創作であったのかについては、考古学や民俗学の資料、さらに南九州という土地柄や奈良時代以後の歴史の推移などをも十分に考慮してから、考えをまとめねばならない。それは容易なことではなかろう。


 本書の第8章でも少し述べたように、“完全な創作”とみるには無視できない考古学資料がある。といって、もちろん『記・紀』の物語の展開通りの史実があったということは、とうてい考えられない。そこでもう一度、南九州のいわゆる隼人の地域について、微細な資料に目を向けてみよう。


■「鵜戸の岩屋が国王の宮殿である」


 17世紀のはじめに日本で活躍したイエズス会の通事ジョアン・ロドリーゲスは、『日本教会史』のなかで、“日本人が住んだ最初の地方は九州の日向である。そこに最初の国王神武まで(もちろん東方への移住まで)が住んでいた。日向には鵜戸(うど)の岩屋という洞窟があって、そこが国王の宮殿である”という意味の文章を載せている(『大航海時代叢書9 日本教会史 上』岩波書店、1967年)。


 ロドリーゲスは、日本人の間で通事伴天連(つうじばてれん)とよばれた。つまり日本語に通暁していたのである。ということは直接、日本人からものを聞くことができた人であるから、彼が残した文章には貴重な情報があると私は考えている。


 見通しにすぎないけれども、南九州に天皇家の遠い先祖が根拠地をかまえていたことについてのロドリーゲスの知識は、『記・紀』を読むことから得ただけではなく、九州の人びとから得た伝説をまじえた話であったであろう。
 
■海を越えてきた神話の登場人物たち


 文明10年(1478)、臨済の僧であり名高い儒学者であった桂庵玄樹が薩摩に招かれ、いわゆる薩南学派を興した。この機会を利用して、彼は薩摩や日向の地の旅をしている。


 鵜戸を訪れたとき、“鵜戸廟(びょう)”に詣(もう)で、次のような臨場感にあふれた詩を残している(『島陰漁唱』、『島陰集』ともいう)。


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扶桑開闢(かいびゃく)帝王城 神武霊蹤(れいしょう)
今古驚定百龍燈照深夜 海濤打岸怒雷声
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 このように、宣教師たちが記録を残した以前にも、鵜戸の洞窟を神武の霊蹤、つまり聖跡とする神話と結びついた信仰があったことを知ることができる。


 南九州を舞台にしたニニギノ尊(ミコト)・ヒコホホデミノ尊・ウガヤフキアエズノ尊らの物語、さらにそれに関連して登場する塩土老翁(しおつちのをじ)の物語では、その地域の支配者層の人びとが海上交通によって遠隔地と交渉をする能力をもっていたり、あるいは遠隔地についての知識をもっていたり、ときには自らも異国と思われる遠隔地に出かける人として描かれていた。


 また豊玉姫(とよたまひめ)や玉依姫(たまよりひめ)などは、異郷から海を越えて南九州に至り、豊玉姫にいたってはウガヤフキアエズノ尊の出産を終えたのち、再び異郷に帰っている。


■航海者、あるいは海戦の指揮者だった


 このような行動は、イワレヒコ以後の天皇や皇后たちとは異なったものとして私には感じられる。とくに大和(やまと)の天皇や皇后たちは、わずかの例外を除くと、海を越えない人たちであった。


 その意味では、ウガヤフキアエズノ尊と海神の娘・玉依姫との間に生まれた四人の男子のうち、長子(五瀬命(いつせのみこと))は大阪湾で命を失い、次男(稲氷命(いないのみこと))は「妣(はは)の国として海原に入り」、三男(御毛沼命(みけぬのみこと))は「海の穂、つまり波を踏んで常世の国に渡る」などの行動をしている。


 これらの海原や常世の国についてはさまざまな解釈があるけれども、新羅(しらぎ)や南中国(華南(かなん))とみる説があり、私も異郷の地説が妥当であると考えている。つまり彼らは、航海者であったり、ときには海戦の指揮者として登場しているのである。
 
■神武天皇以後、日向は重視されず


 『延喜式』の神代三陵『紀』には、“神代”の三人のミコトたちについて、それぞれ名前のついた陵(みささぎ)に葬ったとする記事がある。ニニギノ尊を例にとると「筑紫の日向の可愛(え)(埃)の山陵(みささぎ)に葬る」とある。


 だが、いわゆる東征(東遷)以後の大和の天皇たちが、何かの重要事件にさいして、日向にあるはずの“神代三陵”に使者を派遣したという記事や、陵の修理や管理についての記事はまったくない。


 景行(けいこう)天皇の場合、『紀』では自ら九州に遠征をしたという設定になっていて、日向国では高屋宮(たかやのみや)という行宮(あんぐう)を作ったことになっている。


 高屋というのは、ヒコホホデミノ尊を葬った「日向の高屋山上陵(たかやのやまのうえのみささぎ)」の地名にあらわれている高屋のことであるとみてよかろう。だが物語のうえで、景行が神話のうえでの祖先の陵に詣でた話にはなっていない。


■平安時代の資料に記録されていたこと


 そればかりではない。平安時代前期にまとめられた『延喜式』にも、注目を要する記録がある。『延喜式』は、律令政府の運営上欠くことのできない慣習や規則を細かく記録した書物であるが、その21巻に諸陵寮の記録を含んでおり、神代三陵の記事がある。


 諸陵寮の冒頭には、日向埃山陵をはじめとする陵を列記し、そのいずれにも「日向国にある。陵戸なし」と書いている。


 『延喜式』では、一般に陵名のあとに所在地などを示している。たとえばイワレヒコ(神武)の場合は、


 (1)大和国高市(たかいち)郡にある、(2)兆域(ちょういき)は東西一町 南北二町、(3)守戸は五烟(えん)


 と詳細な記述がある。このような一般的な記載法に比べると、神代三陵については、国名はあるけれども(1)のような郡名がない。実際の陵墓の範囲や広さを示す(2)の記載がない。さらに天皇家にとって重要な先祖であるにもかかわらず、(3)の管理をする者の存在が認められない。


 これらから考えると、実際に該当する古墳があった可能性は少ないように感じられる。
 
 
■神代三陵があったのは宮崎県?鹿児島県?


 事実、『延喜式』でもこれらの神代三陵については、山城国葛野(かどの)郡(現・京都市上京区)にある田邑陵(たむらのみささぎ)(文徳天皇陵)の南原で祭るよう決められていた。その祭場の広さは東西・南北とも一町(約100メートル)で、奈良時代や平安時代の陵墓の兆域に比べるとたいへん狭い。


 それだけではなく、これらの三陵が「日向国にある」とする点にも問題がある。いうまでもなく、ここでの日向国とは大隅(おおすみ)や薩摩は含んでおらず、宮崎県のことである。


 考古学的な根拠は少ないけれども、主として地名や信仰によりながら、それまで宮崎県内にも神代三陵の候補地はあったにもかかわらず、政府は1874年(明治7)に、三陵のすべてを鹿児島県内に政治決定している。


 このことは、『延喜式』とはくい違うが、神話にあらわれた地名を重視するかぎり、やむをえない結論のように思える。


■なぜ「遠くから見るだけ」の存在だったのか


 このように整理してくると、問題点はかなり明らかになってくる。8世紀以前には日向国は大隅や薩摩の地を含んでいた。しかし、いわゆる神名帳の部分をはじめ、『延喜式』の全体の扱いでは、薩摩国と大隅国を日向国から分けて記述している。


 だから、実際に当時、神代三陵なるものがあったのであれば、『延喜式』では薩摩国にあると書いているはずであった。神代三陵が日向国にあるというのは、たぶんに精神的な存在であったからであろう。


 10世紀の段階でも、南九州にあるはずの神代三陵は、個々の場所が明確に掌握されていたのではなく、平安京近くの真原岡(まはらのおか)の田邑陵から遠く拝み見るという習慣があったことが知られるのである。


 どうして大和朝廷が神代三陵について関心を示さなかったのか、そこに何らかの史実が潜んでいるのか、それとも古代日本人の先祖観に関連するのか、これについては、さらに考察を深める必要がある。






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森 浩一(もり・こういち)
考古学者
1928年大阪市生まれ。日本考古学・日本文化史学専攻。同志社大学大学院修士課程修了、高校教諭、同志社大学講師を経て72年から同大学文学部教授。環日本海学や関東学など、地域を活性化する考古学の役割を確立した。著書に『古代史おさらい帖』『天皇陵古墳への招待』『倭人伝を読みなおす』(いずれも筑摩書房)、『僕が歩いた古代史への道』(角川文庫)『森浩一の考古交友録』(朝日新聞出版)、『敗者の古代史』『記紀の考古学』『日本神話の考古学』(いずれも角川新書)など多数。2012年第22回南方熊楠賞を受賞。13年8月逝去。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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『週刊文春』が暴いた「“愛子天皇”極秘計画」は、天皇制の根幹に関わる深刻な問題を浮き彫りにしている

2025年01月20日 03時03分22秒 | 皇室のこと


『週刊文春』が暴いた「“愛子天皇”極秘計画」は、天皇制の根幹に関わる深刻な問題を浮き彫りにしている(篠田博之) - エキスパート - Yahoo!ニュース 




『週刊文春』が暴いた「“愛子天皇”極秘計画」は、天皇制の根幹に関わる深刻な問題を浮き彫りにしている


篠田博之月刊『創』編集長
1/5(日) 17:28 2025

『週刊文春』1月2・9日号(筆者撮影)
愛子さまの結婚をめぐる女性・女系天皇論
 『週刊文春』2025年1月2・9日号が目玉として掲載した特集記事「悠仁さまを揺さぶる“愛子天皇”極秘計画」は、ある意味衝撃的な内容だ。


 2016年、現在の上皇が「生前退位の意向」を表明した当時の安倍政権で、ある極秘計画が進行していたという。女性天皇は容認するにしても女系天皇は受け入れがたいとして、愛子天皇が誕生した時に夫となるべき旧皇族の青年を探せという指示が出されたというのだ。記事中で「事情を知る当時の政権中枢」がこう証言している。


「安倍総理はこの指示を極秘裏に、杉田和博官房副長官(当時)に命じました。血統が天皇に連なる旧皇族の男系男子と愛子さまが結婚すれば、その子どもも天皇に連なるY染色体をもつ『男系男子』となる。それならば愛子天皇が誕生した後も、男系の子どもが皇位を継承していけるという計画だったのです」


 そしてこう続く。「密命を受けた杉田氏が調査した結果、旧皇族の賀陽家に年齢が近い男子が二人いることが判明した」


 2013年、週刊誌で愛子さまの見合い相手として賀陽家の息子の存在が報じられたが、それにはこんな背景があったのかもしれない。


「該当する皇族は生身の人間」との秋篠宮発言
 証言した「当時の政権中枢」とは誰なのか、どこまで裏がとれている話なのか。そのあたりがもう少し明らかにされれば大スクープとして新聞・テレビが後追いしただろうが、今回は、それを紹介したYouTubeチャンネルだけが盛り上がって終わりそうな気配だ。ただ安倍元総理らは男系男子にこだわっていたし、その意向を受けて杉田和博官房副長官(当時)が動いたというのは、いかにもありそうな話だ。


 秋篠宮さまが2024年11月の誕生日会見で女性皇族問題について訊かれ、「該当する皇族は生身の人間」と語っていたが、当の愛子さまにしてみれば、気持ちの良い話ではないだろう。当事者の意思と別に後継問題が論じられ、政権中枢が密かに動くという経緯が、この問題の本質を映し出している。天皇制の伝統をどう守るのかという観点からすれば当事者の気持ちは二の次になってしまう。


『週刊新潮』1月2・9日号(筆者撮影)
 


 さて、その秋篠宮さまの「生身の人間」云々の言葉を引用しながら、『週刊新潮』1月2・9日号が報じたのが「佳子さま30歳 加速する『皇室離脱』願望に秋篠宮さまの胸の内」だ。こちらもある意味で深刻な問題で、記事中の関係者によれば、佳子さまは今も「皇室から出るには結婚するしかない」と語っているという。ただ、今のままであれば、眞子さんのように自分の意思で結婚相手を見つけるのは至難の業だろう。女性皇族をめぐる議論が高まりつつある中で、佳子さまについて今後どう考えていくべきなのか。関係者も頭を痛めているに違いない。


 そういえば『週刊現代』が12月28日・1月4日号から「17年ぶりの大幅リニューアル」を敢行し、本文のレイアウトを大きく変えたのだが、その号の表紙は何と佳子さまだ。女性週刊誌の場合は佳子さまの表紙は珍しくないが、いまや男性高齢者向け雑誌となっている同誌に佳子さまの写真がドーンと掲げられているのは確かに目立つ。つまり同誌の読者にとっても佳子さまというのは気になる存在になっているというわけだ。


『週刊現代』12月28日・1月4日号(筆者撮影)
「天皇制というそもそも非合理性を孕んでいるシステム」
 女性皇族問題を含めて象徴天皇制をどう考えるのか。本格的議論を始めるべきだという声は広がっているように見える。


 年明け1月4日に発売された『週刊ポスト』1月17・24日号が「天皇家の昭和100年」という巻頭特集を掲載している。2025年は昭和100年にあたるのだが、佐藤優さんと片山杜秀さんの対談の形で天皇制の経緯や問題点を8ページにわたって語り合っているのだ。その中で佐藤優さんがこう語っている。


「天皇制を維持したいのであれば、私は女系天皇、女性天皇といった議論は危ないと思います。なぜなら、天皇制というそもそも非合理性を孕んでいるシステムに、部分的に合理性を持ち込もうとしているからです」


 つまりそもそも天皇制というのは非合理性を孕んでいるシステムだというわけだ。その発言の前には片山さんがこう語っている。


「昭和100年は、明治以来続いた天皇制の分岐点に差し掛かっている印象を受けます」


 確かに、今、後継問題をめぐって象徴天皇制は大きな岐路に立たされている。大学でジェンダー問題を学んだ佳子さまや愛子さまは、その時代の流れと相反する天皇制の問題に悩んでいるはずだ。それは天皇制の持つ絶対的矛盾で、愛子さまや佳子さまの結婚問題はその具体的現れだ。


秋篠宮「生身の人間」発言の真意
 先に言及した秋篠宮誕生日会見での発言はこうだった。「該当する皇族は生身の人間。その人たちがそれによってどういう状況になるのか。(略)宮内庁の然るべき人たちは、その人たちがどういう考えを持っているかを知っておく必要がある」


 前出『週刊新潮』では、この発言について「秋篠宮家の事情を知る関係者」がこう語っている。「今回のご発言は一見して宮内庁に苦言を呈された格好になっていますが(略)ご発言の真意は、ご自身や佳子さまのお気持ちを把握しないまま協議を進めていく与野党の政治家、そしてその立法府から報告を受ける政府への“痛烈なご批判”に他なりません。新たな制度が作られつつある裏で、当事者が抱く思いを世間に知ってほしいと考え、あえて“身内”たる宮内庁の名を挙げてアピールされたのです」


 2025年、皇室や天皇制をめぐる議論は広がっていくのだろうか。









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なぜ日本の皇室は「世界から一目おかれている」のか? 他国からリスペクトを集める人間性 「ソフト外交」で戦争責任と向き合う

2025年01月19日 13時03分34秒 | 皇室のこと



なぜ日本の皇室は「世界から一目おかれている」のか? 他国からリスペクトを集める人間性 「ソフト外交」で戦争責任と向き合う

1/17(金) 11:00配信




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歴史人
ペリリュー島戦争遺跡


日本の皇室は、武士政権の移り変わりがあっても断絶することなく、1500年という歴史を紡いできた。その長い歴史と人間性により諸外国からも一目置かれている日本の皇室は、諸外国を訪問し戦後課題と向き合うなど、外交において重要な役割を果たしている。福田赳夫外相が「多くの外交官をもってしても天皇の親善外交には足元にも及ばない」とも述べた皇室の「ソフト外交」について、改めて見ていこう。


■日本の皇室が世界一 もっとも歴史深い王室


 海外には古い歴史をもつ王室は多く存在する。日本の皇室の誕生は紀元前と言われるが、確認できる歴史では6世紀に誕生して少なくとも1500年は継続している。


 日本皇室は最古だが、2位は10世紀に成立したデンマーク、3位は11世紀の発祥と言われるイギリス王室、4位は15世紀半ばに起源を持つスペイン王室、5位は何度も交代したが現在の王朝は16世紀に誕生したスウェーデン王室だ。


 また名称について日本では天皇だが、世界ではエンペラーと紹介されている。日本の情報を記したエンゲルベルト・ケンペル『日本誌』には徳川将軍は「世俗的皇帝」、天皇は「天子」・「帝」(ミカド)と呼称されたが「聖職的皇帝」と紹介され、明治時代になり天皇となっている。黒船で有名なペリー提督はやはり天皇について皇帝の名称を使っている。


 また本来なら武士政権が権力を奪取したとき皇室は消滅しても不思議ではない。中国の歴代王朝は政権が倒されると王朝そのものも瓦解している。ところが日本では、武士政権は皇室に敬意を払い、権力を奪取しても皇室は官位を武家に与えることで一定の影響力を持ち、武士政権はそれを最大限に活用した。


 さらに武士政権が終焉を迎え天皇に政治政権を返すという建武の新政、王政復古など皇室が断絶することなく、武士とのダブルスタンダードで時代を乗り越えてきたことが他国では例を見ない統治形態でもある。


 ともあれ1500年も継続している皇室は前代未聞の存在となっている。現在君主国家は28か国、それらの国々や王室を失った国から皇室は深い敬意を持たれている。福田赳夫外相は裕仁天皇の外遊に帯同した時、多くの外交官をもってしても天皇の親善外交には足元にも及ばないと述べている。一般の日本人には実感は薄いかもしれないが、諸外国からは長い歴史とその人間性についてリスペクトされており、日本には重要な外交資産ということができる。


 天皇外遊が協議されているとき、国会では天皇は国家元首か否か、議論が繰り返された。憲法では明記されておらず、天皇は国民統合の象徴ではあるが外国ではなかなか理解が難しいようで国際的には国家元首、国内的は象徴というこれもまたダブルスタンダードの様相となっている。これは今後の課題になるかもしれない。


 即位の礼や大喪の儀などで皇室は古き伝統のある儀式を行うなど変わらないシステムは続いているが、宮中での祭祀など国家と国民の安寧と繁栄を祈るシステムは続いており、政教分離の政策は堅持しつつ、新嘗祭、大嘗祭など田植え、稲の刈り入れといった農耕民族の形態を残している。


 昭和64年(1989)1月7日に裕仁天皇は崩御した。おりしもパリで化学兵器禁止の国際会議が開かれていたが参加国149か国の全員から黙とうが捧げられ、2月24日の大喪の儀では164か国、国際機関の代表や元首が参列、稀にみる規模となった。ただしオランダ王室だけ欠席している。


 裕仁天皇への同国の想いは最後まで変わらなかった。この時、日本特集の番組を組んだ各国の報道機関も多く、戦争責任問題も含めて皇室の存在をあらためて世界に問う機会にもなった。


 イギリス王室は外に向かってオープンだが、元来保守的な皇室の菊のカーテンはまだまだ厚く、他の王室に比べ不透明な部分はある。昨今、宮内庁はIT時代に合わせてインスタグラムで皇室を紹介するなど開かれた皇室を目指して尽力している。そうした神秘性と伝統的な祭祀を粛々と毎年こなしていく皇室は、その継続性がゆえに各国に畏敬の念を抱かせている。


 さて戦後課題と向き合った明仁天皇は、各地の激戦地を訪れて献花し深々とこうべを垂れる様子、それは慰霊の旅として知られているが在位時代、平和への願いを訴える象徴的な光景だった。


 最初は、沖縄や国内の戦場跡だったが、その後硫黄島はもとより、パラオ、ベトナム、フィリピン、ホノルルを訪れて戦死者、戦没者の冥福を祈る真摯な姿勢、さらには「お言葉」に表れるような平和への願いと一貫している。長年にわたってこの姿勢を退位するまで継続した想い、それは少なからず世界に影響を与えた。明仁天皇の努力により皇室外交は新たな使命を帯びることになったともいえる。


 戦後、裕仁天皇の名代として明仁皇太子は数多くの外遊をこなしたが、それは何も彼だけではない。三笠宮崇仁(みかさのみやたかひと)親王、高松宮宣仁(たかまつのみやのぶひと)親王、常陸宮正仁(ひたちのみやまさひと)親王など裕仁天皇の弟宮たちは新生日本との親交を深めるため諸外国を訪問している。戦後賠償が一段落すると、平和国家の使者としてアジア諸国を、欧米を始め各地を訪問している。


 首相や閣僚の政治外交使節ではないために、この皇室によるソフト外交は日本をめぐる国際環境を整えるためには今後も重要な役割を果たすことは間違いないだろう。


監修・文/波多野勝


『歴史人』2024年10月号「天皇と皇室の日本史」より






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同じ皇室でも思想や行動がまったく違う…天皇家と秋篠宮家の"兄弟確執"が解消されない根本原因

2025年01月08日 21時03分07秒 | 皇室のこと

同じ皇室でも思想や行動がまったく違う…天皇家と秋篠宮家の"兄弟確執"が解消されない根本原因


1/11(水) 17:17配信2023
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新年一般参賀であいさつされる天皇陛下=2023年1月2日午前、皇居 - 写真=時事通信フォト

■“冷戦”状態のきっかけは「人格否定発言」  

このままでは「令和の壬申の乱」が起きるかもしれない。 

【この記事の画像を見る】  

イギリスのチャールズ国王の次男・ヘンリー王子が自伝『スペア』の中で、妻のメーガン妃に対して批判的な物言いをした兄のウィリアム皇太子と口論になり、兄がヘンリー王子の襟首をつかんで床に叩きつけたと主張しているという。 

兄弟は他人の始まりというが、振り返って、この国の兄・天皇と弟・秋篠宮の関係も長年、“冷戦”といってもいいような状態が続いているのではないかと思い至った。  

壬申の乱は、672年、兄・天智天皇の後継を望んでいた同母弟・大海人皇子が、天智天皇崩御後、子どもの大友皇子が弘文天皇に即位したことを恨み、兵を挙げ、自害に追い込んだといわれる内乱である。

  時代背景も人心も違う現代で、このようなことは起こりえないだろうが、似たような構図が天皇と秋篠宮にあることは否定できないのではないか。

  天皇家と秋篠宮家との関係を年代順に見てみたい。  

萌芽は2004年だった。

皇太子(当時)が会見で、

「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあった」と発言した。

「浩宮の乱」とまでいわれて騒ぎになった。 

■「壬申の乱の勃発を招きかねません」

 秋篠宮はそのことについて、

記者会見という場で発言する前に、せめて陛下と内容について話をして、そのうえでの話であるべきではなかったかと思っております」と苦言を呈した。

  秋篠宮のいい分に利ありとメディアは挙(こぞ)って秋篠宮贔屓になり、雅子妃へのバッシングをさらに強めていった。

  当時の首相だった小泉純一郎氏は、皇室に皇太子の次の後継男子がいないことを憂えて、2006年1月に「有識者会議の報告に沿って皇室典範の改正案を提出する」と宣言し、女性・女系天皇を認める方針を打ち出した。

  だが、その直後の2月7日、NHKが「紀子さまご懐妊の兆候」というスクープを報じた。 

 当時官房長官だった安倍晋三氏は、

「神風が吹いた」と話したという。秋篠宮家に男の子が生まれるかもしれないのだ。  

皇嗣典範改正の見送りに逡巡していた小泉首相に安倍氏は、「お子さまが男子の場合、皇室典範改正は正当な皇位継承者から継承権を奪うことになります」。さらに、そんなことをしたら「壬申の乱の勃発を招きかねません」と助言していたと、元NHK記者で、安倍氏と最も親しかったといわれていた岩田明子氏が文藝春秋(2022年12月号)に書いている。 

 そして、2006年9月6日、秋篠宮家に長男が誕生したのだ。 

 眞子さん、佳子さん、次代の天皇である長男・悠仁さんに囲まれた秋篠宮夫妻は幸せな家族の象徴となった。 

 だが、美智子皇后(当時)はそんな息子たちを見ながら、一人心を痛めていたという。

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天皇陛下(当時)が心臓のバイパス手術を受けるために東大病院のICU(集中治療室)に入っていたときのことだという。 

 「実は、手術が終わったのち、真っ先に紀子妃殿下から病院関係者に『お見舞いに伺いたい』との打診があったのです。それを受け、医師団と侍従職が折衝し、一旦は手筈が整っていました。ところが、そうした動きをお知りになった雅子妃殿下(当時=筆者注)のご意向が、直前になって伝わってきたのです。それは、『順序が違うのではありませんか』という、強いご不快のお言葉でした」(さる秋篠宮家関係者)  これにより紀子さんのお見舞いは叶わなくなったという。 

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■メディアの「雅子妃バッシング」も燃えさかり…  

「まず10月下旬、皇后さまのお誕生日の夕食会において、皇太子ご夫妻が途中退席されるという出来事がありました。また11月に入って悠仁さまの七五三にあたる『着袴の儀』が執り行われますが、お祝いの宴も皇太子ご夫妻は欠席されています」(宮内庁担当記者)  

元々皇太子一家は葉山で静養する予定が入っていて、出席するつもりはなかったというのである。  

また、同じころ、天皇が気管支肺炎で入院したが、見舞いは秋篠宮夫妻が最初で、皇太子は兄妹の中で最後になった。雅子妃は発熱のために行かれず、見舞いに行ったのは天皇が退院後、3週間以上も後だったと報じている。

 「両妃殿下が確執の只中にある現状は、むろん皇室にとって由々しき事態である」(新潮)  この当時は、適応障害でなかなか公務にも出られない雅子妃に対して、メディアが厳しい批判を繰り返していた。

  公務には出ないのに、娘の愛子さんの修学旅行に付き添って高級ホテルに泊まったではないか。実家に何度も里帰りしているのはおかしいなど、雅子妃バッシングが燃えさかっていた。

  2008年2月には、羽毛田信吾宮内庁長官(当時)が、公式の定例記者会見で、「愛子さまが両陛下を訪問なさる回数が少ない」と発言することもあったのである。  

当時、秋篠宮に皇太子の位を譲るべきだという「廃太子論」までが雑誌に載ったこともあった。そのために美智子皇后は一計を案じたと、女性自身(2019年4月30日号)が報じている。

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■皇室典範が改正されたら、秋篠宮家はどうするのか  

私は愛子天皇待望論者である。可能性はあると思っている。先のように、安倍元首相は愛子天皇を選択肢として考えていたようだ。 

 岸田文雄首相は何を考えているのか分からないが、このところの反撃能力容認、防衛費のGDP比2%増など、安倍元首相がやり残した路線を闇雲に突っ走っているように見える。  

だとすれば、皇室典範を改正して女性天皇を容認することもあり得るのではないか。

  そうなった時、秋篠宮はどう感じ、どう動くのだろう。紀子さんは天皇の母「皇太后」になることを心待ちにしているといわれる。  

だが、仮に今上天皇が上皇と同じ年で退位したとして、その後を愛子さんが継いだとすれば、悠仁さんが天皇に即位するのは50代以降ということになるのではないか。  

卑近な例で申し訳ないが、世襲企業がダメになる理由の多くは、跡目争いからである。

■兄弟が胸襟を開いて話し合うことが必要だ  

高貴な生まれの方たちだから、そのようなことはないと思う。だが、小さな火種だが、このままにしておいては、安倍元首相がいったような“困った事態”になるかもしれない。 

 そのためには、天皇と秋篠宮が何度も会い、胸襟を開いて話し合うことが必要なこというまでもない。 

今年、3年ぶりに行われた一般参賀に、愛子さんが初めて出席した。最初はやや緊張気味だったようだが、その初々しい姿が参列した人たちに「かわいい」と、好感をもたれたようだ。  

これからは「皇室の顔」になる愛子さんを、このままどっちつかずの状態のままにしておいていいはずはない。愛子天皇実現には、表立ってはできないが、内々、秋篠宮の同意も必須であるはずだ。 

 子どもの頃、仲のいい兄弟だった2人だから、できないはずはない。2人が談笑している姿を、多くの国民も見たいと思っているのは間違いないのだから。 



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